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2008年7月

88歳の母が作った「布ぞうり」

NPO法人ルピナースの細井さんのお母様、88歳(米寿)が作られた「布ぞうり」販売のお知らせです。

細井さんによると・・

「ふとんや子どもの頃のワンピースだった思い出の布などを使い作りました。パッチワーク感覚で色あわせも工夫されています。ぞうりを編むための道具は木製で娘婿さんが製作しました。

少しでもひまがあるとせっせと作り、かなりの数になりました」

まだ15足ほど残っているので、お分けできそう・・とのこと。

詳しくは、http://www.nursejapan.com/(ひだだよりで)

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第14回「在宅看護論 教授ー学習法」まもなく・・

恒例の少人数制夏季短期集中セミナー「在宅看護論 教授ー学習法」がいよいよ来週末から始まります。8月1-3日、8-10日、15-17日の3回のみです。

今年は追加オプションとして、セミナー終了後に語り合い/ディスカッション「教育現場の悩み 実践現場の悩み」を設け、在宅看護研究センターLLP組合員と熱く語り合うことも致します。

すでに、全国からお集まりいただくことになっていますが、講師:村松静子の希望により、数名の方はこれからでもお受けしますので、未だの方は、数日中にお問い合わせください。

http://www.e-nurse.ne.jp/consult/seminer14.html

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コラムを読んで

須之内さんのコラムいつも気にかけてます。

本人さんが亡くなってしまったのは残念ですが。
私はオートレースを楽しんでおり、オートレースを教えてくれた父から、かつて船橋オートに須之内哲也という凄腕のレーサーがいると聞かされ気になってました。

少しでも須之内さんの事を知りたいので続けて下さい。

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初美の誕生日、そして退院

● 須之内 哲也 sunouchi tetsuya         

事故に遭わなければ一時代を築いたに違いない元・オートレーサーによるコラム

「須之内 哲也の世界」~もう一度会いたい~

「おれが生きているのは初美のおかげ。ただ、もう一度会いたい」。
その時々の情景を思い浮かべながら、ひたすら心の内を書き綴っていく。

事故に遇わなければ・・船橋で注目され一時代を築くとうたわれた元オートレーサー、
彼の車名は知る人ぞ知る『ホージョウ』。
レースの賞金で自家用車をもらうほどの一流選手で、弟子を十数名も抱え、師匠と呼ばれるほどにのぼりつめていた。
しかし、30歳にならない歳で脊髄を砕く大事故に遭い選手生命を閉ざされた。
車椅子での生活を余儀なくされ、周囲に当り散らしたこともあった。そんな時、妻の初美さんが見せる悲しそうな顔。
「哲っちゃんのニコニコ笑っている顔が一番好き」という初美さんの言葉・・
それからの生活はいつも一緒で何をするにもふたりだった。
しかし、初美さんは9年前、彼の手の中で逝った。「哲っちゃん、愛してる」の言葉を遺して・・。
 

⇒バックナンバー(vol11以降)

⇒バックナンバー(vol10まで)

 

vol.14. 初美の誕生日、そして退院 2008-7-19

午後病室に行くと、必ず初美は窓の外を眺めていた。そっと近づいて、声をかけると不安そうな顔で振り返り「深呼吸していた」と、でも、元気になっていた。

それからまもなく、他の部屋に移されて、今度はカーテンで仕切った、廊下側になった。

そして、一週間の予定で抗がん剤の点滴が始まった。ニ日間は何でもなく食欲もあったのが、三日目ぐらいから、食欲もなく吐き気があって、クスリが増え苦しそうだった。

7月21日、午後から病室に行くと、初美の54歳の誕生日だったので、看護師さん皆で、初美のベッドを取り囲んで、ハッピバスデーを歌ってくれて、花と色紙に看護師さんの寄せ書きをプレゼントしてくれたと、嬉しそうに見せて、話してくれた。夕方には、子供も花束を買ってきた。「子供からのプレゼントは嬉しいね」と言っていた。

抗がん剤の点滴も終わりになる頃に、「一日も早く退院して家に連れて帰りたい」と先生に相談して、退院日は7月31日に決まった。初美に「もう少しで家に帰れるからな」と話したら、初美は抗がん剤で苦しんでいたので「こんな状態で帰れるかな」と不安そうに聞いてきたので「大丈夫だよ。家に帰ろう。」と言うと「うん」と、うなずいた。

