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2020年8月 1日 (土)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第6回 ALS患者嘱託殺人事件と「安楽死」について 尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第6回 単なる嘱託殺人か「安楽死」なのか 2020-7-31

 筋委縮性側索硬化症(ALS)の女性患者から依頼を受け、薬剤を投与して殺害した医師2人が7月23日、京都府警に嘱託殺人の容疑で逮捕された。この事件を新聞は競って報道している。特異な事件ではあるが、メディアの報道の仕方や姿勢について考えさせられることが少なくない。

 朝日、読売、毎日、産経、東京、日経の各紙は、①現場が在宅療養の場であること、②SNSを“活用”した計画的な行為であること、③当事者間に金銭授受があったこと、④当事者が「独自の死生観」を持ち、⑤「訴追されないないなら」かまわないという反社会的な意識を持つ医師らによって行われたこと――を大きく報道した。安楽死の「作業はシンプル」だった、被害者に「睡眠薬を胃ろうに投与か」、使用した薬物は「バルビツール酸系睡眠薬と判明」とか各紙は事件の“手口”や経過を競って報じている。

 各紙は、「ALS患者(が)生きやすい社会」を求め、「生きる権利」を主張する当事者や支援団体関係者の声を掲載する一方で、ALS患者らが生きることの苦しみを「早く終わらせたい」という思いや主張も伝えている。ALS患者として初めて国会議員になった舩後靖彦氏の「『死ぬ権利』よりも『生きる権利』を守る社会にしていくことが何よりも大切」という声を掲載した。ところが、被害者の女性がツイッターで「自らの『生』と『死』の在り方を自らで選択する権利」を求めていたとも伝える。新聞は、異なる立場から沸き起こる様々な声や主張を取り上げざるをえないのだが、事件の本質をどのように捉え、読者(市民)に伝えようするのか、わかりにくい。次々と浮上する新しい事実に右往左往しているようだ。一つには、価値観の多様化を反映した複雑な社会現象を評価するための明確な判断基準が見つからないからだろう。今度の事件はインターネットが支配する現代社会で起こるべくして起きたともいえる。

 新聞報道のかたちは二つに分かれた。一つはインターネット世代ならでは新しいタイプの嘱託殺人のディテールを詳細に報道すること。もう一つは、「命とは何か」という重いテーマを社会全体で考えるようと問題提起する流れだ。そうしたなかで、各紙は7月28日、一斉にこの事件に関する社説を朝刊に掲載した。各紙の見出しを列記しよう。
「嘱託殺人 医の倫理に背く行い」(朝日)、「ALS患者の嘱託殺人 医師として許されぬ行為」(毎日)、「ALS嘱託殺人 医療からの逸脱は許されない」(読売)、「医療から外れた嘱託殺人事件」(日経)、「ALS嘱託殺人 生命軽視の明確な犯罪だ」(産経)、「ALS嘱託殺人 安楽死の事件ではない」(東京)である。いずれも見出しで「嘱託殺人」だと断じている。

<朝日の社説と「『ブラック・ジャック』登場人物に憧れ?」>
 ただ、東京新聞だけが見出しに「安楽死」を出した。同紙は事件発生を報じた7月24日付けの紙面で3頁のうち2頁で「安楽死」をトップ見出しに使っていた。しかし、社説では「過去の事件と比べ特異な要素が多く、安楽死議論との直結には無理がある」と述べている。各紙は社説のトーンに苦労したようだ。もっと気になったのは、朝日新聞の紙面だ。社説掲載の前日にあたる27日付け朝日新聞夕刊の社会面トップ記事である。メインタイトルは「医師『安楽死』何度も投稿」。サブタイトルは「『ブラック・ジャック』登場人物に憧れ?」である。今回の嘱託殺人のヒントは、あたかも手塚治虫の有名な漫画から得たと思わせる書き方になっている。容疑者の一人は、患者の「安楽死」を金で請け負う漫画の登場人物「ドクター・キリコ」へのあこがれをツイッターに投稿したという。キリコは「ブラック・ジャック」に登場する医師だ。容疑者は「『日々生きていることすら苦痛だ』という方には、横浜地裁の要件はそれとして、一服盛るなり注射一発してあげて、楽になってもらったらいい」、「違和感のない病死を演出できれば、完全犯罪だ」と書き込んでいた。あまりにも常軌を逸した発言と言葉遣いに唖然とする。

 容疑者がこのような書き込みをしていたことが事実だとしても、影響力のある大新聞がそれを大きく載せるとは如何なものか。「ついに、こんな時代になってしまったのだ」とクールに受け止める読者もいた。が、しかし、事実だからと言って、リビングに置かれる新聞の夕刊の社会面に大きく載せて良い記事なのだろうか。小・中学生や高校生が目にし、読むかもしれない。朝日は社説で医師である容疑者二人の行為を「医の倫理に背く」と指弾しているが、この社会面の記事は社説の主張と矛盾する。施設ホスピスや在宅ホスピスなど緩和ケアの現場で働いてきた山崎章郎医師は「医の倫理に背くどころか、人としての道を外れている」と朝日の社説に違和感を持ったという。

<殺人事件を「安楽死」と同等あるいは類似のことのように>
 「安楽死」の扱い方は難しい。24日の毎日はそれを簡潔に書いていた。安楽死は、薬物などで患者を死なせ、尊厳死は終末期に延命治療をしないこと。我が国では法律による定めはないが、医師が末期がん患者に薬剤を注射して死亡させた東海大事件(1991年)で、横浜地裁は安楽死を認める要件を示した。すなわち、①耐え難い肉体的苦痛がある、②死が避けられず死期が迫っている、③肉体的苦痛を取り除く代替の手段がない、④生命の短縮を承諾する患者の患者の意思表示がある――の4つである。今度の事件の容疑者が書き込んだとされる「横浜地裁の要件はそれとして、一服盛るなり注射一発してあげて、楽になってもらったらいい」の「横浜地裁の要件」は、これである。
今回の事件では、なくなった患者は4つの要件を満たしていたのだろうか?  ①についていえば、耐え難い肉体的苦痛があったというより、むしろ精神的、社会的な苦痛に苛まれていた。②と③は議論の余地があったはずである。ところが、新聞は「安楽死 SNSで思惑一致」(東京)、「安楽死の望み」(朝日)、「医師『安楽死が必要』投稿」(読売)といった具合に、殺人事件を「安楽死」と同等あるいは類似のことのように扱っている。このような報道が広がることを憂慮してか、日本緩和医療学会はいち早く木澤義之理事長名で声明を出した。逮捕された医師2人は同学会の会員ではないと断ったうえで、「いわゆる積極的安楽死や自殺幇助が緩和ケアの一環として行なわれることは決してありません」。「積極的安楽死」とは、患者の命を終わらせる目的で「何かをすること」である。
医療と情報の技術や手段が急速に発達し、生活の隅々まで行き渡ったところに一部の不心得な医師が関わり、起こるべくして事件が起きた。在宅医療の現場や地域での終末期ケアを担ってきたベテラン医師の一人は語る。「毎年、約1万人の医者が誕生する時代だ。変人、奇人もいるだろう」と。しかし、市民の多くは、他の職業ではありうるとしても医師だけは、そうあって欲しくないと望んでいるはずだ。最大の問題は、社会規範が破綻に瀕している現実を、メディアがどのように咀嚼し、一般社会にどのような形で発信すべきか、ということである。

