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2008年4月

看護コンサルタントからのご案内

コラム「起業家ナースのつぶやき」、施設のコンサルティングや研修、ビデオ制作、健康グッズを扱っている関連会社:看護コンサルタントのホームページが新しくなりました。是非、覗いてみてください。

http://www.nursejapan.com/nci/

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事故が起こって3週間が過ぎた

日は過ぎて、3週間になって思うこと。bicycle
ベルトをしている限りは、少しずつであってもいつもの動きに戻ってきていると感じるようになった。
でも日常生活の中で1本の骨がこんなにも影響があるとは…例えば、紐を結ぶ、ビンのキャップをあける、そんないつものことができない、焦りとは別に人の身体の不思議さを実感する。
いつものように生活できる、その幸せを改めて思い、感謝する心を忘れないようにと思う。

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幸せの葉っぱ

01_2 わが社のガジュマロです!

プレゼントでいただき鉢が少し小さくなってきたくらいに成長しているんですが……。

なんと!発見!ハートの葉っぱです。

ごくごく自然なことかもしれないけれどふっと幸せになっちゃいました。

 

プレゼントにくれたHさん!

03_2

02

ありがとうございます。。T.I

 

 

 

 

 

 

 

 

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痛みだけではない、不安・苛立ち等が交錯する‥。

 事故から9日目、鎖骨骨折して初めて、骨の痛みは本当に強いもの、そして1本の骨が折れることで、こんなにも日常生活に支障が出るということを身をもって知った。
 今まで手術といえば虫垂炎位、大きな怪我もせず過ごしてきた私にとって、今回の事故直後は大丈夫、と言ってはいたが、時間が経過する中で大きなショックを受けていたと改めて思う。幸いにも1週間を過ぎ、痛みも多少引いてきた。でもベルトをしていても不自由、ましてや外してしまえば骨折側の腕を動かすことなどもっての外、と言う状況は変わらない。
 今まで訪問をする中で、骨折後のリハビリに関わる事も多かったが、自分がその立場に身を置いて初めて実感する事が沢山ある。痛みだけではない、不安・苛立ち等が交錯する‥。
 でもそんな中、社内の皆からの「大丈夫ですよ、皆でがんばりますから、しっかり休んで元気になって下さい。」という言葉や知人からのお見舞いメール、療養者の方々からの励ましの言葉等、周りの温かい気持ちに感謝しながら、一日も早く元気になりたい。本当にありがとうございます、がんばりま~す!

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介護:役割分担

医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi


1941年、新潟県生まれ。1967年、新潟大学医学部卒業後、医師登録と同時に外科研修を開始。72年、呼吸器・心臓血管外科を専攻後、80年よ り、心臓血管外科部長として日本赤十字社医療センターに勤務。2001年より職域診療所所長として活躍中。労働衛生コンサルタント・スポーツドクター(日 体協)・健康スポーツドクター(日医)・認定産業医(日医)の資格を持ち、これらの5つの顔を絶妙な味で使いわける医学博士である。身体の大きさと、豪快 な笑い・笑顔には、その人柄と存在感をより強くアピールする何ものかが潜んでいる。やはり'武士'にして"武士"ここにあり。 >>>バックナンバー

vol.33    介護:役割分担    2008-4-13

 介護は「医師や看護師以外の者が病人の介抱や看護をすること」と辞書に出ている。人は、素朴な心さえあれば誰もが人を介抱するはずであると、敬愛する故・司馬遼太郎氏が文章に残している。たいていの人は人の不幸をみたとき、「可哀そうじゃないか」という思いが自然におこるという。この衝動を“惻隠の情”と表現している。

 過年(平成9年)、「法」により人を介護する制度がわが国に導入された。介護保険法である。介護を他人に任せる制度である。介護のプロも誕生した。社会福祉士、介護福祉士、ケアマネジャーなどなど。しかし、今なお、介護の苦労話を耳にする。

 近着の産経新聞(2008年4月4日)に、ノンフィクション作家の久田 恵女史が「男女間の暗くて深い川」と題するコラムを寄せている。無断掲載、お許しをいただく。

 ある大手企業の依頼で、「高齢者の介護」について話をするという稀有な体験をしてしまった。

 なんと聞き手は男性のみ。しかもおおむね40代、50代の働き盛り。全員、仕立ての良紺系統のスーツに、豪華な会議室にずらりと並んでいる姿に目をみはった。(略)

