6)原山建郎のコラム

2016年12月19日 (月)

この18日、NHKラジオ第二放送「宗教の時間」で、遠藤周作さんの遠藤ボランティアグループ代表の原山建郎(はらやま・たつろう)の語りが流れました。12月25日(日)夜6:30~7:00再放送 来年は、遠藤ボランティアグループ、結成35周年の年です。  

この18日、NHKラジオ第二放送「宗教の時間」で、遠藤周作さんの遠藤ボランティアグループ代表の原山建郎(はらやま・たつろう)の語りが流れました。1225日(日)夜630700再放送があります。 「宗教の時間」「神は愛の行為しかなさらない――遠藤周作の信仰と心あたたかな医療」に

来年は、遠藤ボランティアグループ、結成35周年の年です。  

 

放送の内容は、『これから救われるのではなく、「すでに救われている自分」であることに気づくこと、それが全ての宗教の目標だと思います』という文脈の中で、遠藤さんの『神は愛の行為しかなさらない』を語りたいと思ったから構成されていたのです。


原山さんは、現在、武蔵野大学仏教文化研究所の研究員として、「終活」ではなく、「仏活」にいそしんでおり、遠藤さんが書きたかった『私のヨブ記』、死では終わらない「奇跡の物語」を、私なりにキリスト教と仏教、二つの視点から探究してみたいと考えてお出でです。

遠藤周作さんが長編エッセイとして書きたいと思っていたのですが、存命中にはその願いを果たせなかった『私のヨブ記』のことをお話しになられ、その内容にディレクターが注目したことから、「奇跡の物語」としての『私のヨブ記』は、いまも「心あたたかな医療」運動の実践という「奇跡」として書かれているというパラグラフを、最後の部分話されておりました。

来年は、遠藤ボランティアグループ
(病院ボランティア)、結成35周年の年です。

 

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2016年12月10日 (土)

遠藤ボランティアグループ代表・原山建郎さん、NHKラジオ第二放送(AM)「宗教の時間」出演のご案内:12月18日(日)朝8:30~9:00放送、12月25日(日)夜6:30~7:00再放送予定のNHKラジオ第二放送の番組、「宗教の時間」「神は愛の行為しかなさらない――遠藤周作の信仰と心あたたかな医療」に

 

遠藤ボランティアグループ代表・原山建郎が出演し、34年前に遠藤周作さんが提唱して始まった「心あたたかな医療」が、2016年のいま、日本の病院は患者にどのような医療を提供しているか、日本に「良医」は増えているかなどの検証レポート、また、遠藤さんが書きたかった『私のヨブ記』についても私見を述べられます。

 

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2016年8月22日 (月)

永六輔さんのことを書きました。「死では終わらない物語、傾聴の護美箱」(連載コラム「ブックセラピー」№56) ☆原山建郎★

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                                            (『出版ニュース』2016年8月中旬号

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2016年7月 3日 (日)

【コラム「からだ」番記者レポート⑨】VOL.9心あたたかな、一人オーディション 原山建郎(Harayama Tatsuro) 

昭和58(1983)年5月、遠藤周作さんは、東京・南青山の平田医院で痔の手術を受け、その日に退院した。執刀医は二代目院長、平田洋三ドクターである。青山学院大学建築学科を卒業後、さらに東京医科大学で医学を修めた医師だが、ドクター・ヒップスの愛称で親しまれた、良医にして名医である。

その数カ月前、健康雑誌の連載対談『遠藤周作の「治った人、治した人』に登場した平田ドクターは、手術は即日退院(日帰り手術)をめざす、「患者さん本位の親切医療」を心がける、この二つを強調した。
たとえば、従来は開脚位が常識だった手術姿勢を、患者の羞恥心をとり除くために、平田ドクターの左利きも考慮した右側側位(右肩が下になるように横になる)に変更された。これで、患者は執刀中の医師と目を合せずに手術を受けられるようになった。
また、平田医院の玄関には、「屈んで靴を履く姿勢は、痔の痛みを増強する」ことへの配慮から、上体を支える〈靴脱ぎ石〉が設置されていた。
まず、を選択した遠藤さんだが、もちろん「心あたたかな医療」のにも注目。心強い名・良医を得たと喜ぶ遠藤さんから、「樹座の一人オーディションを受けてもらおう。平田先生にすぐ連絡を!」とご下命があった。
審査会場は、青山のとある酒場。審査員は遠藤座長、原山座員の二名。平田ドクターのみごとなピアノ弾き語りに耳を傾ける。本来なら音痴が入団の条件だが、ここは「心あたたかな」審査基準でクリア、晴れて座員となる。
かくて樹座の初舞台を踏んだ平田ドクターは、遠藤さんはもちろん多くの音痴仲間との親交を深めたのである。

