« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »

2015年7月29日 (水)

「私は生きたいの。今、私がすべき事をしたい」【メッセンジャーナース通信 2015.7.28 No.101】

728日、メールマガジン「メッセンジャーナース通信」の101号を発行しました。今号は、全号に続きメッセンジャーナースが動きが透けてみえるだけではなく、熊本、新潟、岡山、長崎、東京・・・と、実践活動やそれに伴う声・声・声です。研鑽セミナーへのお誘いも含めて、盛りだくさんです。その動きは地域の特性を生かした活動になってきました。

 

10月17日の栃木での総会準備は、県内の同志の輪を集会によって着実に拡げている栃木勢によって着々と進められています。 

購読登録が未だの方はこちらからできます。
 ⇒ http://www.mag2.com/m/0001196132.html

 メッセンジャーナース認定協会へのお問い合わせは、messenger.ns@e-nurse.ne.jp までお願いします。

|

2015年7月26日 (日)

本日26日午後6時30分TBS系で放送する「夢の扉+」(全国ネット)、塩田ジャーナリストの取材です。

メッセンジャーナースの後押しをして下さっている塩田ジャーナリストからのお知らせです。

1本目は、7月26日(日)午後6時30分TBS系で放送する「夢の扉+」(全国ネット)
これは、岐阜県の東白川村という人口2500人たらずの小さな村の破綻寸前の危機を救った村役場のスーパー公務員の物語です。

2本目は、7月29日(水)日本テレビ「ニュースエブリ」の特集(放送は午後6時10分~ころ)(関東ローカル)
こちらは、百万人の一人という難病によって、手の指がわずか数センチしか動かないという寝たきりの若者が、自ら会社を立ち上げ、大成功したという前代未聞のような話です。
さらに、かれのチャレンジはそれだけに留まらず、仕事のない他の障がい者が働く環境まで作り始めたのです。
「どんなに障がいがあっても、できる仕事はある」
かれはそれを証明したいとほんの数センチしか動かない指で奮闘しているのです。


こんな類まれなチャレンジャーを取材して、、僕自身もまた大きな元気をもらいました。

皆さんも、是非番組を通して、彼らのパワーを感じて下さい。(塩田芳享)

|

2015年7月13日 (月)

コラム「語り部通信」Vol.7 『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『深い河 ディープ・リバー』まで ――遠藤ボランティアグループ誕生の源流をさぐる―― 原山建郎(Harayama Tatsuro) 

『わたしの健康』編集者時代、私は作家・遠藤周作さんの「からだ番(小説の担当でなく、健康雑誌の対談担当)」記者でした。遠藤ボランティアグループは、遠藤さんが1982年に提唱した「心あたたかな医療(病院)」キャンペーンをきっかけに誕生しました。
 その後、私は遠藤さんの小説『わたしが・棄てた・女』(1964年)や『沈黙』(1966年)、最晩年の『深い河 ディープ・リバー』(1993年)に、「心あたたかな医療」のモチーフや「病院ボランティア」呼びかけの伏線に気づきました。そして、晩年は仏教の生命観やユング心理学にも引かれた遠藤さんの死生観の考察も含めて、メルマガ『トランネット通信』の連載コラム「編集長の目」(118122回)に、400字詰め原稿用紙にして約70枚という、いささか長尺の拙文を寄稿しました。
 何回かに分けて、遠藤ボランティアグループ誕生の「源流をさぐる旅」に出ましょう。
 

. 『わたしが・棄てた・女』    1971年秋、入社五年目の私は、翌年の『主婦の友』新年号から始まる遠藤周作さんの対談シリーズ担当を命ぜられた。遠藤さんは代表作のひとつ『わたしが・棄てた・女』を、1963年の『主婦の友』に連載(1964年に文藝春秋新社から単行本化)したことがあり、当時の小説担当だった先輩記者・関口昇さんが、新前記者の私を遠藤周作番に推挙してくれたのだった。  関口記者が担当した『わたしが・棄てた・女』は、ひたむきで純真な主人公・森田ミツ、かつて強引に彼女の体を奪い、そして棄てた男・吉岡努の生き方を描いた作品である。

 ある日、吉岡が偶然再会したミツは、まだ彼を一途に愛していた。しかし、彼女にはハンセン病の疑いがあり、これから精密検査のために御殿場の病院に行かなければならないと涙を見せる。おざなりの慰め言葉をかけた吉岡は、逃げるようにその場を立ち去った。
 その後、勤め先の社長の姪・三浦マリ子と結婚した吉岡だったが、なぜかミツのことが気になって、病院に年賀状を送ると、返信の代わりにひとりの修道女から手紙が届いた。
 その手紙にはミツのその後の様子が書かれていた。精密検査の結果、ハンセン病でないことが判明したミツは、はじめは喜んで東京に帰ろうとしたのだが、やがてハンセン病の患者としてではなく、奉仕の生活を送る修道女たちの仕事を手伝うために、再び御殿場の病院に戻った。そこには好きな流行歌を口ずさみながら、病院の厨房や配膳を手伝うミツの充実した日々があった。しかし、手紙の最後には、ミツが交通事故で亡くなったこと、ミツが最後に遺した言葉が「さいなら、吉岡さん」だったことが記されていた。

 主人公の森田ミツは、実際にハンセン病と診断されながらも誤診で、のちに看護婦になった経歴を持つ女性・井深八重がモデルである。隔離入院させられた八重は、誤診が判明したのちも病院にとどまり、やがて看護婦の資格を得て、御殿場市にある「神山復生病院」の看護婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の奉仕に捧げたという。