 雑然として、ごちゃごちゃとして色とりどりの混沌の日常を生きているものとしては、別世界に紛れ込んだ「不思議の国のアリス」みたい・・・。(略) ともあれ、これまでの自分の人生で踏み入れたことのない場所。(略) もっとも専業主婦率の高かった団塊の世界のおおかたの女性たちも、無縁だった場所である。ここで、「介護」の話とは、なんたる場違いか。(略) これでもかというほど事細かに「介護を抱えた家族の日常」についてくどくどと話をしたのだった。

 話を終えてご質問は?となって、どんなふうに聞いていただけたのかと周囲を見回したら、どことなく困惑した空気が・・・。いつまでもシンとしている。と、勇気ある男性が声をあげた。

 「自分の人生を犠牲にしてまで、親の介護ってしなければならないものですかねえ」 
ええっ! だったら誰がするの? 意表をつかれて、頭の中がまっ白。むろん、最終的には、病院とか介護施設とかで、ということもありますが、そうなるまでの日々、そうするまでのあれこれ、そこにいたるまでの心の葛藤、なんというか、もうてんこ盛りのごとごたの四面楚歌。目下この国の高齢者介護の現実ってそういう事態よ。「自分の人生」って言ってもねえ。家事、育児、介護のあれこれ。誰かのオムツを替える、そうゆうことも含めて、降ってくるものすべてを受け入れて生きるしかないのが「自分の人生」ってことではではないかしら?質問をした彼は家に戻って妻にきちっと言えるだろうか。「キミ、自分の人生を犠牲にしてまで、親の介護をする必要はないんだよ」と。

 やっぱりね。男と女の間には、暗くて深い川がある、そう思った体験だった。

 ライオンの話である。 東アフリカのサバンナに生息するライオンは、群れをなして暮らしている。群れは、1頭のオスと数頭のメス、そしてかれらの子供達。家族で暮らしている。狩はメスの役目。ヌーなど大物はメス全員であたる。仕留めた獲物はまずオスがたべ、ついで子供たち。最後に獲物を仕留めたメス。

 オスは、いつも群れから離れ悠然としている。5感を研ぎ澄まし、外敵から体を張って家族を守る。”なんで俺だけ危いめに遭わなければならいの?”とボヤかない。メスは、”ずるい、自分で獲れば”と、オスを非難しない。そうしている内に子供たちは巣立っていく。大掴みに言えば、これがサバンナのライオンの一生である。数千年は続いていはずである。これからも続くであろう。NHKのTVで知った。

 このコラムは、久田 恵女史の「男女の間の暗く深い川」の話を揶揄しているのではない。介護は”男がやるものではない”と言っているのでもない。人にも、男は”これ”、女は”あれ”と生物学的特性による役割分担があること言いたかったのである。男女の役割は必ずあるのである。小生の揺ぎなのい持論である。しかし、このコラムを家人が見ないことを祈っている。小生の明日を穏やかに過すために。

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絶望とショック・・初美の命は、あと3カ月

● 須之内 哲也 sunouchi tetsuya         

事故に遭わなければ一時代を築いたに違いない元・オートレーサーによるコラム

「須之内 哲也の世界」~もう一度会いたい~

「おれが生きているのは初美のおかげ。ただ、もう一度会いたい」。
その時々の情景を思い浮かべながら、ひたすら心の内を書き綴っていく。

事故に遇わなければ・・船橋で注目され一時代を築くとうたわれた元オートレーサー、
彼の車名は知る人ぞ知る『ホージョウ』。
レースの賞金で自家用車をもらうほどの一流選手で、弟子を十数名も抱え、師匠と呼ばれるほどにのぼりつめていた。
しかし、30歳にならない歳で脊髄を砕く大事故に遭い選手生命を閉ざされた。
車椅子での生活を余儀なくされ、周囲に当り散らしたこともあった。そんな時、妻の初美さんが見せる悲しそうな顔。
「哲っちゃんのニコニコ笑っている顔が一番好き」という初美さんの言葉・・
それからの生活はいつも一緒で何をするにもふたりだった。
しかし、初美さんは9年前、彼の手の中で逝った。「哲っちゃん、愛してる」の言葉を遺して・・。

⇒バックナンバー(vol11以降)

