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わが闘病の記―生と死へのアクセス

八十乙女のつぶやき  国分 アイ Kokubun Ai      

1920年福島県生まれ。日本赤十字看護婦養成所を卒業の年に大平洋戦争が勃発し、陸軍海軍病院に勤務。戦後は日本赤十字中央病院へ勤務。後に同病院専任臨床指導者となり、日本赤十字看護短期大学の学生指導、教務部長を経て同病院副看護部長歴任。退職後、自治医科大学付属高等看護学校、杏林大学医学部付属看護専門学校、埼玉県立衛生短期大学、日本赤十字愛知短期大学で教鞭をとるというように、一貫して看護教育に携わる。自身も、胃切除、腰椎圧迫骨折、肋骨骨折、胆のう摘出など怪我や病気を体験し、その体験が看護教育に生かされてきた。さらに70歳で多発性骨髄腫を患いながら、放送大学を5年で卒業。フランス刺繍、ケーキづくりと何事にも研究心旺盛。

国分アイ先生は、2004年4月14日 昇天されましたが、そのお心を継続して掲載させていただきます。>>>>>バックナンバー

Vol 14 わが闘病の記―生と死へのアクセス

「痛―ッ!自分でやるから手を放して!」。介護を受けながら、この苦痛悲鳴。わずかな身体の動きで起こる激痛を、どうしたら起こさないようにできるか、と目をつむりながら痛みとの取引に全神経を集中させている。 

ここ数日の痛みをの戦いに、私はすっかり負けてしまった。疲れた、本当に疲れてしまった。半分夢の中ともいえる心のさまよいのさなかで、ふと気づいた。とうとう、人間として生きるための欲求の、最低の次元まで落ちてしまったと。食べる、排泄する。この最も基本的なことがままならないのだ。

特に、健康ならば快感でさえあるはずの排泄がこたえる。身体の中心部である腰から便意が起こり、手足の動きにさえ連動して激しい苦痛を伴うのである。食べることは、質も量も制限してしまった。しかし排泄は、尿はともかく、ふだんは便秘がち。しかも、腰の痛みで差し込み型の便器が使えない。おむつ、新聞紙を使い、どうしてもヘルパーさんにお願いするほかない。病多い人生で馴れていたつもりだったが、やはり病人になりきれていないのであろう。これは私の覚悟の問題であろう。なんとか理屈でごまかそうとする、私の見栄があったかもしれない。

晩学で、私は放送大学に学んだ。その卒論が心理学者、アブラハム・マズローの、人間の基本的欲求に関するものだった。これらは段階的に生理的欲求、安全の欲求、所属・愛への欲求、承認の欲求、そして自己実現の欲求となる。このうち、3段階までは人間以外の動物にもみられる欲求であり、4,5段階は人間が人間らしく生きるための欲求である。

かつて看護職にあるとき、QOL(クオリティ・オブ・ライフ、生活の質)は看護行為の一つの目標であった。どんな病人でもその病状なりの生き甲斐を与えること、質の高い人間らしい生き方ができるように援助してゆくことだった。

現在病人でもある人間にもそれを願い、制約された狭い行動範囲の中で人間らしく生きる事、すなわちQOLを自らも維持することを課してきたつもりだった。

なんとか室内歩行できる頃は、掃除、洗濯、買い物は市の福祉の恩恵で、週3回派遣していただくヘルパーさんに依存しながら、刺繍やハーブを入れたシューズキーパーづくりなど、手先の仕事に没頭することができた。お見舞いにいただいた花をモデルに、和紙の葉書にスケッチして、自家製の絵はがきを作ったりもした。そうした作業が、病の憂さを忘れさせてくれたものだった。

多発性骨髄腫という病の宣告と同時に、余命は2年から8年という宣告も受けた。にもかかわらず、宣告以来12年目を迎えて、今も生きている。ひところ、看護婦なのだから、自分のもつ知識、技術を生かして生き長らえているのだという誇りもあった。それも、いまやおぼつかない。病の苦しみの中で、必死にあがいている。できれば“ぽっくりと”を願ったのに、いつの間にか人の手を煩わす病人になっていた。

いずれは死を受容しなければならない。その準備を少しずつしなければ、と思っている。

(2002年)

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