<報道の社会的責任とは何かについて問う>
ALS当事者団体に属する一人はSNSにこう書きこんだ。「SNSのみのやりとりで、初めて会う患者に多額の謝金をもらい(死に至る薬物を)投与したこの事件は、ただの殺人事件」だと。産経が「生命軽視の明確な犯罪だ」と断じた嘱託殺人事件の手口を詳細に報道することは、一部の専門家の参考になろうが、一般市民にとってどんな利益があるのか気になる。報道の社会的責任とは何かについて改めて考えざるを得ない。
世界保健機関(WHO)の自殺対策に関するガイドライン「メディア関係者に向けた自殺対策推進のための手引き」(2017年版)は、「やってはいけないこと」を例示している。たとえば、
・自殺の報道記事を目立つように配置しないこと
・自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
・自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
・センセーショナルな見出しをつかわないことーーなどだ。
 いうまでもなく、自殺と安楽死を混同すべきではない。とはいえ、今回のALS嘱託殺人事件に関する新聞報道を振り返ると、「やってはいけない」ことが少なからずあったように思えてならないのである。 

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2020年6月26日 (金)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第5回 どう生まれ変わるのか、私たちの暮しを左右する新型コロナウイルス対策会議 尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第5回 どう生まれ変わるのか、私たちの暮しを左右する新型コロナウイルス対策会議 2020-6-27

 後期高齢者の一人である私にとって唯一と言える趣味はメディアリテラシーの実践です。言ってみれば、最寄りの図書館に赴き、その日の新聞を読み比べることです。
6月25日の各紙朝刊は、新型コロナウイルス対策に関する専門家会議の廃止を報道していました。最も大きく紙面を割いていたのが、朝日新聞です。
1面の脇トップ(トップ記事に次ぐう重要ニュース)に据え、さらに、3面の半分を超えるスペースを埋めて「政治と科学 問われる距離」という問題提起をしていました。
 1面記事の主見出しは「専門家会議廃止、新組織に」です。政府は、医学的見地から政府に助言を行ってきた専門家会議を廃止し、社会・経済の専門家など幅広い専門家を加えた新たな会議体を立ち上げるというニュースです。「コロナ」担当の西村康稔経済再生大臣によると、専門家会議は「位置づけが不安定」であるから、新たなコロナ対策会議を設置し、「感染防止と社会経済活動の両立を図る」ため、感染症の専門家以外に自治体の関係者や情報発信の専門家らを加え、感染の第2波に備えるという狙いだそうです。

<微妙な立場に追い込まれたかっこうの専門家会議>
 いっぽう、専門家会議は脇田隆字座長ら3人が政府の記者会見と同じ24日、日本記者クラブで会見を行いました。その主旨は概ね以下の通りです。
「(感染症防止)対策の実行は政府が行い、現状分析と評価は専門家会議が政府に提言するという役割分担」のはずだった。ところが、実際は「国の政策を専門家会議が決めているようなイメージ」を国民に与えてしまった、という主張です。
 私は政府の会見には出られなかったものの、専門家会議の会見は日本記者クラブのオンライン中継で全容を知りました。専門家会議の位置づけが曖昧なため、会議メンバーらも「役割以上の期待と疑義」を持たれていることは承知しており、そうした世評に対する反論と反省がにじむ記者会見でした。専門家会議の主要メンバーの思いはオンラインの映像と音声でも、その口調と表情が如実に伝わってきました。感染症の専門家のほかに医療と社会・経済活動など両立を図るための新組織づくりには政府の歩調と合わせてはいるものの、奥歯にものが挟まったような印象を受けました。
 この間の微妙ないきさつは6月26日付けの日経新聞の朝刊が書いていました。
――政府、コロナ新会議設立 方針『逸脱』封じ 権限明確に 廃止の専門家会議とは溝――という記事(政治面)です。

<「感染防止と社会経済の両立」というミッションの行方> 
 それによると「5月の連休が明けて政府が緊急事態宣言の解除を急ぐようになると、政府と専門家の考え方に溝が生じ始めた」そうです。事業者や企業の休業や活動を事実上押さえこむ自粛要請が長びくと、経済が委縮するという風評と批判が広がってきたため、政府も地方自治体も政策のウェートを、感染防止よりも経済の延命にシフトせざるを得ないからです。
いち早くコロナ対策に手をった杉並区の田中良区長も「ライブハウスのロックコンサートならともかく、静かに音楽を聴くクラシックの演奏会まで規制するのは行き過ぎ」と語っています。
 専門家会議も「感染防止と社会経済の両立」が必要なことは分かってはいるものの、やはり「病気のことは、先ずは専門家に任せて欲しい」というのが本音なのでしょう。記者会見には国の政策が社会経済の“延命”にシフトしても「感染症の専門家は関与すべきだ」とする専門家会議の本音がにじみ出ていました。
そう考えると、25日付けの朝日新聞が専門家会議のあり方について考えるべき点があることを他紙よりも強調したことは意味があります。同じ日の日本経済新聞も社会面で専門家の助言のあり方に課題がある、と指摘していました。
 新たにできる組織のミッションは二つ。
一つは、感染の第2波への備え。もう一つは感染拡大を押さえつつ経済活動を再開することです。ブレーキを踏みながらエンジンをふかすという矛盾した政策をどう作って、実施するのか。
7月には新組織は発足するようですが、私たち一般市民の暮しに直接かかわる問題だけに、新聞やテレビなどメデアはこれから動向を的確に報じてほしいと思います。