⇒バックナンバー(vol10まで)

vol.11.絶望とショック・・初美の命は、あと3カ月      2008-4-13

 私と次男はすぐに家に帰り、神様に手を合わせ、初美が無事にすむことを祈って、病院に戻ると、皆が談話室で待っていた。ここで待って居てくれと言われたらしいが、私はじっとしていられず、手術室の前で待っていた。やっと終って、先生から手術室に呼ばれた。
私と次男と姉と妹と4人で、先生が、切り取ったガンを見ながら、説明してくれた。結果は「胃を3分の2取って、周りのリンパ線も取ったが、大動脈のところにガンが見つかったけれど、それは取りきれないので残っている」そして「目標は1年だったけど、3カ月になった」と先生の説明を受けた。

 「3カ月」と聞いて「初美の命があと3カ月しかないのか」と私は絶望とショックで言葉が出なかった。姉が先生に色々と聞いていたが、私には、まったく分からなくなっていた。

 初美の病室に戻って見ると、ベッドが無く、そこだけ空間になっていた。すごく嫌な思いだった。初美は手術後、ナースステーション脇の病室に入って居たけれど、中に入っていいものか迷っていた。隣のベッドにいる金子さんに聞いた。「大丈夫よ入っても」と言ってくれたので、看護師さんに聞いて中に入った。初美の顔を見ると、鼻からクダが入り、点滴をして、痛いのか唸っていた。看護師さんに聞くと、「心配しないで大丈夫だから」と言ってくれたけど心配だった。少しだけ初美の側にいたが、「今日はこのぐらいで、明日病室で会えるから」と看護師さんに言われたので、皆で家に帰った。

 家に戻ってから、私は車椅子なので、初美の顔まで手が届かないので、手術後一週間だけ、私の姉と、妹と、初美の妹三人に交代で看病を頼んだ。

 7月3日、病院に行くと初美は病室に戻っていた。初美は入院前まで、タバコを吸っていたので、痰が絡んで苦しそうに体を動かしながら「お腹に力が入らないよ」と言っていた。私が初美の背中をさすってやりたいけど、モニターがベッドの脇にあって、私はベッドの足元に居るしかなかった。どうしても誰かに頼まなければならない、自分で背中もさすってやれない、心配だけしか出来ないで見守るだけの自分が情けなかった。

 7月4日 (土曜日)病室に行っていると、看護師さんが来て、「起きようか」と抱きかかえベッドの脇に、少しだけ立ち上がったが、初美はすぐ「駄目、立って居られない」とベッドに座ってしまった。傷口が裂けないかと心配で、看護師さんに聞いたら、「腸が癒着しないように」立つのだと言っていた。

 痰が出無いので、初美が身体を動かし苦しそうだったが、夕食の仕度があるので、初美を、次男と妹に任せて、私は家に戻った。いつも、八時の面会時間までいて、八時半には家に帰って来ていたのに、二人供、九時を過ぎても、帰って来なかった。何か合ったのかと心配していると、妹から電話があり「心配していたでしょ。初美さんが、痰が出なくて、身体を動かすから、鼻から胃に入っているチューブが抜けてしまい大変だった。夜勤の先生が来て、クダを入れ直すことは出来ないので、抜いた」と言い、「これから帰るので心配しないで」と病院から電話してきた。戻って来て、食事をしながら、私が帰った後、大変だったことを話してくれた。

 夜中になり、姉に電話して、初美が亡くなってしまうかもしれない怖さで、受話器を持つ手と、身体が震え、涙をこぼしながら、姉に電話していた。毎日、毎晩、夜中の電話で、姉に「悪いね」と謝ると、姉は「いいよ、それより、毎晩寝ていないで、身体大丈夫か」と、私が「初美は誰にも負けない、最高の妻だよ」といつも言っていたので、「最高の妻を看てやるんだから、自分の身体も大事にしないと」と心配してくれていた。「俺は絶対大丈夫だよ」初美はどんなことがあっても、「俺が看病して守るから」と毎晩、夜中二時近くまで話して、励まされていた。姉との電話だけが、私の、怖かった心を癒されていた。

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今回の事故で改めて感じていることが2点あります。

私も大わらわになっているスタッフの一人でありますが・・・今回の事故で改めて感じていることが2点あります。まず療養者さん、ご家族がいかにナースを生活の一部として身近に感じていて下さるのかということです。「痛みは大丈夫なのかしら。私のことはいいから一人で頑張ってみるから」「いつも帰っていく姿をみては事故を起こすんじゃないかと心配してました。早く良くなるよう願ってます」ありがたいお言葉をたくさんいただきました。日時の変更をお願いせざるを得ない時にも快くご理解・ご協力いただき感謝ばかりです。
もう一点は組織の団結力です。雨降って地かたまるというように、みんなが助け合い、補い合い、声を掛け合い必死に前に進んでいるように思います。小さな組織ではあるけれど一人では成しえない温かさを感じました。scissors

