在宅看護研究センターLLP/日本在宅看護システムは、 「自分らしく生き抜く」を重視・・全員メッセンジャーナース、多形態の看護・相談体系、看護力向上支援を検討・推進中  同志の看護師募集

1986年3月24日、開業ナース集団の在宅看護研究センターは誕生しました。組織替えにより、その収益事業部門として1992年に設立したのが日本在宅看護システム在宅看護は今の時代に合わせて進化させなければいけません。看護の本質にこだわりつつ、本来あるべき看護、今の時代に看護師としてやるべきことを様々な形で追求・追究しています1999年には在宅看護研究センター付属訪問看護ステーション を設置。
 

・勉強会を開催するなかで、全スタッフが今求められている看護を提供し、1つの方向に向かって行動する。今の時代に即した新しい日本在宅看護システムの構築が進んでいます。 

【看護は実践なくして語れません。 看護は実践なくして評価されません】 私たちは、実践・教育・研究を軸に誕生した在宅看護研究センターの理念を基に活動しています。

            活動報告「システムのスタッフは、今」  2017_0521_152351p1040113

 「ボスは、これからの看護師は自身で何が強みか、何ができるのか、どこで勝負できる看護師なのか言える看護師じゃないと淘汰されていくって言ってましたよ。2025年が来るからといって、ただ看護師というだけではクビになりますって言ってました!

すごいハッキリしたでした」(2017.1.22川口)

在宅看護研究センター設立31年目、めざすは、システム発足当時の看護と介護の連鎖・連動。メッセンジャーナースと共に歩む仲間、「私はこんなことで取り組みたい」という意志をお持ちのあなたをお待ちしています。

お問い合わせ:℡03-3362-3193(担当:片岡・奥山)

『メッセンジャーナース 看護の本質に迫る』 (看護の科学社)      注文は、看護コンサルタント 

*「看護実践の科学 9月号」(看護の科学社) [特集]メッセンジャーナースが伝える看護師の主体性

*中央公論9月号(8月10日発売) 特集:対談「父・永六輔は家族に囲まれて旅立ちました」

開業ナースのエッセンス 「暮らし」に伴走する看護のすすめ(心の科学:日本評論社)・Ⅱ.ともに創りあげる看護・・・加齢とともに輝いて生き抜くには、今、何が足りないかー実証研究への取り組み(奥山直美)

*婦人公論2015.1.22号「ルポルタージュ 時代を創る女たち 開業ナースは心を聴く」⇒「20150122.pdf」をダウンロード

日経新聞夕刊『人間発見』2012年4月16-20日掲載「開業ナース、患者を自宅へ」⇒     

ライフアシスト第82013巻頭インタビューいまを生きる「その時」は家で WEB

特集「今求められるコミュニケーションスキル」看護の科学社 9月号 VOL39 NO.10

医療心理学 第1章第4節ターミナルケアにおける心理学的支援(2013年3月 おうふう)

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連載コラム「医師として、武士として」  Vol.90 「デジタル」と「アナログ」(その3)     安藤 武士 Andou takeshi

Vol.90 2017.11.6 「デジタル」と「アナログ」(その3)

 「ヒト」は 「アナログ:連続的」で生きている。わかりやすく言えば、生きている限り「生物」としての連続性がある。しかし、実生活ではなんらかの「括り」で生活を送っている。最も身近なことで分かり易いのは「男女」の「括り」である。「ヒト」は、「デジタル:離散的」で実生活を送っている。

四半世紀ほど前のことである。ある土曜日の午後、久しぶりに明るいうちに帰宅した。小生宅の玄関先が、野良ネコのエサの食い散らかしで汚れていた。帰るなり、居間にいた家人にその旨を告げた。そこにいた娘が、「気が付いたなら自分で掃除すれば!」と冷たく言った。家人は、目をつぶりだんまりしていた。何か異様な雰囲気であったので、玄関先を掃除し、小生は自室に引き込んだ。