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2020年6月 1日 (月)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第4回 政府が無能なのに、コロナ対策が成功したわけ 尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第4回政府が無能なのに、コロナ対策が成功したわけ 2020-6-1
 新聞を開くと、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の生真面目な記事が多いが、緩い話も載っている。たとえば、5月30日づけの朝日新聞土曜版のコラム「日本人は勝手にやってきた」。政府が無能だからこそ、ほかの国に比べてCOVID-19の感染者と死亡者を少なく抑えることができている、という。
安倍総理は「日本ならではのやり方で、わずか1カ月半でCOVID-19の流行をほぼ収束させることができた」と自負し、「すべての国民のご協力、ここまで根気よく辛抱して下さったみなさまに心より感謝申し上げます」と述べた。これを受けて「日本人は勝手に……」は、「コロナ対策がなぜか、うまくいっている」のは「(政府が)無能なのに、じゃなくて、無能だからこそ、うまくいっている」と手厳しい。専門家会議の議論を尊重してきた政府が無能かどうかはともかく、国民の多くは政府が提示した施策に納得がいけば罰則なしでも従い、施策の効果を上げ、結果的に公共善に貢献した。このコラムの筆者は小説家の保坂和志氏。表現は過激とはいえ多くの文学賞を取っている作家らしい指摘である。
“異邦人”も似たような日本人観を持っているという。ラグビー日本代表のエディ・ジョーンズ前ヘッドコーチは「日本人は上に言われるから規則に従うのではなく、もともと日本人には規則に対する強い敬意がある」と。ここで言う「規則」とは「ものの道理」のことだろう。日本人がほんとうに遵法精神に富んでいるかどうかはさておき、「三密」禁止とかソーシャル・ディスタンスの保持といった常識的に納得できる「要請」なら遵守する賢さを備えているようだ。これが話題の「ファクターX」の一つかもしれない。
「ファクターX」を探せ!
「ファクターX」とは、iPS細胞を作製してノーベル賞を受けた山中伸弥氏(京都大学iPS細胞研究所・所長)が自身のサイトで問題提起した考え方である。山中氏はこう述べる。「新型ウイルスへの対策としては、徹底的な検査に基づく感染者の同定と隔離、そして社会全体の活動縮小の2つがあります。日本は両方の対策とも、他の国に比べると、緩やかでした。PCR検査数は少なく、中国や韓国のようにスマートフォンのGPS機能を用いた感染者の監視を行うこともなく、さらには社会全体の活動自粛も、ロックダウンを行った欧米諸国より、緩やかでした。しかし、感染者や死亡者の数は、欧米より少なくて済んでいます。何故でしょうか?? 私は何か理由があるはずと考えており、それをファクターXと呼んでいます」
山中氏があげるファクターXの候補は7つ。①感染拡大の徹底的なクラスター対応の効果、②マスク着用や毎日の入浴など高い衛生意識、③ハグや握手、大声の会話などが少ない生活文化、④日本人の遺伝的要因、⑤BCGなど、何らかの公衆衛生政策の影響、⑥2020年1月までの何らかのウイルス感染の影響、⑦ウイルスの遺伝子変異の影響――である。 
日本固有の「恥の文化」が感染拡大を押さえた?
この問題提起は、瞬く間にメディアに拡散した。たとえば、6月4日号の『週刊新潮』は、「手洗い・マスク文化」「BCG」だけではなかった“重大要素”とか、「重症化回避の遺伝子を探せ」慶大・京大研究班が「ゲノム解析」とかいった記事を載せている。山中氏の「候補」には入っていないが、「日本人は勝手にやってきた」は8番目のファクターX候補かもしれない。5月31日の日本経済新聞のコラム「春秋」はルース・ベネディクトの『菊と刀』にかこつけて書いた。日本固有の「恥の文化」が影響しているという見立てである。
COVID-19の正体は、日本上陸当初に比べればおぼろげに見えてきたとはいえ、治療薬はもとよりワクチンの開発もハッキリした見通しが立っていない。したがって「ウィズコロナ」とか「アフターコロナ」とかいうウイルスと共生するための議論は百家争鳴。それだけに「ファクターXを明らかにできれば、今後の対策戦略に活かすことができるはず」(山中氏)だ。「日本人は放っておけば、勝手に努力して、勝手にあれこれ工夫する。そういう人たちのあつまり」(保坂氏)だ。リーダーシップの不在が叫ばれて久しいが、中国の一党独裁や韓国のIT監視網による電脳独裁などに比べれば、「ものの道理」を弁えた国民が「勝手にやって」くれるようなレッセフェール(自由放任)体制の方がましなのかもしれない。

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2020年4月23日 (木)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第3回 「新型コロナ」の前と後 世界はどう変わるだろうか 尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第3回「新型コロナ」の前と後 世界はどう変わるだろうか 2020-4-23 世界的ベストセラー、「サピエンス全史」の著者であるイスラエルの歴史学者、ハラリ氏によれば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、いまこそ人類史の転換期だと言う。
かつて日本人が歴史の節目に立たされた日があった。1945年8月15日である。それまでの「国のかたち」が全否定された日だ。私が「転換期」を実感したのは、2001年。世界を震撼させた「9.11.同時多発テロ」の当日、ニューヨークにいた。炎上するツインタワービルが崩落する姿を目の当たりにした。その歴史的瞬間にアラブ系らしき市民が悲鳴のような叫びをあげていた光景を忘れない。

神が人間の傲慢さに怒り「新型コロナ」を地球にばら撒く? 「世界は変わった」と直感したのはこのときである。新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、それ以来の衝撃である。米国のジョンズ・ホプキンス大学によると、2020年4月22日現在、新型コロナウイルスの感染者は世界全体で261万人を超え、死者数は18万人に達した。圧倒的な感染の広がりとスピード、地球経済と国際政治に及ぼす深刻なインパクトは9.11.テロやリーマンショックとは桁違いに大きい。大袈裟に表現すれば、人類は、これまで営々として築いてきた文明の袋小路にはまっているのである。地球環境問題、先進諸国の出生率低下、貧困格差の拡大……をもたらした科学至上主義、合理主義的な経済システムや民主主義の限界は、人間という種が獲得してきた成果の意味を根本から問い直している。現在の惨禍は、わが物顔に地球を支配してきた人間の傲慢さが招いたのではないか。
人間の傲慢さを突いた物語は「ヨブ記」だ。「旧約聖書中もっとも注目すべき、重要なものの一つで、文学作品としても世界文学の最高峰のうちに数えられる」(文庫版解説)とされる古典である。 
神を畏れ敬うことこのうえなく深く、道徳的にも信仰においても非のうちどころのない暮らしを続けてきたと自負するヨブに、神は次々と過酷な試練をくだす。サタンを地上に遣わし、10人の子どもと莫大な財産をことごとく奪い、「足の裏から頭の天辺まで悪い腫物」に覆われる悪疫に感染させる。ヨブは、神の非情に抗議するが、神は創造主に人間が逆らうこと自体けしからぬとはねつける。神は「自分を中心に創造の世界を見、自分を創造者と対置した」ヨブの傲慢さを厳しく指弾した。「すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し ひとり残らず塵に葬り去り 顔を包んで墓穴に置く」(新共同訳)と。この物語の主人公、ヨブは現在の人類の姿そのものではないか