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スタッフ数が少ない訪問看護ステーションで事故が起こったら・・

当ステーションのスタッフが自転車で訪問先へ向かっている際、交通事故に合いました。『鎖骨骨折』、車と自転車はどうであっても、とにかくこの程度でおさまったから良しとしなければいけません。不注意での事故は恐ろしい。それにしても、彼女のここ2・3日の創の痛み、心痛、大変なものでしょう。一方で、頑張り屋の彼女が突如欠けた当ステーションも大わらわ。頭を下げつつ、あちらこちらを巻き込んで・・少ない人数で頑張っていくしかありません。予定は一瞬にして狂う。そんなものです。それでも、皆が団結していれば、乗り越え策はあります。でも、でも・・・小さな組織で、今の制度枠での看護には限界がありますよね。現状での大きな課題が見えてきました。理想と現実のギャップを埋めるためには、ネットワークが欠かせない。もうやるしかありません。punch

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日韓交流セミナー ともに創る幸せ ~今、韓国は・・・~

主催:在宅看護研究センターLLP
後援:フランスベッド・メディカルホームケア研究・助成財団

  1986年設立された在宅看護研究センターは、20年を経た2006年、LLP(有限責任事業組合)という組織形態にその姿を替え、社会に位置 づき時代に即した看護ケアシステム構築に向け更なる挑戦を開始しました。そしてこの度、LLPの基本である、「各々の個性や能力を発揮し主体的に組合事業 に参画すること」に則り、日本各地で活動する当組合員の総意の元、韓国の看護界でご活躍の先生方をお招きして、日韓交流セミナー開催の運びとなりました。

 お隣の国・韓国では今年8月、老人長期療養保険法が始動します。ドイツ、日本に続き世界で3番目の介護保険です。

 儒教文化圏である韓国もわが国同様、国民の意識も大きく変化、高齢化率9.5%(’06)も日本より早い進行が予測され、国民の期待も大きいのではないでしょうか。

 そのような中、看護職はどのような役割を担うのか、取り組みは、など、韓国の看護事情、課題を伺い、日本との共通点を探ると共に、韓国での韓方看護教育について興味深い講演を予定しています。さらに、わが国、韓国における開業ナースの草分けであるお二方の対談を企画しました。韓流ブームでも知り得 ない隣国の看護の世界を学ぶよい機会です。

 皆様お誘いあわせの上、是非ご参加下さいますようご案内申し上げます。多くの方のご参加を、心よりお待ちしております。

  日 時:2008年6月22日(日)  13時15分開演(13時受付開始)16時50分終演
  場 所:野口英世記念館(JR総武線・千駄ヶ谷駅徒歩10分)

 プログラム、参加申し込み方法などはこちら(「Programme.pdf」をダウンロード )。

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イギリス体験第三段!

 イギリスでの体験の話を書かせてもらって3回目ではあるが、あまりイギリスの話はしていないように思える。イギリスというと、多くの発祥の地であることはいうまでもない。鉄道・郵便システムなどだけでなく、スポーツも多くある。サッカー・ラクビー・テニス。多くのことが誕生している。

 私は、それほどたくさんの国にいっていないが、その中でもイギリスが好きである。少しだけ日本と同じにおいがする感じがする。(これはあくまでも私の勝手な主観であるが。)でも島国であるところなど、ちょっと似ている部分もあるのだと思う。そして少し人見知りで、その分親しくなるととても優しく親身になってくれる。そういうところも、日本人と似ていると感じるのかもしれない。イギリスの風景もイングリッシュガーデンも大好きだけれど、一つだけどうしても日本のほうがいいなと恋しくなったものがある。食事である。これは観光本だけでなく一般的にも有名な話ではあるが、本当に困った。