昭和62(1987)年、平田肛門科医院の第三代目ドクター・ヒップスに、平田雅彦院長が就任した。三代目は、先代の診療を、早期治療で、痔は切らずに治す、「心あたたかな医療」を待合室の環境、生活指導に生かすなど、さらに大きく進化させている。
たとえば、待合室のイスは女性用男性用に分かれ、すべて正面向きなので目を合わせずにすむ。呼び出しは番号だが、診察室に入ると雅彦院長が名前を呼んでくれる。病院処方薬は中身が見えない袋に入っている、などなど。                   受け継がれる、心あたたかな医療。

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2016年6月13日 (月)

『出版ニュース』誌6月中旬号が発売されました。連載コラム「ブックセラピー」№54に、「つないで紡ぐ、メッセンジャーナース。」を書きました。素敵な一言・・相手の心に向き合う“目と手”が不可欠(原山建郎)                      

過日は素晴らしい会にお招きいただき、ありがとうございました。

その際、お約束した『出版ニュース』誌の連載コラム「ブックセラピー」№54に、メッセンジャーナースのことを書きました。

本日、『出版ニュース』誌6月中旬号が発売されましたので、早速、誌面のPDFを添付いたします。

 

在宅看護研究センターLLP(有限責任事業組合)が、五月に創設30周年を迎えた。・・・村松さんの素敵な一言。「察して行動、つないで紡ぐ。紡ぐには、察する勘が必要。相手の心に向き合う“目と手”が不可欠。」

PDFは⇒ 「54.pdf」をダウンロード

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原山さん、交流会での心温まるご挨拶、そしてこのたびのお心、本当にありがとうございます! (村松)

 

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2016年5月11日 (水)

在宅看護研究センター30周年、懇親会の席 遠藤ボランティアグループ代表・原山建郎氏のスピーチを一部ご披露

遠藤ボランティアグループを代表して、心からお祝い申し上げます。私ども遠藤ボランティアグループは、作家の故遠藤周作さんが、1982年4月、讀賣新聞夕刊で提唱した「心あたたかな病院(医療)」キャンペーンから生れた病院ボランティアグループです。最初は6人の女性メンバーで発足し、あれから34年がたった現在もなお、約50人のメンバーが8つの病院・介護施設において、「傾聴」ボランティアをめざしながら活動をつづけております。

本年は、遠藤さんの没後20年の年ですが、遠藤さんの「心あたたかな医療」キャンペーンをしっかり支えてきたのは、在宅看護研究センターの村松静子さんなどプロナースの皆さん、在宅ホスピス医・内藤いづみさん、大腸肛門科の女医・山口トキコさん、そして遠藤ボランティアグループのオール女性メンバー、すべて女性のちからです。今夕は、在宅看護研究センターとの「遠藤周作つながり&心温まる医療」というご縁を手がかりに、いくつかお話をさせていただきます。

遠藤さんと「ナース(看護婦さん)」をめぐるエピソードを、二つ、ご紹介します。

1955年、『白い人』で第三十三回芥川賞を受賞した遠藤さんは、1960年に肺結核が再発し、その後3年間の入院生活を経験されます。翌1961年、38歳のときに、慶應病院で三度の大手術を受けました。三度目の手術のときには、一時、心臓停止の危機を迎えましたが、奇跡的に手術は成功します。長期入院を余儀なくされた遠藤さんは、夜になると術後の痛みがはげしくなり、看護婦さんに助けを求めました。「おつらいでしょうね」と言って、看護婦さんは、遠藤さんの手をそっと握ってくれたのです。すると、その痛みが少し薄らぎました。「痛みを一人で耐えるのではない。痛みを共有してくれる人が、そばにいてくれる、その安堵感がからだの痛みをやわらげてくれた」というエピソードを、直接うかがったことがあります。