『智慧』の伝統を発展的に継承して深く思索する 人類はあたかも全知全能の神のように地球に君臨してきた。地球の資源や生態系を思うままに収奪し、破壊することによって豊かで便利な暮らしを謳歌してきた。あまつさえ遺伝子操作にまで踏み込んで神の領域を侵しつつある。ここにいたって、偉大で慈愛に満ちた神もさすがに堪忍袋の緒が切れ、サタンを地上に遣わし、新型コロナウイルスを地球上にばら撒いたのではないか。旧約聖書に拠って建つイスラエル生まれの歴史学者、ハラリ氏は3月31日付けの日本経済新聞に論文「コロナ後の世界へ警告」を投稿し、冒頭にこう書いた。
「人類はいま、世界的な危機に直面している。おそらく私たちの世代で最大の危機だ。私たちや各国政府が今後数週間でどんな判断を下すかが、これから数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化をも変えていくことになるということだ。新型コロナの嵐はやがて去り、私たちの大部分もなお生きているだろう。だが、これまでとは違う世界に暮らすことになる」。
人類は、ITやAIを駆使したデジタルイノベーションやデジタル・トランスフォーメーションを駆使して世界の再生を試みるだろう。それで人類は存続するだろうか。「ヨブ記」の著者は「当時の最高の知識人であっただけでなく、人生の苦難に打ちひしがれたつらい経験を持ち、しかも正しく『智慧』の伝統を発展的に継承して深く思索した人であった」(岩波文庫版解説)。だとすれば、「『智慧』の伝統を発展的に継承」し、「深く思索」することなしには、人類は「新型コロナ」よりも手ごわいウイルスの脅威に繰り返しさらされる。なき人類に未来はない。

現代のヨブ、人類は己の傲慢さに気づくか 21世紀における『智慧』とはなんだろう。
諸外国では、ウイルス感染を防ぐため罰則付きの外出規制を実施し、それなりの効果をあげている。これを我が国でも踏襲すべきか否かについて議論が分かれているが、iPS細胞の作製によりノーベル生理学・医学賞を受けた山中伸弥氏はこう語る。
「普段、私たちは気付かないうちに社会システムに守られ、研究や移動などの自由を謳歌している。今のような公衆衛生上の危機に直面した場合には、いっとき自由な行動を我慢してでも社会を守らないといけない。中国の武漢やイタリア、スペインのような状況では、罰則を伴う強硬措置もやむを得ない。そうならないために一人ひとりが自らの行動を変える必要がある」(4月20付け日本経済新聞のインタビュー)。
科学史家の村上陽一郎氏は、「一部の権威ある人々がすべてを決定した時代と異なり、今は社会にとって何が合理的なのかを最終的に判断するのは市民だ」(4月11日付け・日経)と明言し、「個人の良識や常識、健全な思考に私たちの未来はかかっていると再認識すべきだ。自然の謎や『わからないこと』と真摯に向き合い、問い続ける。その継続によって良識は養われる」(同)と指摘した。「コロナ」後の世界では、市民的な良識の創造が不可欠なのだ。
自らの傲慢さに気づいて悔い改めたヨブは、財産が倍返しに増え、病気は完治し、140歳の長寿を全うした。「ヨブ記」は2500年前の物語だが、21世紀もの人類は自らの傲慢さに気づき、行動変容をするかどうか。

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2020年4月 4日 (土)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第2回「民主主義は不可能」か?  尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第2回「民主主義は不可能」か? 2020-4-4 
 土曜日の朝。珈琲カップを手にテレビのニュースショーを眺めていた。
 口は悪いが、世間をよく知るヘルスケア事業者の某氏に言わせると、テレビのニュースショー出演者には「テレビ芸者」が目につくという。確かに新型コロナウイルス感染症を扱うテレビ番組を見ながら、「今日はあの教授は服を変えてきた」とか「あの先生は開業医のはず。自分の患者はいつ診るのか」といった勝手な感想を抱く。

 問題はテレビショーの中身だ。テレビならではの切り口もあって教えられることも少なくないけれども、きがかりな点もある。新聞記事を映像化して識者が解説し、コメンテーターが好き勝手な言葉をはさむのが基本パターンだ。一般市民は新聞やネットをじっくり読み込んで自分なりの意見を考える手間が省くことができて、便利ではある。
だが、自分自身の頭で情報の真偽を考えたり、モノゴトの評価をしたりせず、それらをテレビに丸投げできる装置でもある。ニュースショーは世論形成のコンビニエンス・ストアではないのだろうか……。
 と思いつつ眼をテレビ画面から新聞に移すと、朝日新聞(4月4日)の朝刊に良い記事を見つけた。社会学者、大澤真幸氏のコラム「古典百名山」だ。森羅万象を扱ってきた古今東西の名著を素人にも分りやすく紹介してくれるユニークなコラム(800字)である。