 私は、最初から衝撃的な体験となった。初めての昼食で、まだ英語もわからない私にクラスの友達が肉?魚?どっちと聞いてきた。よく考えるひまもなく魚と答えた。「こっちだよ」と青い目のとてもステキなかわいい男の子や大きな男の子についていってねと言われた。何のことか理解もできないままついていくとフィッシュ&チップスであった。これが実に油っぽくそして量が真剣に多い。英語もよく分からない私に皆、優しさゆえにと思うが話しかけてきて、食べるどころではなく半分以上残した。実際は申し訳なかったが残していきたかった。しかし時間がなくて食べれなかったと思ってくれた優しい彼らは、店のオジサンに、包んであげてと頼んでくれた。大丈夫と言ったが、遠慮しないでいいからと店のおじさんは包んでくれた。その後はいろいろ皆に教えてもらったりして乗り切ってきたが、結構食べる私であっても全体に量は多かった。緊張していたのか合わなかったのか、日本の友人たちが太っていく中、なぜか痩せていった私であった。帰る頃には元に戻りつつあったから慣れてきたのだと思う。

 食事はあまりおいしくなかったが、パブで皆とたった一杯のビールで話したり踊ったり楽しかった。そんな雰囲気が好きだった。そんな気さくなパブとは一変して、アフタヌーンテイーも一度だけ体験した。量は確かに多かったが、なんとも優雅な気分になった。日本に帰ってきて喫茶店で同じように食べてみたが、やはりロンドンで感じた味わいはなかった。イギリスは、昔多くのことを発祥してきた国だけに昔は良かったのにと言われることもあるようだが、私はそんな古きよきものを大事にするイギリスが好きである。建物を見てもその空間にいると歴史を感じられる。日本でも古いお寺や神社や建物になんとも言えない空気を感じて安心する。もちろん近代的な建物も私は好きであるが。ロンドンはちょうどどちらも大事にしようとしている町であるように思う。

 人もであるが、変わるのは大変である。変わっていくことも大事であるが大切なものは残していくことも大事である。イギリスの話からそれてしまったが、是非一度足を運んでほしい。そしてその国の文化と空気を感じて楽しんで欲しいと思う。

 >>>>バックナンバー

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日本在宅看護システム

 施設内看護、看護教育、在宅看護と30余年、看護に真っ向から取り組んできた、そして真の看護にこだわり続けてきた在宅看護研究センター代表「開業ナース・村松静子」。

 看護の原点は"母と子の関係にある"という村松は、在宅看護の道を拓いて20年余、その村松が率いるナース集団が日本在宅看護システムです。

 ICUから生還した患者の家族からの一言「助けてください」で始めた課外ボランティア活動が在宅看護研究センター発足のきっかけでした。1983年2月のことです。

 しかし勤務しながらのボランティアには限界がありました。必要なとき、必要な看護を、必要なだけ提供は出来ませんでした。

 その頃出会った、作家の故・遠藤周作氏が「在宅看護は長距離レース、ボランティアでは続かない」と背中を押してくださり、理論と実践の融合を目ざす「在宅看護研究センター」が1986年3月24日に誕生したのです。

 1992年4月1日、老人訪問看護ステーションが始動しました。当時の厚生省が当センターをモデルに制度化したのですが、民間にはまだ認可されませんでした。そこで同日、在宅看護研究センターの収益部門を「日本在宅看護システム株式会社」として独立させ、保険適用外の緊急訪問看護の他、長時間付添、外出・外泊・旅行時の付添、あるいは遠隔地移送付添など利用者のニーズにこたえられる様々なサービス形態を揃えて出発しました。

 1999年3月、民間にも門戸が開き、11月に在宅看護研究センター付属訪問看護ステーションを開設、翌年には介護保険も始まり、国に看護を買ってもらうとういう念願だった保険適用と、保険適応外の二本立てで看護を提供できるようになりました。
いつでもどこでも誰でも、必要なときに、必要な看護を、必要なだけという理念に一歩近づいたのです。

 そして2001年6月、組織を大きく変え、若手ナースによる実践部隊へと再編成、新たな出発をしています。

 それぞれの家族が築いてきた家庭の中で繰り広げられる在宅看護。そこはあくまでも療養者が中心であり、療養者と家族が主役です。自由と甘えと温もりがあり、最も自分らしくいられる場です。

 在宅医療推進、在院日数短縮など医療・福祉界も大きく揺れ、好む、好まざるに関係なく在宅療養が始まる現状です。

 在宅療養における病状の変化、器材・器具のトラブル、療養者・家族の苦痛・不安。このようなときこそ、年齢如何を問わず24時間対応できる専門的な看護が出番になります。どんなに重症でも、年齢を問わずは勿論です。

 日本在宅看護システムではスタッフ一同、療養者・家族が主役であり続けられるための在宅看護システムづくりに、各関係機関と一層の連携を図りつつ、日々研鑽を重ねています。

