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6)原山建郎のコラム

【健康ジャーナリスト 原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№193 マスコミ人が失った「感動する魂」、〈エディターシップ〉をとり戻せ。

先月27日、フジテレビの「中居正広トラブル」を巡って10時間超に及んだ記者会見では、このトラブルを2023年6月に把握しながら隠蔽が疑われる港浩一社長(同日辞任)をはじめ、同社経営陣の責任を問う声が上がりました。
私はしかし、「中居正広トラブル」問題の本質は、単なる経営責任の追及とは別のところにある――それは放送・新聞・出版メディアで働く「マスコミ人」に求められる、最も重要な〈エディタ―シップ(編集者魂)〉の欠如にあるのではないかと考えました。
すると、かつて私が文教大学情報学部の非常勤講師だったころ、講師控室でよくお目にかかった田淵俊彦さん(現・桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授)が、2月2日アップのPRESIDENT Onlineに寄稿した『フジテレビと共倒れ…「スポンサー離れよりずっと深刻」いまテレビの現場で起きている「負のスパイラル」』――「ヒト」を大切にしない会社に、いい「モノ」は作れない――が目にとまりました。
田淵さんは、アメリカの経営学者、ジェイ・B・バーニー氏が経営資源として捉えた「ヒト・モノ・カネ・情報」論を例に引いて――★「ヒト」があるからこそ「モノ」を生み出し「カネ」を稼ぐことができる、★「ヒト」を大切にしないで良い「モノ(=番組)」を作ることはできない。★それは私のテレビ局時代の哲学とも言えるもので、いまでも大学の授業で学生たちに伝えていることだ。――と書いています。放送メディア出身の田淵さんがいう「モノ(=番組)とは、出版メディア出身の私にとっては「モノ(雑誌・書籍)」であり、どちらも「製作(Manufacture:製品の生産)」の仕事ではなく、「制作(Product・Create:(自分の技術・スキルを用いて、さまざまなアイディアをかたちに表現する))の範疇に属する仕事なのです。
そこで、今回のコラムでは、私がかつて龍谷大学文学部(2010年)の集中講義で用いた資料「エディタ―シップを考える」から、★見城徹(幻冬舎社長)語録、★石川武美(主婦の友社創業社長)『記者の道』、★小学館2008年度新卒採用応募要項「受験者への100の挑戦」を紹介しながら、「感動する魂(Spirits)」について考えてみました。
今回のコラムの末尾を、「真実を書いているか」「情熱で書いているか」「材料豊富で書いているか」「祈りの心で書いているか」と問う、石川武美の〈エディタ―シップ〉、清新な「感動する魂」が、いまも「生涯一記者」をめざす、この私に向かって語りかけてくる。――と結びました。フジテレビ問題は他人ごとではありません、私自身のことでもあるのです。

詳細☞ ダウンロード - 193.pdf

お時間のあるときにお読みください。
☆原山建郎☆
出版ジャーナリスト、健康ジャーナリスト、日本東方医学会学術委員、日本文藝家協会会員、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、文教大学オープン・ユニバーシティ講師、元武蔵野大学・玉川大学・龍谷大学・文教大学非常勤講師

【健康ジャーナリスト 原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」N0_192 「平凡な日常」を切り捨てずに、「深く大切に生きる」ということ。

今年の初荷、連載コラム№192をお届けします。
前回に引き続いて、三浦綾子さんのことを書きました。

 

今回も前回と同じように、2025年度に開講する文教大学オープン・ユニバーシティ講座資料を作成するために、1990年代後半、三浦綾子さんから送っていただいたご著書を、改めて読み直した。
最初の一冊は、『忘れ得ぬ言葉――私の赤い手帳から』(三浦綾子著、小学館、1987年→2000年小学館文庫)である。かつて主婦の友社『わたしの健康』編集長だったころの、私の名前が出てくる。(※引用文中の太字は原山。以下同じ)

去年(一九八五年)の五月、体調を崩した時、私はいろいろな人におせわになった。二十日間、大阪で粉ミルク断食療法を受けることになった私を、強力にバックアップしてくださった主婦の友社「わたしの健康」誌編集長の原山建郎氏も、その一人である。(中略)大阪に滞在する私を、氏は早速見舞いに来てくださった。その時、何かと雑談したのだが、雑談の中で彼はこう言われた。
「人間には、決して他の人に代ってもらえないことがあります。例えば呼吸すること、食べること、動くこと、そして考えることなどです。これは自分自身が負うべき責任です」
なるほどと私は思った。自分がいかに面倒臭いからといって、呼吸することを人に代ってもらうわけにはいかない。食欲が進まぬからといって、他の人に食べてもらって命を維持するわけにはいかない。運動不足を解消するための散歩や体操を、代ってもらってすますわけにはいかない。考えることも、また同様のはずである。