今回(№76)のテクストは、ケネス・J・アロー著「社会的選択と個人的評価」(長名寛明訳)。
 大澤氏によると 「民主主義に反対する人はほとんどいない」が、「1951年に初版が出た本書は驚くべき内容を持つ、(経済学者である)アローは、民主主義なるものは不可能だ、ということを数学的に証明してみせた(ように見える)のだ。
 ここから先がややこしい話になる。「ひとつの社会的決定を導き出さなくてはならない」とき、「(意見の)集約の仕方が民主的であるためには、少なくとも三つの条件を満たさなくてはならない」そうである。3条件は以下の通り。
 第1は、「全員が一致して、AがBより好ましいと判断しているときには社会的決定でも、その通りになるべきだ」
 第2は、「AとBのどちらかが良いかという決定に、これらとは別の選択肢Cに対する人々の好みが影響を与えてはならない」
 第3は、「独裁者が存在してはならない」
 そのうえでアローは、「3条件を全て満たす、(人々の好みの)集約の仕方は存在しない、ということを証明した。前の二つの条件を前提にすると、必然的に独裁者が出てくる」というのだ。このへんの論理は難解だが、「本書を通過していない、民主主義をめぐるどんな主張も虚しい」と、大澤氏は記す。私には、いま一つわかりにくいけれど、大澤氏がコロナ騒動のさなかに、この本を持ち出した気持ちを察する。いまや日本を除く世界各国では反民主主義とも見える動きが広がっているからだ。

 イタリア、フランスなど欧州大陸諸国やイギリスなど民主主義の本家で通行証の所持を義務付け、罰則つきの外出禁止令を発信するなど私権を制限する都市封鎖が行なわれている。その際、住民や市民の了解を得るための民主主義的な手続きを踏んでいるという報道は伝わってこない。ノーベル賞を受けたアロー先生の数学的証明が合っているのかどうかは、ともかく、有事には「民主主義なるものは不可能だ」という
ことを新型コロナウイルスは事実を持って語らしめている?
 いっぽう、我が国では、安倍総理も小池都知事も、我が国も東京都もコロナ感染によって医療崩壊の「瀬戸際」に立ち、「事実上の非常事態宣言と同じ」状況を認めているにもかかわらず、私権を制限するような措置はしない、できないと頑張っている。すべての措置は「命令」ではなく「要請」というお願いである。法治国家であることがその理由だ。
遅れてきた民主主義の国のリーダーは、いまや民主主義の鑑になった。ただし、その評価は結果で判断される。もし、民主主義を護持によってウイルス感染が終息するか、感染爆発がおきるか、いま現在は誰もわからない。
 
 民主主義は人類史的な意味で鼎の軽重を問われている。人権不在国家の中国ではどうか。真偽のほどはともかく、中国では習近平氏が強権を発し、武漢市を都市封鎖したお蔭で、新型コロナウイルス感染症のオーバーシュートは終息に転じたとされる。独裁は多数の命を救うことによって民主主義の理想を超えたののだろうか。
 いっぽう、世界的なベストセラー「サピエンス全史」を書いた歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、3月31日、日本経済新聞に「コロナ後の世界へ 警告」を投稿した。
 「人類はいま、世界的な危機に直面している(略)。私たちや各国政府が今後数週間でどんな決断を下すかが、これから数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化を変えていくことになるということだ」と。
 そこで、「全体主義的監視か、市民の権利か」、いずれを選ぶかという問題に直面する。
全体主義的監視社会を拒むなら、「市民がもっと自分で判断を下し、より力を発揮できるようにする」ため、「科学や行政、メディアに対する信頼を再構築すること」。それは「今からでも遅くない」。ハラリ氏はそう説いている。

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2020年3月22日 (日)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第1回「新型コロナウイルス感染症報道とメディア・リテラシー」 尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

1942 生まれ。65年早稲田大学卒。日本経済新聞社入社、「日経WOMAN」編集長、編集委員、仙台白百合女子大学教授などを経て、現在は在宅ホスピスを経営する認定NPO法人コミュニティケアリンク東京副理事長など医療・介護福祉団体の経営に関わっている。4月に2040年問題、2060年問題を40歳代以下の世代と考える勉強会「AIDプラス」を立ち上げる。
第1回「新型コロナウイルス感染症報道とメディア・リテラシー」 2020-3-22 
 1929年の10月のことである。ニューヨークの株式市場が大暴落した。それがきっかけで世界大恐慌が勃発し、世界は第二次世界大戦という人類史的な悲劇に巻きまれた。それは、いま生きている人にとっては教科書でしか知らない過去の出来事である。だが、 地球規模で起きた新型コロナウイルス感染症のパンデミックは「オンリー・イエスタデイ」の悪夢をよみがえさせる。
そこで、メディアの功罪を考えてみたい。
テレビ、新聞、インターネットなどのメディアからフェイクニュース、誤報、意図したあるいは意図せざるデマ、ノイズすなわち無視すべき雑情報がばら撒かれ、見えるウイルスとして私たちの暮しを脅かしている。それらを鵜呑みにすれば、パニックになる。情報過剰時代は、下手をすると、取り返しのつかない本当の危機をもたらし、自分が困るだけでなく、他人や社会全体に迷惑をかけ、無辜の人々の命を奪うことにもなりかねない。関東大震災におけるおぞましい「朝鮮人虐殺事件」のように。こうした混乱を暗い目的のために利用しようとする輩は昔も今も、洋の東西を問わず、虎視眈々とチャンスを狙っているのだ。

自らの身を護り、世間や世界が凄惨な愚行を繰り返さないようにするにはどうすべきか?
メディア・リテラシーを身につけることだ。自分自身の責任で世間や世界を認識し、判断すること。それしかない。問題はそれが難しいことである。官・民を問わず、指示を待って動くという「指示待ち人間」の習性に浸ってきたからである。責任ある立場の人たちでさえ結果責任を負おうとしないからでもある。
やっと、その殻を破る人物が登場した。北海道の鈴木直道知事である。彼は2月28日、「緊急事態宣言」を出し、週末の外出自粛や休校などを道民に求めた。
そのニュースが全国に流れたあと、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議は3月19日、現状を「爆発的な感染拡大の可能性がある」と発表した。その記者会見で北海道の「非常事態宣言」について「一定の効果があった」(尾身茂副座長)と評価した。
国会が緊急事態宣言の発令を可能にする改正新型インフルエンザ対策特別措置法を可決したのは3月13日。鈴木知事の決断はそれに2週間も先立つ英断だった。
大阪府の吉村洋文知事は19日、大阪府と兵庫県との往来を20日〜22日の3連休中は自粛するよう府民に求めた。それと呼応する格好で、兵庫県の井戸敏三知事も同日の記者会見で、大阪など他の地域との間で不要不急の往来を自粛するよう県民に求めた。
国の特別措置法の発令を待たず首長が為すべきことを判断し、権限を行使したである。北海道知事の判断を見習った行動変容である。ところが、吉村、井戸知事の決断について、20日のテレビ朝日の「羽鳥モーニングショー」は両知事の事前打ち合わせがなかったことを批判した。22日付け朝日新聞も「法の枠外で住民に大きな制約を課すことになりかねない判断」だ、と指摘した。それは、一つの見解ではある。