 一人一人のナースが行なう看護に、社会の皆さんからの評価をいただき、日本にとって欠くことのできない価値ある看護として認めていただくために。

 日本在宅看護システム有限会社
 スタッフ一同

 所在地
 Chizu2_3

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定番になった「おかず」を読んで

料理特訓中なので今晩のおかずに作ってみました。

自分で言うのもなんですが、おいしくできました! トマトピューレなんて今まで一度も使ったことがありませんでしたがいいですね。こうやってALSの方が残した言葉がひろがっていくということは素晴らしいですね。伝えるようとする気持ちと、わかりたいと思う気持ちが向き合っていたのでしょうね。私もそんなコミュニケーションの素晴らしさと難しさを感じている今日この頃です。(MK)

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おばあちゃんを愛してる。

だって、       

僕を信頼してくれるから、自信が持てるんだ。

「アイ・ラブ・グランマ100の理由」その中のどれをとってもグランマの心の温もりが伝わってきます。他者を信じることが難しい今の時代でも、心と心が向き合って引き合うことで不思議な現象が起こります。互いに疑ったりするのではなく、信頼したくなるのです。あなたにならできる。やってごらん・・誰にでも失敗はあるのよ・・そんなフッとした言葉に勇気づけられます。そして納得すると動きたくなり、本当にできてしまうのです。自信が持てると、また前へ進むことができます。

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定番になった「おかず」

①鶏肉に塩胡椒をし小麦粉をまぶす。ピーマン、椎茸はほそぎりにする。②フライパンに油を油を引き、鶏肉に焼き色がつくまで焼き、一旦取り出しピーマン椎茸を炒める。③鶏肉をフライパンに戻し、トマトピューレと水、コンソメ一個をいれ煮込む。④塩胡椒で味を整える。………ALSの患者さんが「娘に伝えたいから」と文字版で示してくれたレシビです。拾うのに4時間かかった思い出があります。今では我が家でも、定番のおかずです。作る度、患者さんや娘さんの事を思い出しています。(KN)

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日本在宅看護システム

日本在宅看護システム有限会社 (保険適用、保険適用外、種々の形態で幅広く在宅看護を提供)

       
在宅看護研究センター付属開業ナーシング
 入院中で酸素や点滴等、医療器材や器具をつけた状態でも子供や孫の結婚式に出席したい、外泊し、我が家で一家団欒を楽しみたいなど現在の保険制度では対応できない幅広い、多くの形態で看護を提供すべく取り組んでいます。

在宅看護研究センター付属訪問看護ステーション
 緩和ケア、老人看護、小児看護等々対象、年齢を問わず医療保険、介護保険で幅広く対応すべく取り組んでいます。

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在宅看護研究センターLLPの事業目的

「在宅看護研究センターLLP」 は事業目的に向かって、着実に動き出しています。

1.コミュニティを重視した在宅医療並びに在宅死を可能にするための研究開発
2.在宅医療推進のためのイメージ商品の開発・販売
3.看護事業の顧客及び看護師の満足と収益性のバランスに関する実証研究
4.看護職同志の共同・連携マーケティング及び開業看護師の集結事業の構築・推進
5.「心」の商品化に関する開発研究
6.専門職のスキル向上のための個尊重型キャリアプログラムの開発
7.看護・介護用品及び看護の有効性を追究するための機器の開発・販売
8.前各号の事業に附帯関連する一切の業務

>>>>>在宅看護研究センターLLPのホームページはこちらです。

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『アイ・ラブ・グランパ100の理由』には

『アイ・ラブ・グランパ100の理由』には奥の深さを感じます。
子どもの目線で祖父のことを素直に語っているだけなのです。
それなのに、人間にとって大切なことばかりが表現されています。
「おじいちゃんを愛してる。だって、自分を持つということを教えてくれる」
自分と向き合って初めて口走れる言葉です。
祖父が子どもを愛しているからこそ伝えられることなのです。
自分を失っている人が多いように思えてなりません。

                                2008.3

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みんなの声 私の声

2008.3.28
        近所の公園に行き、お花見をした。
        近くのコンビニでお弁当を買い、
        お弁当を食べながらのお花見。
        日本の四季。
        季節ごとに、肌で感じていきたい。(JUN)

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リンク集

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第14回「在宅看護論」教授-学習法

第14回「在宅看護論」教授-学習法

毎年ご好評いただいておりますこの研修も、今年で14回目を迎えました。
講義と演習を交えた楽しめるセミナーです。 
肩の力を抜いて、奮ってご参加下さい。 
                詳細はこちらから

