【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」No_171 高齢者の自由と誇りとやすらぎを奪う「身体拘束」をやめる――決意と実践。
10月25日(水)にアップした連載コラム「つたえること・つたわるもの」№171をお届けします。https://gomuhouchi.com/serialization/54154/
高齢者の自由と誇りとやすらぎを奪う「身体拘束」をやめる――決意と実践。
コラムの冒頭でもふれましたが、3カ月前、東京・吉祥寺の絵本と児童書専門店『緑のゆび』の小さな集まりで、『遠藤周作の遺言――「病院はチャペルである」』について話をしたあと、参加者のお一人、吉岡充さん(医師、多摩平の森の病院理事長)から、『こんな介護がしたい――認知症の人との幸せ時間のつくり方』をいただきました。
私は以前から「認知症ケア」に関心を持っていて、かつてコラムを書いていた『トランネット通信』「編集長の目」№133『医学的「認知症」の時代から、考える「認知症ケア」の時代へ』では、アメリカのソーシャルワーカー、ナオミ・フェイルの『バリデーション』(藤澤嘉勝監訳、篠崎人理・高橋誠一訳、筒井書房、2001年)に書かれた「認知症に対するナオミ・フェイルの仮説」――私たち人間が人生の異なった段階を生きていくときに、それぞれの段階で解決しなければならない「人生の課題」があると仮定して、人によってはその問題を解決しないまま人生の最後を迎えることがある。そのような人は人生の最終章に、4つの解決のステージ、つまり①認知の混乱、②日時、季節の混乱、③繰り返し動作、④植物状態、それぞれの解決ステージを迎える――を紹介しました。
同書では、たとえば、感情的な対応になりやすい家族のケアギバー(介護者)には、「認知症の人」が生きる最終ステージを「共に生きる」覚悟が求められる。それと同時に、「認知症の人」が長い間、解決できずに積み残していた「人生の課題」が最後に解かれる瞬間を「共有できる」可能性もゼロではない。しかし、同書の訳者・高橋誠一さんは、認知症の人と「共に生きる」ことはなかなか難しいことであり、その理由は介護者自身の人生の課題でもあるからだと、次のように書いています。
この問題は答えがはっきりしている算数の問題を解くようにはいきません。なぜなら、問題の中に私たち自身が含まれているからです。それを解こうとしている自分を問題から切り離すことができないのです。結局、他人事のような解決は不可能なのです。ケアとはそもそもこのような性質をもったものなのだと思います。ケアをする人とケアを受ける人を分離することはできないのです。それでも無理をして分離しようとすると、ケアではなく仕事や作業として考えるしかありません。認知症の場合、ケアする人だけが主体となり、ケアを受ける人は対象となります。このような関係の中では、主体同士が共に生きるということは生まれないでしょう。
(『バリデーション』「訳者あとがき」315ページ)
前置きが長くなりましたが、本コラムの最後を、「認知症の人」が今まさに取り組もうとしている「人生の課題」をまっすぐ受け止め、そして「身体拘束をやめる」と決意し「新しい認知症ケア」を実践しながら〈心あたたかな〉まなざしで見守る「日本の良医(グッド・ドクター)」のお一人、吉岡充さんへの感謝の言葉で結びました。
いまから37年前(1986年)、吉岡さんの母校(東京大学医学部卒)である東大病院の「入院案内」が、作家・遠藤周作さんのアドバイスによって〈心あたたかな〉「入院のご案内」に改訂された、その同じ年に、吉岡さんが、〈高齢者の自由と誇りとやすらぎを奪う「身体拘束」をやめる〉と決意し、高齢者としての生き方を尊重する、新しい「認知症ケア」をめざした道のりは、さきに鎌田實さんが提示したキーワード、まさに「あたたかで理にかなった」「身体拘束をしない」「新しい認知症ケア」の実践であるとともに、1982年に遠藤さんが提唱した「心あたたかな医療」キャンペーンの一翼を担う、力強い奔流のひとつとなっている。
お時間のあるときに、お読みください。
☆原山建郎☆
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