ただ、今は平常時ではない。首長には非常時ならでは行動変容があってもいい。それはコトの本質を見落とす枝葉末節の議論ではないか。両知事の決断は、地方分権の本質を自覚した首長としての責任行使であり、評価こそすれ、批判すべきことではないだろう。我が国は中国のような一党独裁の中央集権国家ではないからである。鈴木、吉村の両知事は38歳と44歳。若い地方政治家が中央と地方の行政のありかたを目に見える形で示してくれた意義は大きい。一般市民は会社や家族の日常に追われ、膨大な社会情報を綿密に分析して付きあう余裕はない。従って新聞などが、一般市民に代わって情報を選んで咀嚼し、適切な判断を行うための材料を提供することを行う――アメリカのジャーナリスト、W・リップマンは名著『幻の公衆』(1925年)でそのように指摘した。

昨今、インターネット・メディアのプラス面を手放しで持ち上げる傾向がある。それを危惧するのはわたしのような旧い世代だけだろうか。
今度のような有事にこそ、従来のメディアは改めて適切な報道と解説に努めることが求められている。誤報、ノイズ(雑音的なジャンク情報)や情動に訴えるフェイク・ニュースなどがゴチャマゼになった押し寄せる情報環境において、一般市民に代わって情報の質の見分け方を市民に提供すること。それがあるべきメディアの果たすべき役割である。
むろん、情報の受け手である市民も確かなメディアを選択する分別・見識すなわちメデア・リテラシーを身に着けるべきだ。そのための情報と解説(モノの見方)の提供すること。それこそ確かなメディアの使命ではないか。日々、垂れ流されている玉石混淆の膨大な情報のなかからコトの本質を見分けるためのヒントをもたらす言説を拾い出し、自分なりに世間と世界の真実を読み解いていきたい。

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2019年9月16日 (月)

コラム【市民の眼】 Vol.51 映画「人生をしまう時間」 <“死に際の医療”に打ち込む森鴎外の孫>  尾崎 雄 Ozaki Takeshi 

1942 生まれ。65年早稲田大学卒業、日本経済新聞社入社。札幌支社報道課、流通経済部、婦人家庭部次長、企画調査部次長、「日経WOMAN」編集長、婦人家庭部編集委員などを経て、日経事業出版社取締役編集統括。高齢社会、地域福祉、終末ケア、NPO・NGO関連分野を担当。現在、フリージャーナリスト・AID(老・病・死を考える会)世話人

Vol.51 映画「人生をしまう時間」 <“死に際の医療”に打ち込む森鴎外の孫> 2019-9-16

 このところ、森鴎外の孫にはまっている。

 鴎外の孫とは、明治の文豪、森鴎外の次女、小堀杏奴の長男、小堀鴎一郎氏(81歳)である。その鴎外の孫が在宅医療に打ち込む姿を克明に記録したドキュメンタリー映画を見た。
東大附属病院や国立国際医療センターでメスを揮った外科医が定年退職を機にメスを捨て、地方病院の訪問診療医に転じて在宅医療ひとすじ13年。華麗なる転身を遂げた人物だ。映画のタイトルは「人生をしまう時間(とき)」(NHKエンタープライズ制作)。「患者と家族と向かい合い、最後の日々を過ごす――小堀鴎一郎医師と在宅医療チームに密着した200日」の記録である。
日本医学ジャーナリスト協会賞大賞を受けたテレビドキュメント「在宅死 “死に際の医療”200日」がベースとなっている。テレビに集録できなかった部分や新たな映像を加えた上映時間110分の劇場版。どうせテレビ番組の焼き直しだろう、と、たかをくくっていたが、そうではなかった。やや中だるみ感があるものの、「みんな違ってみんないい」とされる在宅看取りのシーンを丹念に拾い、真の医療とはなにかを考えるヒントを与えてくれた。

『バラ色の在宅』とはほど遠い、在宅医療のリアル」  

 美談やユートピア的に描かれがちな今までの在宅医療を紹介するありきたりの映像と違って、この映画は、教訓めいたナレーションや解説をいっさい流さない。訪問医療や在宅での看取りの姿を淡々と描く。下村幸子監督は「『バラ色の在宅』とはほど遠い、複雑な問題を抱えた医療現場のリアル」に「すっかり心を奪われ」て、自らカメラを回したという。
見落とせぬシーンをひとつ紹介しよう。ある患者が、いよいよ自宅で息を引き取る時刻が迫ったとき。小堀医師はいったん病床を離れて、患者の家を出る。庭にたたずんで、「そのとき」を待つ。カメラは家族等に囲まれた患者が永い生涯を閉じる瞬間を映し出し、すべてが終わったとき、小堀医師は、なくなった元患者の枕元に戻って、死亡診断書を書く。この数分間こそ本作品のクライマックスだ。在宅医療に携わる医療職や介護職だけでなく、いや、病院勤務で「在宅」知らずの医師や看護師らにも見てほしい。そこに医師の本分と医の本質を汲み取ってほしいからだ。
幾多の曲折を重ねながら国の医療政策の軸足は、病院医療至上主義から在宅医療シフトに転じた。にもかかわらず、医師や看護師らは、その意味をどこまで認識しているのだろうか。極端な言い方をすれば、医療機関の多くは診療報酬など収入の源泉が「在宅の方がオトク」だからという経営上の理由から「在宅シフト」に転じている、といってしまったら言い過ぎだろうか。

祖父の「安楽死」、孫の「在宅看取り」  

 医師でもあった森鴎外は安楽死をテーマにした小説「高瀬舟」とその解説「高瀬舟縁起」を書き、「安楽死」を考えるきっかけを後世に遺した。その孫である小堀鴎一郎医師は昨年、『死を生きた人びと――訪問診療医と355人の患者』(みすず書房)を出版し、今年の日本エッセイスト賞を受けた。そのなかで小堀医師は「病院死」が「病院以外の死」すなわち在宅で看取られる「理想的な死」に「世論がなだれをうって」いくことに懸念を表わしている(第3章「在宅死のアポリア」、第4章「見果てぬ夢」)。今度の映画は本書の映像版である。
アポリアという哲学用語は、一つの問題に対して矛盾する解決法が存在することを言う。日本の医療現場も医療政策もそんな状態にある。

(「人生をしまう時間(とき)」は9月21日より東京・渋谷 シアター・イメージフォーラムでロードショーほか全国順次公開)