もうひとつは、あるとき、遠藤さんが入院中にお世話になった看護婦さん三人を、食事に招待したときのことです。レストランに向かう途中、車がネコを轢いたのを見た看護婦さんの一人が「キャーッ」と悲鳴を上げて、思わず顔をおおいました。遠藤さんが、「あなたは手術場の看護婦さんだから、血を見ても平気なはずでしょう」と言うと、「手術場は病院で、ここは病院じゃないんですもの」と答えたのだそうです。つまり、日常的な神経(生活での日常感覚)と病院の中での神経(病院での日常感覚)とでは、その場の環境、役割意識によって感覚が異なるわけで、たとえば「病院の日常」では、医療スタッフが気づかぬうちに患者に無用の苦痛や屈辱を与えていることも、案外多いのではないか、というのです。

 

「入院患者の苦しみというのは、結局、孤独感です。とくに慢性病や末期の患者さんは、夜が苦しい。五時の夕食のあとは、検査もない、見舞い客もいない。じっとしているだけです。そのとき、ぐちを聞いてくれるだけのボランティアというのはできないでしょうか」

たとえば、病室での身の回りのお世話、車椅子でのお散歩を介助しながら、患者の話を聞く、それが自然体の〈傾聴〉ボランティアではないだろうか、そういう病院ボランティアがあってもいいのではないか、遠藤さんは素朴にそう考えていたのです。

しかし、友人の河合隼雄さんから、「ほんとうのボランティアというのは、非常にむつかしい。ボランティアというのは、善意によって人を傷つけるという、まさに天才的なことをやることがある。これがいちばんこわいですね。傷つけられたほうはわかるけど、傷つけたほうは喜んでいるわけですからね」と指摘された遠藤さんは、「そうなんですか。それを私は考えとったんだけど、ボランティアはむつかしいんですか」と、思わずたじろぎました。

すると河合さんは、「たとえば私が遠藤さんの髪を散髪してあげましょうかと言ったら、断るでしょう。当然ですわな、私は髪の刈り方よう知らん人間ですから…… 髪をさわるだけでも相当な訓練がいるのに、なぜ心をさわる人だけが訓練を受けなくていいのか、ということを私は申し上げたい」と。この二人のやりとりは、遠藤ボランティアグループが、年に数回「傾聴」を学ぶための講座を開催し、つねに学びつつ病院ボランティアを行う、遠藤ボランティア誕生の出発点となったのです。

在宅看護研究センターが大切にされている看護の心と技」の考え方とも、相通じるエピソードですね。

 

遠藤さんは病院ボランティア活動を提唱する自分の役割について、つねづね、「ボランティアの皆さんの踏み石になりたい」と語っておられました。はじめのうちは、不安定でグラグラしていても、たくさんの人々が踏んでくれて、そのまわりに新たな踏み石を置いていけば、やがてしっかりしてくるというのです。

「捨て石にはなりたくないが、踏み石には喜んでなろう」

結核の手術で肋骨を7本もとられ、肝臓病、糖尿病、腎臓病などの慢性病に苦しめられてきた遠藤さんのことばは、いまでも私の耳の奥でやさしく響いています。 

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2015年10月25日 (日)

コラム【「からだ」番記者レポート】 Vol.9君もいっしょに来てくれんか 原山建郎(Harayama Tatsuro) 

遠藤ボランティアグループ代表兼顧問     原山建郎(はらやま・たつろう) 1946(昭和21)生まれ。
主婦の友社の雑誌『主婦の友』編集部で作家・遠藤周作氏の担当記者となり、その後『わたしの健康』編集長時代に遠藤氏が提唱した「心あたたかな医療」キャンペーンに加わる。 遠藤ボランティアグループ発足時、遠藤氏の要請を受けて同グループ顧問となる。 数年前からは代表に就任している。 2003(平成15)年より、フリーの健康ジャーナリストとして取材・執筆・講演活動を行っている。 現在は、武蔵野大学・龍谷大学・文教大学・東洋鍼灸専門学校非常勤講師。 一般財団法人東方医療振興財団評議員。医療ジャーナリスト懇話会会員。 西野流呼吸法塾生。主な著書に、『からだのメッセージを聴く』(集英社)、『身心やわらか健康法』(光文社)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社)、『あきらめない!もうひとつの治療法』(厚生科学研究所)などがある。
 

Vol.9  君もいっしょに来てくれんか

昭和60(1985)年のある日、折り入って相談したいことがあるという電話が入った。 「実は、笹川(良一)が表彰すると言うてきた。賞金も出るそうや。ボートレース(競艇)の会長からカネをもらうというのは……、どんなものか」
何でも、笹川良一氏が会長を務める日本船舶振興会の関連団体、日本顕彰会の事務局から、遠藤さんが提唱した「心あたたかな医療」キャンペーンに対して、特別社会貢献者表彰をしたいという連絡があったのだという。
これはあとでわかったことだが、遠藤さんの他に、歌手の村田英夫、女優の山田五十鈴、発明家の中松義郎、エイミー・カーター(ジミー・カーター米大統領の娘)なども、特別社会貢献者(個人)表彰のメンバーだった。