 

全文は☞ 192.pdf

【健康ジャーナリスト 原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№191 『三浦綾子の「病い」と「神さま」』をコラムに書く――というミッション

★三浦綾子さんの人生をテーマにした講座
これまで数年にわたって、文教大学オープン・ユニバーシティ(社会人向け教養講座、越谷・湘南・東京あだちキャンパスで、春学期の5~7月・秋学期の9~12月に開講)で、『遠藤周作の「病い」と「神さま」』シリーズを通して、〈「苦しみ」をともにする永遠の同伴者、イエス・キリスト〉について、受講者の皆さんといっしょに考えてきた。
2024年度の講座ではさらに、遠藤周作さんの帰天(1996年9月29日)から2年後、夫を身近で見守ってきた順子夫人の著書『夫の宿題』などを参考にしながら、遠藤さんが「ダブダブの洋服(西洋から伝えられたキリスト教)を日本人の身丈に合った和服(日本人が共感を持って受け入れるキリスト教)に仕立て直す」という思いで書かれた小説、『沈黙』、『侍』、『わたしが・棄てた・女』などの代表作を改めて読んだ。とても充実した2024年だった。

そして先月、文教大学地域連携センターから、来年(2025年)度の講座計画の提出を求められた。添付書類には、満80歳を迎えた年度が「講師の定年」との記述があった。私は2025年1月、満79歳を迎える。いよいよオープン・ユニバーシティの講座もあと2年となった。ここはひとつ、気合を入れていこう。

続きは、こちらで☛ 191.pdf

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№190 「踏むがいい」―—〈沈黙の声〉。痛さを分つため十字架を背負ったイエス。

連載コラム№190をお届けします。


今回は、文教大学越谷校舎の『遠藤周作の「病い」と「神さま」――母、妻、父、息子――の物語を読む』に関連した内容です。
タイトルは『「踏むがいい」―—〈沈黙の声〉。痛さを分つため十字架を背負ったイエス。』としました。『沈黙』のクライマックスシーンですが、『憐憫と愛情は違う』をはじめ、いろいろ考えさせられる問題提起がありました。

詳細は☞ ダウンロード - 190.pdf

☆原山建郎☆

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№189 日本の「オノマトペ」は日本の「感性」を表した「からだことば」である

№189では日本語と英語の「オノマトペ」や短い定型詩(和歌、俳句、自由律俳句、短歌)に詠われた「オノマトペ」をとり上げました。とくに、日本語の「オノマトペ」は、大自然の営みを「音」でとらえた感性(皮膚感覚・内臓感覚)が組みたてた「からだことば(身体言語)」だと思ったことでした。
これらのトピックは、いわば私の勉強ノートのようなものですが、皆さんも「たのしい日本語」をご堪能ください。

詳細は☞ ダウンロード - 189.pdf

 

まだまだ暑い日がつづきます。お時間のあるときにお読みください。


☆原山建郎☆

 

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№188 中国からきた漢字が、万葉仮名・国字(和製漢字)という日本語になった。

この6月から7月にかけて、文教大学越谷キャンパスで行った『たのしい日本語―—おもしろ〈ことば〉 その1』講座では、配布資料を作成するために市川市と松戸市の図書館からたくさんの本を借り出して、「たのしい日本語」の魅力にどっぷり浸かった、まさに至福のひとときでした。
№188では「同音異義語」と「国字(和製漢字)」をとり上げました。

詳細は☞ ダウンロード -188.pdf

 

次回№189では日本語と英語の「オノマトペ」や短い定型詩(和歌、俳句、自由律俳句、短歌)に詠われた「オノマトペ」をとり上げました。

これらのトピックは、いわば私の勉強ノートのようなものですが、皆さんも「たのしい日本語」をご堪能ください。


まだまだ暑い日がつづきます。お時間のあるときにお読みください。
☆原山建郎☆

 

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№185 〈泣いて〉生まれて〈笑って〉死ぬ――〈いのち〉の臨界点をさぐる。