それまで、何十年とあらゆることを家人が行っていた。脱いだ洋服、下着のかたづけ、郵送、銀行の支払い、種々の手続き、掃除、ゴミ捨てなどなど、小生ができることも家人が行っていた。それまでは、何の疑問を持たずにいた。「亭主関白」の生活を送っていた訳である。あなた「作る人」、わたし「食べる人」である。

真剣に考えた。まず、家人は専業主婦である。家庭という小さな社会でも、「役割り分担」がある。小生の仕事上、そうした生活しかない。決して「亭主関白」ではない。男女には、役割があるはずである。小生は「食べる人」なのであると。

畏まって言えば、「ジエンダー論」になる。実生活では、「生物学的に男女にふさわしいと思われる思考・行動・表象の違いからくる役割がある」という考えである。男性にとっては「男らしさ」であり、女性にとっては「女らしさ」である。現在の「性」は、社会的、文化的に作られた「性」であり、生物本来の「性」ではないと言われているが、いつかは小生の言い分が通る「理論」を見つけようと、日々、思いを巡らしていた。

先に述べた2004年開催の第一回ジェンダー法学会会場には、法曹界で活躍していると思われる黒いスーツ姿の30代の女性が席を占めていた。男性は、小生を含め5,6人であった。

設立主旨が披露された。詳細は忘れたが、「法律」は男性が作り、「法曹」に携わるための教育も男性が行っている。「憲法」では男女平等となっているが、法曹界では男性が支配している。これを糺そう言う学会であった。社会的に最も「男女平等」はずの法曹界での実情を知りどこの世界も同じようことがあるのであることを知った。

性差医療・医学研究会 第一回学術総会(現在は学会)での小生にとって驚きの講演、貴邑富久子博士の『脳の性、セックスとジェンダー』によると、体系はデジタル的に「男性」「女性」に括られるが、体内機能の「性」は「男性」から「女性」まで連続的に変化するという。従って、生物学的には明解に「男女」とは括れない。しかし、社会では「ヒト」をまず体型で「男女」と括る。従って、社会的男女は、作られた「性」ということが明確に理解できた。

 約25年前の出来事以来色々なことを学んだ。生物学的に「性」は明確に2分できない。実生活の男女の役割は社会の約束ごとである。他の生物でも同様かもしれないが、「ヒト」は「男女」という言葉で一括りできない「生き物」であることを理解した。「ヒト」は、「ヒト」の括りで良い、男女の固定した役割はないと思うようになった。

 小生の完敗である。しかし、現在、玄関の掃除は免除されている。(完)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.89 「デジタル」と「アナログ」(その2)     安藤 武士 Andou takeshi

 Vol.89 2017.11.5 「デジタル」と「アナログ」(その2) 

「ヒト」の生態は、アナログ(連続的)で動いていると前号で記した。しかし、社会生活では 「ヒト」は何かで括られている。肌の色、生まれた国、人種、年令、男性、女性が古来からの括りである。その様に考えると、「ヒト」は「デジタル:離散的」に処理されている「もの」と言える。近代化すればするほど、社会的には「離散的」になる。「括り」が多種多様になってきている。自分では、心身ともに良いことも悪いことも、過去から現在まで連続性のある「生き物」と思っても、現実は、最も「括り」のある「生き物」であると思っている。

 現存する「ヒト」はホモ・サピエンスという「ヒト属」に属し、約700万年前、霊長類から分かれた「生き物」で変化しながらも連続している生き物であるが、社会が複雑になればなるほど「括り」も多様になってきている。太古では、せいぜい「種」と「性」が「括り」であったろう。 

 話をもとに戻す。「健康診断」では診察がある。医師は、診察時に「健康診断票」を見て名前を確認する。年令・性別欄に目をやる。それから、受診者に現在の健康状態を訪ねる。所謂、問診である。次いで診察に移る。診察時には心音・呼吸音を聴く。聴診である。アレ!、男性と健診票に書いてあるのに乳房がある。女性と記されているのに乳房がない。 