「遠藤先生の〈心あたたかな医療〉キャンペーンは、営利目的ではないのですから、その賞金をいかにきれいに使うか、その一点さえ踏まえればまったく問題ない、と私は思います」
 電話口から「ナルホド!」という、安堵の口吻が伝わってきた。
「ところで、もうひとつ相談がある。その表彰式に君もいっしょに来てくれんか。忙しいだろうが、頼む」
11月20日(水)、遠藤さんの付き人として、東京・港区にある笹川記念会館までごいっしょすることになった。

表彰式は、常陸宮殿下・同妃殿下のご臨席を仰ぐという、少々堅苦しい雰囲気のなかで執り行われた。当時、笹川会長は86歳(1995年、96歳で没)だったが、声も若々しく、とても上機嫌の様子だった。
われらが(62歳の)遠藤さんは、式典の華々しさに少なからず困惑し、壇上で表彰状と金一封を受けとるときも、硬い表情を崩さなかった。
帰りのハイヤーで、真顔の遠藤さんは、もうひとつ頼みがあるという。
「ここに二十万円(金一封)がある。その半分、十万円は遠藤ボランティアの活動資金として使ってほしい。残りの十万円は、『遠藤周作のあたたかな医療を考える』(讀賣新聞社、1986年)で世話になった担当編集者のM君に直接渡してくれないか」

「心あたたかな医療」の守護天使、パウロ・遠藤周作のことばである。 

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2015年10月 4日 (日)

コラム【「からだ」番記者レポート】 Vol.8京都に、おでん食べに行かんか 原山建郎(Harayama Tatsuro) 

遠藤ボランティアグループ代表兼顧問   原山建郎(はらやま・たつろう) 

1946(昭和21)生まれ。 主婦の友社の雑誌『主婦の友』編集部で作家・遠藤周作氏の担当記者となり、その後『わたしの健康』編集長時代に遠藤氏が提唱した「心あたたかな医療」キャンペーンに加わる。 遠藤ボランティアグループ発足時、遠藤氏の要請を受けて同グループ顧問となる。 数年前からは代表に就任している。 2003(平成15)年より、フリーの健康ジャーナリストとして取材・執筆・講演活動を行っている。 現在は、武蔵野大学・龍谷大学・文教大学・東洋鍼灸専門学校非常勤講師。 一般財団法人東方医療振興財団評議員。医療ジャーナリスト懇話会会員。 西野流呼吸法塾生。主な著書に、『からだのメッセージを聴く』(集英社)、『身心やわらか健康法』(光文社)、『最新・最強のサプリメント大事典』(昭文社)、『あきらめない!もうひとつの治療法』(厚生科学研究所)などがある。 

Vol.8   京都に、おでん食べに行かんか

遠藤さんは、ときどき謎かけめいた電話をかけてくる。たとえば、「京都に、おでん食べに行かんか?」

「はい、おともします」「来週○曜日○時、京都ホテルで」  早速、編集長に「遠藤先生と打ち合わせです」と出張届けを出す。 

京都ホテルのロビー、「こっちだ、こっち」と遠藤さんの声。約束の時間より二十分早い。すぐタクシーを拾う。「南座までやってください」〈おでんを食べる〉と聞いていた私は、〈南座で、おでん?〉と内心困惑しながらも、できるだけ平静を装う。

十二月の南座は吉例顔見世興行で、まねき(看板)には、勧進帳で弁慶を演ずる中村吉右衛門の名も見える。特別観覧室に案内されて、私も歌舞伎見物のお相伴にあずかった。圧巻は吉右衛門弁慶の見事な「飛び六方」だった。歌舞伎を堪能したあと、鴨川沿いにタクシーを走らせ、遠藤さん馴染の料理屋に到着。遠藤さんのおごりで、本命のおでんを「ゴチ」になる。

〈これだから、編集者はやめられん〉

京都ホテル一階のラウンジで、食後のコーヒー。ロビーの方を気にしていた遠藤さんが、突然、声を上げた。「吉右衛門さん、こちらですよ」  中村吉右衛門丈が笑顔で振り向き、こちらにやってくる。飲み物を勧めて、しばらく歓談したあと、遠藤さんの発案で、とんでもないことが始まった。