7月30日 先生が「白血球が多いので、明日の退院は、血液検査してからもう一日延ばすか決める」と言った。でも、家の方は、もう掃除をして、ふとんを引いて、初美を迎える準備は出来ていたので、どうしても連れて帰ると思っていた。

7月31日 次男と朝から初美を迎えに病院に行った。先生が「血液検査結果で一日延ばそう」と言ったのだが、私は「連れて帰りたい」と言い、初美も、「こんな状態で帰って大丈夫かな」と心配していたけど、先生も「まっ、いいか」と退院を許可してくれた。帰る前には、初美の妹も病室に来てくれた。私のお袋と姉も、家の方に来てくれた。

皆で、気持ちだけの退院祝いをして、やっと初美も笑顔で「退院出来たんだね」と言い、皆にも笑顔がでた。

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手術が終わって・・元気メールが

待っていた元気メールが届きました。ホッとしています。heart02

「こんにちは!術後の経過も良く、明日退院になりました。体調も良く、毎日院内を歩いて、階段を上って、体力回復に努めています(^-^)。こうしていると、自分の身体をよく見つめるようになるし、弱っているときの気持ちも実感できて、ありきたりですが、健康のありがたさが見に染みますね。」

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手術は無事終わった・・信じています。

「明日は手術を受けます。・・・今夜はゆっくり眠って、明日も眠ってるうちに終わってますね。次は「無事退院」のメールを送りま~す(^-^)/

あなたからの元気メールを待っています。clover

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ねんきん特別便

医師として、武士として     安藤 武士 Andou takeshi

1941年、新潟県生まれ。1967年、新潟大学医学部卒業後、医師登録と同時に外科研修を開始。72年、呼吸器・心臓血管外科を専攻後、80年よ り、心臓血管外科部長として日本赤十字社医療センターに勤務。2001年より職域診療所所長として活躍中。労働衛生コンサルタント・スポーツドクター(日 体協)・健康スポーツドクター(日医)・認定産業医(日医)の資格を持ち、これらの5つの顔を絶妙な味で使いわける医学博士である。身体の大きさと、豪快 な笑い・笑顔には、その人柄と存在感をより強くアピールする何ものかが潜んでいる。やはり'武士'にして"武士"ここにあり。

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Vol.35 ねんきん特別便 2008-7-6

 年金問題で世間が騒がしい。今年5月、社会保険庁より話題の「ねんきん特別便」が郵送されてきた。年金加入歴を各自で確認し誤りがあれば通知せよというものである。適齢の方はご存知のことと思う。

 遡って60歳の定年まえ、社会保険庁より「年金保険加入期間調査依頼書」が来た。年金の仕組みの知識は全く無かったが、年金保険料が給与から”天引き”されていることは知っていたので、勤務歴の照合調査から開始した。当時の医師の勤務形態は複雑である。ともかく、昭和43年5月から55年10月まで出身大学の付属病院に属していたと記憶していたので、大學(付属病院)に勤務歴を問い合わせた。人事台帳の写しが送られてきた。

 昭和43年7月1日臨床研究生、45年4月1日医員(日給1、260円)、46年4月1日副手、同年10月11日医員(日給2、400円)、48年9月1日厚生技官(国立療養所病院)、同年11月16日文部教官教育職(助手)、51年10月1日県・技術吏員(県立がんセンター病院、母子衛生院兼務)、52年10月1日文部教官教育職(助手)、55年9月30日辞職と記載されていた。大學を離れ病院の勤務医になるまでの記録である。全ての期間、大學に在籍していることが確認できた。しかし、その間、いくつかの病院に出張という形で勤務したことも事実である。出張病院に問い合わせた。

 昭和43年11月18日外科医として最初の出張先となったN赤十字病院、次の県立病院、A赤十字病院、市立病院、県立がんセンター病院、厚生連病院、医療法人病院、48年9月11日国家公務員となった国立療養所病院に勤務していたことが確認できた。しかし、県立がんセンター病院以外は、人事台帳に名前がない。年金に加入していないのではないかとう回答であった。どのように「年金保険加入期間調査依頼書」を完成させたらよいかわからなかった。「年金」にそれほど関心がなかったこともあり、”そんなものか”と思い年金保険加入の有無には触れず勤務実績だけを回答した。数年後、僅かであるが年金の支給が開始された。