小生は、十数年前、初めて「性同一障害」と言われている人を診察した。始めはどのように接したら良いか戸惑ったが、診察をし終えてから「健診票」に「男性」とあるのは間違いですねと、「性別」記載の違いを詫びる。受診者は、「いいえ、まだ戸籍を変えていないんです。」と恥ずかしそうに言う。数年間、毎年、数人の「性同一障害」のある人、現在では「障害」という言葉を避け「LGBT」と表現される若者の「健康診断」を行った。徐々に立ち入ったことにも応えてくれた。小生にとって「ヒト」は「男女」という文字では括れない連続性のある「生き物」であることを肌で知った。 

 「LGBT」は、LesbianGayBisexualTransgenderの頭文字をとった略語であることはご存知と思われる。「体の性」と「心の性」が一致しないで外科的転換を望む「ヒト」を指す。両方の性的特徴と器管のある人をインターセックス、Queerともいう。総じて、「性的マイノリティー」と言う。

 「ヒト」は、社会的に男性、女性と2分されていても生物としては、解剖学的にも生理学的にも連続性がある事を実体験し驚愕したのである。

  2004年、性差医療・医学研究会 第一回学術総会(現在は、日本性差医学・医療学会)が東京で開催され、小生も聴講した。聴講した理由は後に記す。

 招待講演は、アメリカのコロンビア大学の 世界で初めて「性差医療」の確立を提唱したDr. Marianne J Lgatoで、「性差医療の実際」に関する演題であったと思う。

 横浜市立大学大学院医学研所貴邑富久子博士の講演は『脳の性、セックスとジェンダー』であった。Dr.Lgatoは、生物学的に「男女」があるにも関わらず、現実は医療が「男性」に偏ったモデルで行われているので、それを是正しようと立ち上がった医学者である。感銘を受けた講演であったが、これは本題と離れたことなのでこれ以上立ち入らない。

  もう一人の招請講演者である貴邑富久子博士の『脳の性、セックスとジェンダー』は、体型は男性でも生物としての(脳)機能は女性である生物(ヒト)が存在するという講演であった。無論、その逆の話もある。小生にとっては驚きの講演であった。講演の記憶をたどると、受精すればすぐ男女の体型は決まるが、脳の機能は母体内(子宮)環境が影響するとのことである。

 2004年に得た学術的な知識を、数年後「健康診断」で驚愕の体験をした訳である。小生は、以来、「ヒト」と接触する場合、男性、女性という「性別」の括りに係らず、俯瞰的に接触するようになったと思っている。気取らず言えば、生物学的にも社会的にも外見ではわからない色々な「ヒト」がいる、存在するという事である。

 家人と時に議論をする。過年、小生が、「そのように伝えておいて」というと、家人は「やだは、自分で言えば」と断る。先日、家人が「主人(小生の事)がいないので返事ができません。後でお電話します」という電話の会話を耳にした。家庭という小さな社会でも夫婦、男女、子供で役割分担があると思っていた小生は、“ニヤリ”とした。当時、「ヒト」は、男女の人権は同じでも、生きていくには役割分担が「ある・ない」という家族のバトルがあり、小生の言い分を証明しようとしていたが、・・・。(続)

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【在宅医療助成 勇美記念財団の助成による市民の集い】「私の看取りのシーンを考える」医師が忘れられない看取りのシーン・・・11月25日(土)13時半から中野サンプラザ8Fで開催、多くの皆さんがご参加くださいますように!