まず、吉衛門丈に〈気を付け〉姿勢をお願いし、左右の肩の高さを見比べてみる。左の肩がほんの少し下がっていた。すると、遠藤さんが、私の耳元で言う。「ほら、あれをやってみたまえ」

その数カ月前、健康雑誌の〈噛み合せ矯正〉対談で、左側で片噛みする習慣が「右肩下がり」を招く話が出た。噛み合せの高さをマウスピースで調整する方法で、たとえば肩が下がっている側の歯で〈割り箸〉を強く噛み、両肩を上下に動かすと、両肩の高さが同じになる実験も行った。それを、天下の歌舞伎役者にやれ、というのだ。

 

「面白い、やってみましょう」 早速、割り箸を左の歯で噛み、両肩を上下に振ってもらう。そして、「左右(高さ)が同じなりましたよ」「不思議なことがあるものですね」

 

冷や汗と脂汗が、同時に流れ落ちた。

 

<お知らせ>

10月10日(土)午後1時半より、東京・築地本願寺(講堂)で、原山さんの講演(講話)を聴くことができます。 演題(講題)は『遠藤周作の「病い」と「神さま」――「心あたたかな医療」の源流をさぐる』です。浄土真宗のお寺で、カトリック作家の話です。

お時間がありましたら、ぜひお出かけください。

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2015年7月13日 (月)

コラム「語り部通信」Vol.7 『わたしが・棄てた・女』『沈黙』『深い河 ディープ・リバー』まで ――遠藤ボランティアグループ誕生の源流をさぐる―― 原山建郎(Harayama Tatsuro) 

『わたしの健康』編集者時代、私は作家・遠藤周作さんの「からだ番(小説の担当でなく、健康雑誌の対談担当)」記者でした。遠藤ボランティアグループは、遠藤さんが1982年に提唱した「心あたたかな医療(病院)」キャンペーンをきっかけに誕生しました。
 その後、私は遠藤さんの小説『わたしが・棄てた・女』(1964年)や『沈黙』(1966年)、最晩年の『深い河 ディープ・リバー』(1993年)に、「心あたたかな医療」のモチーフや「病院ボランティア」呼びかけの伏線に気づきました。そして、晩年は仏教の生命観やユング心理学にも引かれた遠藤さんの死生観の考察も含めて、メルマガ『トランネット通信』の連載コラム「編集長の目」(118122回)に、400字詰め原稿用紙にして約70枚という、いささか長尺の拙文を寄稿しました。
 何回かに分けて、遠藤ボランティアグループ誕生の「源流をさぐる旅」に出ましょう。
 

. 『わたしが・棄てた・女』    1971年秋、入社五年目の私は、翌年の『主婦の友』新年号から始まる遠藤周作さんの対談シリーズ担当を命ぜられた。遠藤さんは代表作のひとつ『わたしが・棄てた・女』を、1963年の『主婦の友』に連載(1964年に文藝春秋新社から単行本化)したことがあり、当時の小説担当だった先輩記者・関口昇さんが、新前記者の私を遠藤周作番に推挙してくれたのだった。  関口記者が担当した『わたしが・棄てた・女』は、ひたむきで純真な主人公・森田ミツ、かつて強引に彼女の体を奪い、そして棄てた男・吉岡努の生き方を描いた作品である。

 ある日、吉岡が偶然再会したミツは、まだ彼を一途に愛していた。しかし、彼女にはハンセン病の疑いがあり、これから精密検査のために御殿場の病院に行かなければならないと涙を見せる。おざなりの慰め言葉をかけた吉岡は、逃げるようにその場を立ち去った。
 その後、勤め先の社長の姪・三浦マリ子と結婚した吉岡だったが、なぜかミツのことが気になって、病院に年賀状を送ると、返信の代わりにひとりの修道女から手紙が届いた。
 その手紙にはミツのその後の様子が書かれていた。精密検査の結果、ハンセン病でないことが判明したミツは、はじめは喜んで東京に帰ろうとしたのだが、やがてハンセン病の患者としてではなく、奉仕の生活を送る修道女たちの仕事を手伝うために、再び御殿場の病院に戻った。そこには好きな流行歌を口ずさみながら、病院の厨房や配膳を手伝うミツの充実した日々があった。しかし、手紙の最後には、ミツが交通事故で亡くなったこと、ミツが最後に遺した言葉が「さいなら、吉岡さん」だったことが記されていた。