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2019年2月 9日 (土)

コラム「医師として、武士として」  Vol.108 「お風呂」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.108 2019. 2.9  お風呂

  一般大衆新聞の一面に「コラム」が必ずある。朝日新聞は「天声人語」、毎日新聞は「余禄」、産経新聞は「産経抄」、読売新聞は「編集手帳」が代表的である、他の新聞にもある。

 小生は、朝日新聞の「天声人語」に朝食の時に目を通す。それから一日が始まる。休日は、家の近くに新聞販売店があり「毎日」、「産経」が手に入るので両紙にも目を通す。無論、「コラム」を楽しむ為である。各紙には特徴がある。詳細は省く。

 「天声人語」は、1960年ごろ、菊池鑑賞受賞の荒垣秀雄氏の「コラム」が、超有名大学の入試問題に出題されてから、高校生の必読の「コラム」となった。「天声人語」は、明治37年1月5日、大阪朝日新聞に掲載されてから今日まで続いている。歴史がある。その執筆者も当代一流の人物で、西村典天因、内藤湖南、鳥居素川、長谷川如是閑、大山郁夫、永井釈瓢斎が担当した。その記事のコピーを、過年、知人より頂いた。第1回の「コラム」は、日露戦争前であったため、きわめて好戦的な文章である。

 本題にはいる。1月30日の「天声人語」で、親と子の関係を記した内容のものである。

一部を紹介する。▼「親子で話そう」をテーマに文部科学省が募った3行詩から始まっている。中学2年生の詩である。<風呂の時、僕と父は友達になる。怒られた時、上司と部下になる。ご飯のとき、僕と父は家族になる>。小学1年生の詩。<おふろだと、いっぱいはなせる はだかんぼなきのち>▼幼いときは、おもちゃを浮かべて遊ぶところ。少し大きくなると、いろいろと話ができる空間にもなる。それがお風呂。決して親からせっかんされたり・・・・・・、と続き、現在報道されている痛ましい事件について語っている。

 事件は極めて悲しむべきものであるが、冒頭の文章が、小生の子供たちを入浴させている風景を思いださせた。記憶に残っているのは、家の近くに海があり、プールもあったので季節になると海で泳ぎ,遊び、プールでは競泳を学ばせた。スタートはお風呂で水に慣れさせることから始めた。

子供は顔を水につけるのを嫌がるし怖がる。それを慣れさせるとこから始めた。湯船の底におもちゃを沈めて、2人の子供たちにそれを拾い上げる競争をさせた。拾いあげるには、潜らなければならいので水に対する恐怖がなくなった。プールで本格的に泳げるようになった。お風呂に入ると、”ひねると、ジャー”、”おすとあんでる、食うとうまい”と、なぞなぞを楽しんみながら、宝さがしをさせた(回答は水道と饅頭)。このことが現在、どのよう子供の人生に影響しているか知る由もない。「天声人語」を目にし、その光景を思い出し懐かしんでいる。

無論、「コラム」に掲載されている事件はやるせない気持ちでいるが。

 小生の知人に、娘さんが高校生になっても一緒にお風呂に入っているという父親がいた。娘さんたちは嫌がらない?、どおしてと質問したら、娘はいずれ結婚して家をでる。実家のことを忘れないように肌で教育しているとの返事が返ってきた。先日、久しぶりに、その知人にお会いした。お嬢さんたちはどうていると尋ねたら、”矢張りうちが良い”と二人とも帰ってきた。孫の世話で一日が終える。忙しい毎日を送っているとのことであった。

 どんな家庭でも、家庭生活の初めは雑駁にいえば同じ風景である。20年、30年もたつと家族の誰もが予想だにしなかった状況になる。人生は、予想もしなかったことが起こるから、面白のである。

 人生の終末期を迎え、いろいろなことを思い出している。(完)

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2019年2月 1日 (金)

コラム「医師として、武士として」  Vol.107 「か ぜ」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.107 2019. 2.1    

 日本人は、年に5、6回は「かぜ」に罹ると言われている。患者さんが、「”かぜ”です。薬をください。」と受診に来た場合、医師は「そうですね。どんな症状ですか?」ときいて、薬をだす場合が多い。今では少なくなったというが、「抗生物質」が処方しないとないと“ダメ医者”と言われる事がある。医学的には、細菌感染が無い場合は耐性菌を作らないため抗生物質(抗菌剤)は処方しない事になっているが、そこは医療も商売の要素を含んでいるため患者さんの要望に応え抗生物質を処方する。「むやみに抗生物質を処方すると、耐性菌ができるので・・・・。」というクリニックは評判が落ちる。「保険医療」の為、患者もクリニックも少々の費用は気にならない。大抵の場合、数日で治る。 

本題から外れる。インフルエンザは、以前は「かぜ症候群」に含まれていたが、今は違う。2000年、死亡率が70%に達する東南アジヤで流行した「高病原性A型鳥インフルエンザ(H5N1)」が、「新型インフルエンザ」と命名され、危機管理の観点から世界を騒がせ伝染性疾患のスターになった。幸い今では、この「鳥インフルエンザ」は現在まで「ヒト-ヒト」感染が無いため、今日では話題になることはない。一時は、「危機管理対策」が国家レベルでとられ、「新型インフルエンザ」とIT検索すると危機管理指導を生業とする会社名が、三桁の数字で表示されていたのを記憶している。 

2009年春から2010年3月にかけて、メキシコ発のインエンザが世界的に流行した。先に示した「A型鳥インフルエンザ(H5H1)」かーと騒がれたが、結局、「A型豚インフルエンザ(H1N1)」と判明し、「ホット」したことを覚えておられる方も多いと思う。現在では、メキシコ発のインフルエンザは季節性インフルエンザとされている。 

日本では「豚インフルエンザ」と判明するまで大騒ぎをした。南米からの乗客は、成田空港に入国する際、厳しいケックを受け有熱者は成田空港近くのホテルに隔離された。過剰な対策と誹られたが、結果として我々の流行性疾患に対する予防意識が飛躍的に高まり、それと同時に「インフルエンザ」という病気の「格」があがった。 

2009年春のメキシコ発「豚インフルエンザ」流行の際、日本では1400万人が罹患したと言われているが、通常の罹患者数は、年間、約1000万人と言われている。  

本題に戻る。「かぜ」である。以前はインフルエンザも「かぜ」の仲間であったが、現在は「格上げ」され、「かぜ」は「かぜ」として残された。「かぜ」は、我々に最も身近な疾患であるにも関わらず、医学的にも本格的に取り扱われていない。 