去る5月18日(土)午前10~12時、桜美林大学リベラルアーツ学群准教授(神学)、長谷川(間瀬)恵美さんが研究代表者である「死の受容」研究会の第12回定例研究会(Zoomミーティング)で、話題提供者(キーノートスピーカー)をつとめた。この研究会は、日本学術振興会(文部科学省所管の独立行政法人)が科学研究費を助成する「科学研究費基盤研究C(一人又は複数の研究者が共同して行う独創的・先駆的な研究。助成期間は3~5年間)」のひとつで、『患者を看取った宗教者の「死の語り」に関する研究-宗教多元主義の理論と実践』(2022~2024年度)というタイトルの、アカデミックかつスピリチュアルな研究会である。

数カ月前、長谷川さんから「クオリティ・オブ・デス」における「〈いのち〉の臨界点」について話してほしいと依頼を受けたので、この日のテーマは、「クオリティ・オブ・デス」〈泣いて〉生まれて〈笑って〉死ぬ――〈いのち〉の臨界点(Critical point of Life)をさぐる。とした。研究会参加者へ事前に送信された案内状の「発表内容」には、次の一文を掲げた。

詳細は☞ ダウンロード - 185.pdf

 

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№184 書き手も読み手も癒すメディア――ブック(書籍/雑誌)セラピー。今回のコラムに引用しなかった一文を加えて紹介します。

私はかつて、毎月1回(7年3カ月間)、1ページの連載コラム『ブックセラピー(book therapy)』を『出版ニュース』誌に書いていた。シリーズ名の「ブックセラピー」は、清田義昭編集長から与えられた課題、あるいは宿題のようなタイトルだった。
たとえば、「リーダー(読み手・reader)」が主語なら「この本を読むことで〈癒される〉」のかどうか―—「ブック(書き手・writer)」が主語なら「どのように読んでもらえたらうれしいか、書き手の気持ちが伝わることで〈癒される〉」のかどうか―—。

このときはもちろん、『出版ニュース』誌の主たる読者(出版社、取次、書店関係者など)を意識しながら、毎回、1冊か2冊の「ブック(書籍)」を文中に引用しつつ、『ブックセラピー』の原稿(約1500字)を書いた。また、「文中引用」の基本的ルールである「書誌情報(著者・編者名、訳者名、出版元、出版年)」と「引用ページ」を明示することで、自分自身の著書も含む「ブック≒著者」を最大限にレスペクトした。
本コラムでも遵守する「基本ルール」には、利便性が二つある。一つは、図書館の蔵書検索に必要なデータ(タイトル、著者等、出版者)がすべてあること。もう一つは、コラムの文中で引用されたトピック(話題)のページが、すぐに開けることである。

本文は☞ ダウンロード - 184.pdf

今回のコラムは、かつて『出版ニュース』誌に寄稿していた連載コラム「ブックセラピー」というシリーズ名を手がかりに、たとえば、「リーダー(読み手/reader)」が主語なら「この本を読むことで〈癒される〉」のかどうか―—「ブック(書き手/writer)」が主語なら「どのように読んでもらえたらうれしいか、書き手の気持ちが伝わることで〈癒される〉」のかどうか―—について考えてみました。「本というのは遅効性のメディアだといいます」と喝破したのは、『だれが「本」を殺すのかPART-2延長戦』(プレジデント社、2002年)の著者、佐野眞一さんです。コラムに引用しなかった一文を紹介します。

本というものに答えはないんです。答えがあると思ったら、それは錯覚です。(中略)本は自分の内面と格闘する、ボクシングでいえばシャドウボクシング、野球でいえば素振りのためのツールです。そうした練習の道具として、猛烈に効果のあるメディアだと思います。つまりこれは、人と人との関係を結ぶ基本的な練習道具なのです。(同書56~57ページ)

今回のコラムに、「歴史的身体(これまでの人生で味わった喜びや、悲しみの集積)〉」「上書き(overwrite)」というキーワードを配置して、次のように書きました。

「ブック(書籍/雑誌)」を読む前の〈からだ/歴史的身体〉に上書き(overwrite)された――「ブック」を読んだあとの〈からだ/歴史的身体〉と述べたが、「上書き(overwrite)」という言葉から、「ブック」を「読む(read)」行為は読み手の〈からだ/歴史的身体〉のなかで「ブック」を書写する(トランスクライブ/transcribe)、つまり自分が初めて出会う新しい文章を「書く(write)行為であることがわかる。