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看護師の募集

・開業をめざすラーニングナース
・在宅看護を学びたい新卒ナース
・在宅看護に関心のあるナース
・看護道を開拓したいナース
・いい看護がしたい。でも・・悩めるナース

   在宅看護の職員募集
   TEL:03-3362-3193

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優先席

医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi

1941年、新潟県生まれ。1967年、新潟大学医学部卒業後、医師登録と同時に外科研修を開始。72年、呼吸器・心臓血管外科を専攻後、80年より、心臓血管外科部長として日本赤十字社医療センターに勤務。2001年より職域診療所所長として活躍中。労働衛生コンサルタント・スポーツドクター(日体協)・健康スポーツドクター(日医)・認定産業医(日医)の資格を持ち、これらの5つの顔を絶妙な味で使いわける医学博士である。身体の大きさと、豪快な笑い・笑顔には、その人柄と存在感をより強くアピールする何ものかが潜んでいる。やはり'武士'にして"武士"ここにあり。 >>>バックナンバー

vol.32    優先席    2008-4-2

 大辞林に「優先席」という文言は収載されていない。「優先」は、「他のものより先に扱うこと」、「他にさしおいて行うこと」と解説されている。「席」に冠すると「他のものより先に扱う席」、「他にさしおいて行う席」となる。すっきりしない。しかし、理解はできる。

 乗り物にある「優先席」の話である。「優先席」にも歴史がある。’73年9月15日(敬老の日)、旧国鉄の中央線の快速・特別快速に本邦で始めて設置された。当初は高齢者、身体障害者を対象に設けられた。他の座席と区別するため色を違えた。使用した布の色がシルバーグレイであったため「シルバーシート」と命名された。現在は、濃紺、オレンジ、柄ものなどいろいろである。優先者も高齢者、身体障害者以外に怪我人、妊婦、乳児連など一時的に何らかのハンディキャップを持つ人に優先対象が拡大され、高齢者専用の席を思わせる「シルバーシート」から「優先席」という名称に変更された。窓ガラスに「優先席」、「Courtesy Seat」、「Priority Seat」のステッカーとハンディキャップを持つ人のイラストが張られていることはご存知のことである。携帯電話の電源を切ることも求められている。  

 弱者のため「優先席」を設けることは喜ばしいことである。しかし、弱者を限定した席に押しやることは、弱者に理不尽を強いることでもあり賛意を表さない人もいる。お客様のモラルを ”はな”から否定しており”失礼ではないか!”という人もいる。7、8年前のこと、全車両の座席が「優先席」と同様に扱われるよう乗客にモラルの向上を呼びかけた電車があった。ハンディキャップを持つ乗客を指定した席に追いやる事を避け、本当に必要な人がどこにでも座れるよう、全座席を必要な人のための「優先席」とした。小生も全席優先席と表示された電車を利用する機会があった。いたるところに「優先席」のステッカーが貼ってあり戸惑いを感じた。空席があったが座るのが躊らわれた。無論、反対しているのではない。いっそのことステッカーは無くてもよいのではないか。

 「介助を必要とする乗客は2日前に連絡をして下さい。」いうステッカーを張った電車が、身障者の団体より「差別」であると抗議を受け撤去を余儀なくされたという。要請に応じて要員を確保し最善を尽くそうとした会社のアイデアと思われる。しかし、誰でも利用したいときに利用できる体制が本来の姿である。会社の都合を優先した親切は歓迎されない。  

 地下鉄の「優先席」に座っていた時の話である。電車が止まり、開きかけたドアーに目をやると、初老のご婦人とご婦人の腕にしっかりと支えられた若い女性が目に入った。二人は互いに目を交わし楽しく会話をしていた。幸せの空気に包まれていた。「優先席」に座っていた小生は席を立った。隣の男性も席を立った。笑顔の初老のご婦人の柔和な顔が一瞬にして強張った。眉を顰め、”ありがとうございます”と軽く会釈をし二人は席に座った。暫くして、硬く暗い表情で目を瞑っているご婦人の姿が目には入った。

 若い女性は片手にペットボトル、もう一方の手に携帯電話を握っていた。携帯はぎこちなく揺れていた。独りでは使えるはずもない携帯やペットボトルを持つ姿は、同世代のファッションと変りなかった。若い女性が身体障害者であることが小生にはすぐ分った。女性は初老のご婦人の娘さんと思われた。娘さんは幸せそのものであった。