 主人公の森田ミツは、実際にハンセン病と診断されながらも誤診で、のちに看護婦になった経歴を持つ女性・井深八重がモデルである。隔離入院させられた八重は、誤診が判明したのちも病院にとどまり、やがて看護婦の資格を得て、御殿場市にある「神山復生病院」の看護婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の奉仕に捧げたという。

 『わたしが・棄てた・女』の主人公・ミツは、容態が悪化したハンセン病の子ども(壮ちゃん)を看病しながら、「壮ちゃんが助かるなら、自分がどんなに苦しくても辛抱する」とつめたい木造病棟の床にひざまずいて祈るが、その甲斐もなく子どもは息を引きとる。ミツは「あたし、神さまなど、あると、思わない。そんなもん、あるものですか」とひどく嘆く。さらに、「神さまがなぜ壮ちゃんみたいな小さな子供まで苦しませるのか、わかんないもの。(中略)子供たちをいじめるものを、信じたくないわよ」とミツに言わせている。
 このモチーフは、やがて1980年代に、遠藤さんが「心あたたかな医療」キャンペーンを始めるきっかけになった遠藤家のお手伝いさんの死にも重なってくる。
 当時二十歳代で骨髄ガンに罹った彼女は担当医から余命一カ月と家族に告知され、それでも治療とは関係のない採血だけはつづけられた。
 実は同じころ、遠藤さん自身も上顎ガンの疑いをもたれ、精密検査の結果がどう出るか、不安な日々をすごしていた。遠藤さんは本人にはガンと告げずに励まし、病院には不必要な検査をやめてほしいと交渉した。しかし、病院からの答えは「今後のガン治療の参考になる血液データをとるため必要です」と、にべもない。

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2015年7月 1日 (水)

コラム【「からだ」番記者レポート】 Vol.6 ビフォア/アフター、ゑびす顔。

Vol.6  2015.7.1 ビフォア/アフター、ゑびす顔

遠藤周作さん発案による連載「治った人 治した人」(『わたしの健康』198184年)は、まず、鍼灸・漢方薬・整体治療などの東洋医学、昔ながらの民間療法、そして話題の最新医療まで、その治療を受けて「治った人」(複数の体験者)を取材して、次に、鍼灸師、漢方医、西洋医、歯科医、薬草研究家など、患者を実際に「治した人」(治療家)と遠藤さんが対談するという「ちからこぶ」企画だった。
 連載は4年つづいたが、私が『主婦の友』(読み物デスク)に戻った1年を除く3年間(36回)は、毎月のテーマ(治療法)を提案するために、さまざまな資料に目を通し、代替療法にくわしい専門家の話を聞いた。

と書くと、いかにも担当者がテーマ探しに苦労したようだが、実際には遠藤さんの特ダネ情報が、月に4つか5つ、電話で寄せられる。この連載以前から温めていた名医の情報、空港や駅の売売店で見つけた健康法の新書・雑誌情報、自らが主宰する劇団樹座[きざ]や宇宙棋院[うちゅうきいん]のメンバーからの情報などが、多彩な人脈を総動員して集まってくる。
 それは、貴重な情報ではあるが、地曳き網漁のように網にかかった魚をこの目で見ないと、大物の魚(採案)か雑魚(ボツ)かがわからない。それを確認するのが担当者の仕事だが、玉石混交の健康情報は半端な数ではない。
 ご存じのように、遠藤さんは「せっかち」な性格である。思い立ったら、すぐに電話をかける。会社が休日のときは、担当者の自宅にかけてくる。

「お父さん、遠藤とかいう、男の人から電話だよ」

ことし39歳になった長男が、まだ小学生だったころの話だが、あわてて電話口に出ながら、冷や汗をかいた。
 一回だけ、遠藤さん自身が「治った人」(体験者)で登場した。4年間の連載が終了して半年後、遠藤さんから電話があり、番外編「治った人 治した人」(19858月号)で、記事のタイトルも「遠藤周作さんの髪がよみがえった」として掲載された。
 「頭皮緊張緩和器[とうひきんちょうかんわき]」という器具を3カ月間装着して、後頭部の髪の毛が確かに濃くなった、遠藤さんのビフォア/アフターが誌面を飾っている。
得意満面! 遠藤さんのゑびす顔。 

遠藤ボランティアHP⇒こちら 

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