今日まで、「かぜ」或いは「かぜ症候群」につて「講義」を受けたことはない。また、高質な「成書」にもなかった。先日、書店で「『風邪』の診かた」という医学書を手にし、斜め読みをしたところ、感心する内容であったので求めた。やはり、「かぜ」について学生時代から体系的に 

”だーれも”教えてくれていないと筆者は書いている。”だーれも”というのは筆者1)の言葉である。筆者の「かぜ」の定義は、「自然寛解する”ウイルス性感染症”で、多くは咳、鼻汁、咽頭痛といった症状を呈するウイルス性上気道感染」としている。 

筆者は、病原性微生物を明確に「ウイルス」としており、「細菌」による感染症を除いている。「かぜ」の診療で最も重要なことは、「細菌感染vsウイルス感染」の違いを明確にすることであるという。「ウイルス感染」は多臓器に及び、「細菌感染」は原則として単一臓器に一種類の細菌感染としている。細菌感染は「抗生物質(抗菌剤)」を必要とするので治療の違いが明確になる。 

咳、鼻汁、咽頭痛(嚥下痛)の3つの症状がそろった場合、「かぜ」と診断するーとしているが、①3つの症状が同等、②咳、③鼻汁、④咽頭痛が主体の場合など、「かぜ」を症状により4分類している。 

②咳のみの場合は「上気道感染症」、②鼻汁のみの場合は「鼻・副鼻腔炎」、③咽頭痛(嚥下痛)のみ場合は「咽・喉頭炎」と診断し、それぞれの治療をすべきであるという。「かぜ”」とは診断しない。 

筆者が強調していることは、それぞれの症状のみの場合、背景に重篤な疾患が潜んでいる場合が多いということである。例えば、「咳」のみの場合、1)気管支炎後咳症候群、2)後鼻漏、3)結核、4)咳喘息、5)GERD(逆流性食道炎),6)百日咳、7)ACE阻害剤、8)肺がんなどの疾患を考えなくてはならないという。 

3症状がそろった場合、「かぜ」と診断し対症療法のみで問題はないことを強調している。 

”かぜ”の民間療法には、ネギ、ショウガ湯、ニラ、葛湯、卵酒、・・・・など色々な療法がある。卵酒は有名であるが、アルコールは実際には病状を悪化させるようであり、推奨はされないようであるが、小生は”ぞく”とすると、アルコール消毒を十分してお風呂に入り床に就くようにしている。何事も、個人差があるので心配はしていない。「家庭の医学」を終える。(完)

 

1)岸田直樹:誰も教えてくらなかった「風邪」の診かた、医学書院、2012.

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2019年1月25日 (金)

コラム「医師として、武士として」  Vol.106 「老化:フレイル(2)」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.106 2019. 1.25  老化:フレイル(2

昨今、「加齢現象」を「フレイル」と同義語として用いるようになってきているが、ここでは、なじみのある「老化」という言葉を用いることにする。「老化」の定義は、「加齢に伴う生理機能の低下」とされているが、決して「加齢に比例」するものではなく、「加齢に伴って起きる現象」と言われている。

 「老化に伴う生理機能の低下」は、ゴムバンドに喩えるなら、古くなると弾力がなくなり切れやすくなる現象を想定するとわかり易い。

 個体(ヒト)はいろいろな臓器から形成されているが、その臓器を構成している細胞の「老化」とはどのような現象であるかを知る必要がある。「細胞の老化」が「臓器の老化」に繋がり、ひいては「個体(ヒト)」が老化する。「細胞」には、遺伝子(DNA)の集合体である23対の「染色体」がある。その末端に「テロメア」という物質があり、末端を保護している。「テロメア」は、細胞分裂をコントロールしており、細胞が分裂するたびに短くなりある程度の長さに短縮すると「細胞分裂」は起きなくなる。「たびに」という事は、「時を経る」と理解されるので「細胞の加齢」に伴う現象を「細胞の老化」といっても良い。 

 本論から外れる。我々は人類学的にはホモサピエンスに属するが、その中で我々のご先祖様であるクロマニヨン人から今日の「ヒト」の細胞の「分裂予備能」はまったく変わらないといわれている。クロマニアン人の平均寿命が30歳~50歳程度と短かったのは「細胞が分裂」をまっとうする前に、病気や災害などの環境因子により寿命が短くなったという。古代から「ヒト」の「細胞の分裂能」は変わらず、本来の寿命は決まっているが、病気や災害が寿命をちじめる。今日の我々と同じである。 

 話をもとにもどす。「テロメア」が短くなると不可逆的に細胞分裂、増殖を止め、「細胞老化」という状態になる。「テロメア」をコントロールしている「テロメラ―ゼ」という酵素がある。「テロメラ―ゼ」が活性化すると「テロメア」の短縮(細胞の老化)を食い止めることができるが、活性化しすぎると細胞の無限の増殖を引き起こす。細胞の「がん化」である。従って、「テロメラ―ゼ」は、「細胞の老化」や「細部のがん化」を制御しており、「もろ刃」の刃の機能を持つ。

 さらに、P53という遺伝子が「がん細胞」の発生を食い止めることが知られており、「がん治療」に用いられようとしているが、逆に「細胞の分裂能」を抑制することになり、「細胞の老化」が進み、引いては「個体」の老化を惹起する。

結局、外的要因(病気)がない限り、「人の寿命」は120歳と遺伝子により決められているが、遺伝子が変化しない限り「ヒトの命」は質、量とも変わらないのである。どうして、120歳なのかわからない。

遺伝子は「突然変異」と「自然選択」と「遺伝的浮動」によって変わると言われている。雑駁にいえば、“成り行きまかせ”に変わるということになる。

その様に考えると、「老化」を止めようなどと考えることは無駄なことになる。「寿命」の遺伝子操作は、「命のトリアージ」に繋がるのでしないほうが良いと思っている。「病気」は「ヒト」の寿命を変えることになるので、「病気」に対しては、遺伝子操作をも含め何らかの対策を立てなければならないが、「ヒト」の「老化」を食い止める努力はしてもしなくともどうでもよいことになる。「老化」という現象を知って、今更,じたばたしても“詮無い”ことが理解できた。 

自然体で気楽に日々を送ろう。さあ、美味しい酒肴で一杯やろう。(完)

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