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コラム「医師として、武士として」  Vol.88 「デジタル」と「アナログ」     安藤 武士 Andou takeshi

1941年、新潟県生まれ。1967年、新潟大学医学部卒業後、医師登録と同時に外科研修を開始。72年、呼吸器・心臓血管外科を専攻後、80年より、心臓血管外科部長として日本赤十字社医療センターに勤務。87年より職域病院部長、2001年より職域診療所所長、2010年より佐野市民病院健康管理センター所長、そして 現在は、医療法人社団東華会・介護老人保健施設たかつ施設長として活躍。労働衛生コンサルタント・スポーツドクター(日体協)・健康スポーツドクター(日医)・認定産業医(日医)の資格を持ち、これらの5つの顔を絶妙な味で使いわける医学博士である。身体の大きさと、豪快な笑い・笑顔には、その人柄と存在感をより強くアピールする何ものかが潜んでいる。やはり'武士'にして"武士"ここにあり。

Vol.88 2017.10.29  「デジタル」と「アナログ」                   

 

「健康診断」を受けたことがない人は極めて少ないのではないか。「結果報告書」を手にした人は、まず自分が一番気にしている検査項目に目をやる。検査項目の判定が、「A:正常」、「B:正常範囲」を目にすれば、ホッとする。「C:経過観察」であれば、“まあまあ“と安心するが、何に注意すれば良いのか知りたくなる。「D:要精査」、「E:要治療」が表記されていると、”やっぱり”、“どうしよう“とふさぎ込む。そんなはずないと深刻に考えないようにするが、気持ちに引っ掛かりをもった日々を送る。

 血圧の評価である。日本高血圧学会では、至適血圧、正常血圧、正常高血圧、I度高血圧、II度高血圧、III度高血圧と血圧を細かく「区分」し、区分に応じた評価している。「正常高血圧」は判定「C」と表示される。正常高血圧とは何ぞやという事になるが今回はそれに触れない。I度高血圧:140/95mmHg以上になると、「高血圧症」と病名がつく。更に高くなると降圧剤服用が必要になる。連続的な値を区分し評価される。通知を受けた受診者は140/95と139/94とどこが違うのだろうかと思うはずである。

ヒトは生物に属する。生物の生理学的、代謝の変化は全て連続性が保たれている。生体活動を「区分」し、右・左に分けることは現実的にはやもうえないが、個人としては釈然としない思いがある。

学校の試験も同様である。70点以上を合格、未満は追試。70点と69点の差は、学問上どこがどのくらい違うのであろうかと69点の学生は嘆く。数字で値や量が「離散的」(とびとび)なって表示されることを「デジタル」という。一方、

重量・長さ・回転数・電流、時間など連続的に変化するで示すことを「アナログ」という、と辞書に記されている。人を含めた自然界では、全て「アナログ」で動いている。時に、ある限界点に達するとそれ以前と全く様相がことなる現象を見せることがあるので、自然界にも「デジタル」という現象もないではないと書物に記されている。比喩的に、物事を割り切らず、曖昧さを残しつつ理解する人のことを「アナログ人間」と呼ぶこととがある。今日ではあらゆることが「デジタル」で表示されている。「デジタル」という文言知らなくても「デジタル」生活を、疑問に思う人はいない。従って、「アナログ人間」を「古くさい人間」と揶揄することもある。

「芸術」はデジタルで評価されない。表現されていることが人の感動を与えるかどうかという、芸術性で評価される。レオナルド・ダビンチの「モナ・リザ」とエドバルト・ムンクの「叫び」で理解できる。芸術性の有無に優劣の区分は付けられない。

医療の場合である。現代の医療は「アナログ」を許さない。全て、得られた検査値を「区分」しそれに見合った対応をしないと、“やぶ医者”といわれる。“やぶ”で済めば良いが、訴訟問題が起きた時には法的にペナルティーがかかる。

「健康診断」の「判定」は「デジタル」で処理するのもやもうえないが、老練な医師になると「デジタル」よりも「アナログ」医療になる。経験的に人はそれぞれが違うということを肌で知っているから「アナログ」で判断する。経験豊かな医師は意識せずとも「アナログ」人間となる。

「認知症」の診断である。入り口検査として医療関係者はご存知の長谷川式簡易知能評価スケール(HDS-R)が用いられることが多い。長谷川式で通用する。

30点満点で21点以上は正常、20点以下は認知症の疑いあり、と診断される。1点差で,あの人、「認知なの」と陰で囁かれる。実生活で21点と20点とに違いはどこにあるのだろうかと思う人はいるはずである。 受けなければ「認知」と言われないで済む。