 『わたしが・棄てた・女』の主人公・ミツは、容態が悪化したハンセン病の子ども(壮ちゃん)を看病しながら、「壮ちゃんが助かるなら、自分がどんなに苦しくても辛抱する」とつめたい木造病棟の床にひざまずいて祈るが、その甲斐もなく子どもは息を引きとる。ミツは「あたし、神さまなど、あると、思わない。そんなもん、あるものですか」とひどく嘆く。さらに、「神さまがなぜ壮ちゃんみたいな小さな子供まで苦しませるのか、わかんないもの。(中略)子供たちをいじめるものを、信じたくないわよ」とミツに言わせている。
 このモチーフは、やがて1980年代に、遠藤さんが「心あたたかな医療」キャンペーンを始めるきっかけになった遠藤家のお手伝いさんの死にも重なってくる。
 当時二十歳代で骨髄ガンに罹った彼女は担当医から余命一カ月と家族に告知され、それでも治療とは関係のない採血だけはつづけられた。
 実は同じころ、遠藤さん自身も上顎ガンの疑いをもたれ、精密検査の結果がどう出るか、不安な日々をすごしていた。遠藤さんは本人にはガンと告げずに励まし、病院には不必要な検査をやめてほしいと交渉した。しかし、病院からの答えは「今後のガン治療の参考になる血液データをとるため必要です」と、にべもない。

|

2015年7月 2日 (木)

「短期集中型」で準備をするので慌ただしい一日となってしまいましたが、訪看メンバー総動員でがんばりましたヽ(^。^)ノ  原田訪問看護ステーションは、今日から11周年に向けてまた1歩・・・です。

昨日は、温かいメッセージをいただきありがとうございました。

10周年記念日は、朝からの雨はお昼にはあがり、イベントもぶじ終えることができました。

いつものことながら、「短期集中型」で準備をするので慌ただしい一日となってしまいましたが、訪看メンバー総動員でがんばりましたヽ(^^)Dsc00031_2_5


まず、毎年恒例の「くすだま割り」もちろん手作りです。そして村松先生のメッセージ・ご発声にあわせての「乾杯」

スタッフ手作りのケーキに「入刀」  20周年表彰の披露・みんなでお祝い  こんな感じでつつがなくお開きとなりました。

今日からは、11周年に向けてまた1歩・・・です。  原田訪問看護センター(藤田明美 原田さをり 事務:久見瀬美奈子)

|

2015年7月 1日 (水)

本日、7月1日、LLP組合員の原田典子さん(メッセンジャーナース)が率いる原田訪問看護ステーションが10周年を迎えました。また、岡山のメッセンジャーナースが率いる岡山在宅看護センター晴が始動します。同志がこうして繋がって行くって嬉しいコト!

        H2_6              

原田訪問看護ステーション、10周年おめでとう!


H1_4

Photo_2P5171039_5

岡山在宅看護センター晴、

開設始動おめでとう!

|

コラム【「からだ」番記者レポート】 Vol.6 ビフォア/アフター、ゑびす顔。

Vol.6  2015.7.1 ビフォア/アフター、ゑびす顔

遠藤周作さん発案による連載「治った人 治した人」(『わたしの健康』198184年)は、まず、鍼灸・漢方薬・整体治療などの東洋医学、昔ながらの民間療法、そして話題の最新医療まで、その治療を受けて「治った人」(複数の体験者)を取材して、次に、鍼灸師、漢方医、西洋医、歯科医、薬草研究家など、患者を実際に「治した人」(治療家)と遠藤さんが対談するという「ちからこぶ」企画だった。
 連載は4年つづいたが、私が『主婦の友』(読み物デスク)に戻った1年を除く3年間(36回)は、毎月のテーマ(治療法)を提案するために、さまざまな資料に目を通し、代替療法にくわしい専門家の話を聞いた。

と書くと、いかにも担当者がテーマ探しに苦労したようだが、実際には遠藤さんの特ダネ情報が、月に4つか5つ、電話で寄せられる。この連載以前から温めていた名医の情報、空港や駅の売売店で見つけた健康法の新書・雑誌情報、自らが主宰する劇団樹座[きざ]や宇宙棋院[うちゅうきいん]のメンバーからの情報などが、多彩な人脈を総動員して集まってくる。
 それは、貴重な情報ではあるが、地曳き網漁のように網にかかった魚をこの目で見ないと、大物の魚(採案)か雑魚(ボツ)かがわからない。それを確認するのが担当者の仕事だが、玉石混交の健康情報は半端な数ではない。
 ご存じのように、遠藤さんは「せっかち」な性格である。思い立ったら、すぐに電話をかける。会社が休日のときは、担当者の自宅にかけてくる。

「お父さん、遠藤とかいう、男の人から電話だよ」

ことし39歳になった長男が、まだ小学生だったころの話だが、あわてて電話口に出ながら、冷や汗をかいた。
 一回だけ、遠藤さん自身が「治った人」(体験者)で登場した。4年間の連載が終了して半年後、遠藤さんから電話があり、番外編「治った人 治した人」(19858月号)で、記事のタイトルも「遠藤周作さんの髪がよみがえった」として掲載された。
 「頭皮緊張緩和器[とうひきんちょうかんわき]」という器具を3カ月間装着して、後頭部の髪の毛が確かに濃くなった、遠藤さんのビフォア/アフターが誌面を飾っている。
得意満面! 遠藤さんのゑびす顔。 

遠藤ボランティアHP⇒こちら 

|

« 2015年6月 | トップページ | 2015年8月 »