お時間のあるときにお読みください。
☆原山建郎☆

 

4月25日(木)にアップした、連載コラム「つたえること・つたわるもの」№183『そのときは「家」で――〈なかよし〉時間、〈自然死〉ハイライト。』、再度お届けします。

4月25日(木)にアップした、連載コラム「つたえること・つたわるもの」№183『そのときは「家」で――〈なかよし〉時間、〈自然死〉ハイライト。』https://oyajijyan.cocolog-nifty.com/enurse/2024/04/post-dba459.htmlをお届けします。
先週、野の花診療所(一階は一般診療外来、二階に19床のホスピスベッドがある)所長、徳永進さんが、2カ月前に上梓したばかりの最新刊『いのちのそばで』(朝日新聞出版、2024年2月28日第一刷)を読んでいたら、サブタイトルの「野の花診療所からの最終便」に驚いて、思わず筆を執りました。
同診療所のHPには、徳永さんのエッセイが何本か載っていますが、『野の花の人々』(全65話完結)、『野の花の一日』(全70話完結)、『野の花あったか話』(第297回「点滴」/2014年~2023年6月。※2019~2023年に発表したものを『いのちのそばで』に収載)、この3つの連載エッセイがすべて「完結」と書かれていました。医師免許を取得したのが26歳、その後は「故郷・鳥取」で、日赤鳥取病院内科→野の花診療所の臨床医として50年、そしていま、徳永さんは75歳を迎えました。

前回のコラム№182:「生」から「死」へ――自然体で旅立つ〈いのち〉の「間(あはひ)」。では、『在宅医療のリアル 改訂版』(幻冬舎、2019年)の著書がある、上田医院院長、上田聡さんが実践する「在宅医療(往診と訪問診療)のリアル(現状と課題)」をテーマにとり上げました。なかでもとくに、患者が臨終を迎えたとき医師が書く診断書は、単なる「死亡診断書」ではない、在宅主治医は「この世の卒業証書」「大往生という立派な卒業証書」を渡す役割を担っている、と胸を張ります。

今回のコラムでは、野の花診療所の「病院の日常」に、「患者の日常(心あたたかな風)」を吹き込みながら、つねに入院患者とその家族、在宅患者とその家族、そして医療チームひとり一人に穏やかなまなざしを向ける〈いのち〉の守り人・徳永進さんに焦点をあてながら、できることなら「最終便」「完結」ではなく、今日も明日も明後日も、〈いのち〉の守り人・アンコール、感謝の拍手を送りたいと思っています。

私はこれまで、文教大学オープン・ユニバーシティで「〈自分史〉ハイライト」講座を担当していましたが、今回の「〈自然死〉ハイライト」は、看取りの瞬間—―これは短くて長い「〈自分史〉ハイライト」――「自然死(ナチュラル・ダイイング)」の物語(プロセス)のことです。
愛する人が旅立つまでの大切な時間を、徳永さんは「なかよし時間」と呼んでいます。
コラムの最後を、次のことばで結びました。

家(いへ)という名の〈いのち〉の居場所で、たくさんの〈自然死〉ハイライトを見守る――〈いのち〉の守り人、〈いのち〉のメッセンジャーナース、〈いのち〉の番人、〈いのち〉のグッド・ドクターの皆さんに、心からの〈ありがとう〉を捧げたい。

お時間のあるときにお読みください。
本文は☞ 183.pdf

 

☆原山建郎☆
出版ジャーナリスト、健康ジャーナリスト、日本東方医学会学術委員、日本文藝家協会会員、武蔵野大学仏教文化研究所客員研究員、文教大学オープン・ユニバーシティ講師

【原山建郎の連載コラム】「つたえること・つたわるもの」№183 そのときは「家」で――〈なかよし〉時間、〈自然死〉ハイライト。

野の花診療所院長・徳永進さんの最新刊、『いのちのそばで』(朝日新聞出版、2024年2月28日第一刷)を手にとると、副題に「野の花診療所からの最終便」と書かれていた。
「最終便」とは、ただごとではない。目次で拾った「白内障 手術秘話」、「右鼠蹊部剃毛指示」を読むと、それは患者のことではなく、徳永医師自身のことであった。
えいやっと「あとがき」を読む。京都大学医学部卒業後、26歳で医師になり、64歳で新聞の連載コラムを書き始め、いま75歳を迎えた徳永さん50年の〈自分史〉ハイライト。

 

詳細は☞ 183.pdf

 

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