小生は「アナログ人間」を好む。自身、「アナログ思考」で物事を処理することが多い。従って、好い加減な「ヒト」と評価されている。

殊に最近、「デジタル思考」を避けている。小生は、長谷川式と聞いただけで話題を他に移す。数年前、「自動車免許証」は返納し「自動車経歴証明書」を携帯している。更新に際し、何かあらたな試験を受けなければ制度になっていると聞いている。(続)

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11月25日市民講座「私の看取りのシーンを考える」中野サンプラザ、常時、同志の看護師募集」に新しいコメントがつきました。☞母を慣れない場所に連れてきて、92歳で少しずつ衰え、兄のところで上手に生活ができればと、私も安心し、東京に戻りました。

詳細は☞ こちら

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コラム「医師として、武士として」  Vol.87 「紳士」     安藤 武士 Andou takeshi

Vol.87 2017.9.24 「紳士」 

「紳士」でありたいと思う男性は小生だけではないと思う。「紳士」でありたいと思っているからには、現在、自身は今だ「紳士」非ざると思っていることになる。

日本語の「紳士」は「縉紳の士」に由来するという。「縉紳」は、束帯を挿んだ高い官位を有する人物をさしており、江戸時代から用いられているという。

英語では”gentleman”と訳されていることはご存知と思う。明治の初期に英国で学んだ夏目漱石らが、英国で“gentleman”と呼ばれている人の立ち振る舞いが、江戸時代から用いられている「縉紳の士」にあたるとしたーと、ネット辞書に記されている。「縉紳」が「紳士」と記されることになった由来はわからなかった。

日常会話においては、礼儀マナーに長けているものを表現する際に紳士的と言うことがある。また、マナーに厳しく、教養があり経済的にも裕福な年配の男性というイメージを持たれることが多いと記されている。

小生はそれに憧れを持っていた。過去形であるからには、努力しても無理である条件があることによる。「紳士」になろうとしている努力の一端を記す。ドアが閉まりかけているエレベターに乗るため小走りし、エレベターに飛び込まない。チョット急げば入り込めたかもしれないが、入りこめなかったことを想定し閉まりかけているドアの前で悠然としている。歩道でも同じである。交差点で青信号が赤信号に代わるとき青信号が点滅するが、走れば間に合うのにあえて走らず「紳士」然とし次の青信号まで数分待つ。心の内では無念と思っていることが多いが、これが、「紳士」の基本の姿であるとし納得させている。電車、地下鉄もそうである。“きょろきょろ”と空席探しをしない。

過日、学会で名古屋詣でをした。何時も目的地に行く時は、座席指定券を購入し計画どおり目的地に着くようにしている。帰りは利用する新幹線の時間で行動を縛られないよう自由席券を購入しておく。過日の学会でも同じようにした。久しぶりに会う友人と学会終了後、時間の許す限り会食しながしら時間を過ごした。積る話をしているうちに、21時過ぎになったのでお開きとした。名古屋駅のホームに着くと、上りの「のぞみ」の発車ベルが鳴っていた。走れば間に合うが、「紳士」の条件に合わせ悠然と「のぞみ」を見送った。さて、次の新幹線は何時だろうと思い時刻表をみると、22時14分、「こだま」、静岡駅行となっている。見送った「のぞみ」が、上りの終電であった。

今更、じたばたしても仕方がないと思い「ホテル」を探した。土曜日とあって名古屋駅周辺の「ビジネスホテル」はどこも満室。「超高級ホテル」に泊まる羽目になった。

僅かな差で無駄な出費をしたことになるが、「紳士然」としたことに満足している。(完)

 

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コラム「医師として、武士として」 Vol.86 「“呑んべい”の言い訳」(2)     安藤 武士 Andou takeshi