 二人はいつも寄り添って日々を送っていると思われた。席を譲れられた母親は眉を寄せ目を瞑り凛として座っていた。あす、あさって、そして、娘が独りになるであろう日を見つめているものと思われた。”親切”が幸せを壊してしまった。

 これから娘さんはどうなるのであろう。小生の心は今も重たい。”親切”は難しいことを言いたかった。

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鹿児島大学で「Dr.コトー」に会う

市民の眼   尾崎 雄 Ozaki Takeshi 

1942 生まれ。65年早稲田大学卒業、日本経済新聞社入社。札幌支社報道課、流通経済部、婦人家庭部次長、企画調査部次長、「日経WOMAN」編集長、婦人家庭部編集委員などを経て、日経事業出版社取締役編集統括。高齢社会、地域福祉、終末ケア、NPO・NGO関連分野を担当。現在、フリージャーナリスト・仙台白百合女子大学総合福祉学科教授・AID(老・病・死を考える会)世話人・東京大学医療政策人材養成講座2期生。著書に「人間らしく死にたい」(日本経済新聞社)、「介護保険に賭ける男たち」(日経事業出版社)ほかがある。 市民の眼 医療福祉の断面やエピソードなどについて 医療職ではなく一市民として気づいたことが書かれています。 >>>>バックナンバー

vol.47  鹿児島大学で「Dr.コトー」に会う 2008-3-24  

  先週の土曜日、鹿児島大学で開かれた離島へき地医療人養成シンポジウムを聴きにいった。離島医療にこそ地域医療再生のヒントが隠れていると思ったからである。その収穫はあった。人気コミック『Dr.コトー診療所』のDr.コトーのモデルとされる薩摩川内市下甑手打診療所の所長、瀬戸上健二郎医師と親しくお会いできたからである。

 瀬戸上医師とはメーリングリスト「在宅ケアネットin鹿児島」でウエブ上の交流があり、同医師が離島の医療を担っていることは知っていたが、離島医療の人出不足とか辛さをこぼすようなメールは見たことがない。シンポジウムに先立って行なわれた瀬戸上医師の講演「現地指導医からの提言」にもそれは現れていた。 離島での医師研修の意義は「大学病院で欠けていることを提供すること」である。島に研修にくる研修医の中には血圧測定が出来ないものもいるという指摘がそれを雄弁に物語る。

 『Dr.コトー診療所』を読むと、Dr.コトーが島の診療所に赴任して最初の仕事は採血台を自分で作ることだった。 最大の仕事は島の人たちから信頼を勝ち取ること。コミック誌の主人公、「Dr.コトーは、ろくな医療機器もない島の診療所でありあわせの道具を活用して「ブラックジャック」並みの外科手術を次々とこなし、「今度の医者はホンモノ」という評判を取る。コミックだから誇張や脚色があるのだろうが、瀬戸上医師も外科手術には相当の自信があるから似たような “奇跡”をやって見せたに違いない。

 「農村医療の父」と呼ばれ、佐久総合病院を地域医療のメッカに仕立て上げた故若月俊一医師も、東京から当時「信州のシベリア」と言われた田舎病院に都落ちしたとき、外科手術の腕を駆使して村人の信頼を得た。 「風の人」である余所者が「土の人」である地元住民の信用を得なければ土地やムラを変えることは難しい。

 同志社大学・大学院の今里滋教授は、まちづくりNPOの理事長をしているが、「地元の人たちの信頼を得るためには酒席での放言は必ず守る」ことだと言い、それを実践してきた。 その点、医者は有利だ。人の命を助ける資格と術を身につけているとされている。「ロマンとヒロイズム」が、現在の日本に残っているとすれば、それは離島ヘき地医療に取り組む医師の職場ではないか。シンポジウムにはパネリストとして鹿児島大学医学部の女子学生が参加した。彼女は「離島へき地で実習すれば多くの学生がこういう仕事をしたいと思います。こういう働き方があるということを知らないのです」と語った。

 鹿児島大学医学部は、学生に離島実習を義務付けている。そこで学ぶべきことは「島の住民、患者やお年寄りと話を聴いて、学ぶ」(瀬戸上医師)ことである。このことの大事さは海外で働く日本人医師もわかっている。アメリカの有名なメイヨー・クリニックからも日本人医師が研修にきた。瀬戸上医師が下甑島の診療所にきて5月で30年になる。67歳だが、まだ辞める気持ちはなさそうだ。       

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