1941年、新潟県生まれ。1967年、新潟大学医学部卒業後、医師登録と同時に外科研修を開始。72年、呼吸器・心臓血管外科を専攻後、80年より、心臓血管外科部長として日本赤十字社医療センターに勤務。87年より職域病院部長、2001年より職域診療所所長、2010年より佐野市民病院健康管理センター所長、その後、医療法人社団東華会・介護老人保健施設たかつ施設長として活躍。労働衛生コンサルタント・スポーツドクター(日体協)・健康スポーツドクター(日医)・認定産業医(日医)の資格を持ち、これらの5つの顔を絶妙な味で使いわける医学博士である。身体の大きさと、豪快な笑い・笑顔には、その人柄と存在感をより強くアピールする何ものかが潜んでいる。やはり'武士'にして"武士"ここにあり。

Vol.86 2017.8.17 「“呑んべい”の言い訳」(2)

           「“呑んべい”の言い訳」(1)こちら

「呑んべい」は、なんやか言い訳を考えながら飲む。自分自身を納得させる言い訳をしないで呑む人は、本物の「呑んべい」ではない。このコラムでは、それを「呑んべい」の定義とする。

朝、今日は止めておこうかと思っても、一仕事を終え帰宅する際、何かと理由を付けて、今日は、まあいいかと仲間と居酒屋に繰り込む。大抵、今日は飲まないと決めていたがと、仲間のせいにする。すでに「依存症」に近くなっている。飲む量の多寡でないでなない。毎日、晩酌をする人は、大半は「依存症」か「依存症」候補者である。

「キッチンドランカー」という言葉を御存知と思う。それが常態化すると「依存症」になる確率が高くなる。他人に迷惑を懸けないうちは、個人の問題として片付けられる。明らかにそれが原因で人様に迷惑をかけると「アル中」と言われる。「アル中」は、今は医学用語として用いられてないが、「依存症」と言われても「そうかな」と思うだけであるが、「アル中」と言われると、むきになって否定する。

「依存症」の医学の定義は、ある物事に依存し、それがないと身体的・精神的な平常を保てなくなる状態を指すとされる。アルコール依存症のような物質に対するものと、ギャンブル依存症、インターネット依存症のような行為に対するも、人間関係に対するものがある。 医学書を見ると、幾つかの「依存症」の病名が記載されている。

「ワークホーリック」という言葉がある。これも「依存症」であると思っているが、医学書には載っていない。現在の社会では、仕事第一の人が愛でられる風土なので、「仕事依存症」は、好ましく受け止められることが多い。しかし、自分の一生、家庭にとっては「害」となることもある。定年を迎え、さて、これからの人生をどのように送るか、仕事一筋だけの人生を悔やむ。趣味を持っていればと。家庭は、「呑んべい」と別な世界を送っている。ご近所さんの話、スーパーの話、新聞のチラシ広告、宅配便の話、クリーニング屋さんの話など、「呑んべい」は全く入り込めない話ばかりである。

帰宅しても家庭の話題に入り込めず、晩酌をし風呂に入り寝るといった人生もまた「依存症」候補である。晩酌の初めの一杯が緊張した気分を解す。これが、家庭に帰ると自動的にできるシステムになっているとその習慣に頼る。長年、続くと「依存症」になる。

小生は、健康面談を受けることが多い。中年の人で毎日、飲酒する人に、午前中はかったるそうにしているが、午後になるとバリバリ活動する人、言い訳をし「呑む人」、過度に晩酌をする人は要注意である。

先日、明らかに依存症と思われる人と面談した。今日は、止めておこうと思っても帰宅するとすでに酒肴が並んでいるので、やむを得ず「一杯」と、言い訳をした。「呑んべい」は呑むことに対し、少なからず罪悪感を持っていることが多い。呑まざるを得なかったと自分に言いきかさているのである。

小生は、アルコールは嗜むが「呑んべい」ではない、「依存症」になっていないと思っている。2・3週間ほど、アルコールを遠ざけても精神活動はかわらない。「依存症」でないことを確認するために禁酒をしたのである。確認はできた。

さあ、今日は何を「酒肴」に一杯、やるかな。(完)

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