 「年金」には、年金の受給者が掛け金や保険料を負担しない年金制度(無拠出制年金)と保険の仕組みを取る年金制度(年金保険、拠出制年金)があるという。無拠出制年金制度では、財源は国庫から賄われる。現在の年金制度は被保険者が掛け金や保険料を負担(拠出)し、年金財政はこの収入によって賄われる保険制度をとっている。1961年(昭和36年)4月から国民年金法の適用(保険料の徴収)が開始され国民皆年金制度が確立された。さらに、1985年(昭和60年)の大改正により、基礎年金制度が導入され現在の年金制度の骨格が出来たと関係書に記されている。なお、1942年(昭和17年)、民間労働者の年金である労働者年金保険(2年後、厚生年金保険と改称)が制定され、この年金保険をもって日本の国民皆年金制度が始まったと解説されているが、今日の年金制度との関係について知る由もない。

 本邦の年金制度は3階建てになっている。1、2階部分を公的年金、3階部分を私的年金と呼ぶ。まず、1階部分である。20歳から60歳未満の日本に居住する全ての国民に国民年金への加入を義務付けている。受給資格である保険料(定額)を25年以上支払った人が65歳になったときに国民年金として満額受給できる。受給時には名称が変わり国民年金から「老齢基礎年金」となり、資格を満たしている全ての国民に最低限の保障が行われる仕組みになっている。

 2階部分は厚生年金(受給時の正式名称は「老齢厚生年金」)および共済年金(国家・地方公務員、私立学校教職員)である。保険料は収入の一定の割合で、受給年金額は現役時代の収入に比例し決まる。3階部分は、私的な企業年金である。

 公的年金加入者は、第1号、2号、3号被保険者から構成される。1号は自営業者・無業者・パートなど(構成数:2300万人)、2号は厚生年金・各種共済年金加入者(3800万人)、3号は2号の被扶養配偶者(1100万人)からなる。公的年金加入者数は7200万人となる。 これまでの知識は全てインターネットのウィキペディアから得たものである。

 いずれにせよ本邦の現在の年金制度は、支給される年金の財源は加入者の拠出金(保険料)でから成立している。従って、加入していなければ受給の資格はない。過年と同様、勤務歴、年金加入歴の照合を始めた。5月に送付されてきた「ねんきん特別便」を見て驚いた。大學を離れ勤務医となった12年と2ヶ月の年金加入歴は虫食い状態となっているばかりか、出張で大學に不在の時も大學に勤務し年金に加入していることになっている。

 勤務実態と加入歴が全く合わないのである。誰が作文したのであろうか。照合先のどの病院も極めて親切に対応してくれた。その都度、出張先の病院の思い出に耽りあっという間に時間が過ぎてしまう。

 今日も、「思い出」のどのページが捲られるのか楽しみにしなが「ねんきん問題」に取り組んでいる。

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「看護婦」から「看護師」に向けて 大分県立看護科学大・大学院が日本初のNP養成コース

市民の眼   尾崎 雄 Ozaki Takeshi (老・病・死を考える会世話人)

1942 生まれ。65年早稲田大学卒業、日本経済新聞社入社。札幌支社報道課、流通経済部、婦人家庭部次長、企画調査部次長、「日経WOMAN」編集長、婦人家庭 部編集委員などを経て、日経事業出版社取締役編集統括。高齢社会、地域福祉、終末ケア、NPO・NGO関連分野を担当。現在、フリージャーナリスト・仙台 白百合女子大学総合福祉学科教授・AID(老・病・死を考える会)世話人・東京大学医療政策人材養成講座2期生。著書に「人間らしく死にたい」(日本経済 新聞社)、「介護保険に賭ける男たち」(日経事業出版社)ほかがある。 市民の眼 医療福祉の断面やエピソードなどについて 医療職ではなく一市民として気づいたことが書かれています。 >>>バックナンバー

vol.48 「看護婦」から「看護師」に向けて 2008-7-5 

 <国内初のナースプラクショナー養成コースに女性2人と男性1人が入学> 

   いずれ日本でも、医者に代わって高齢者や子供たちの診断と治療に携わる看護師が活躍する時代が来るかもしれない――大分県立看護科学大学は、今年4月、日本で初めて、大学院の修士課程にナースプラクショナー(NP)養成コースを設けた。医師のイコールパートナーとして少子高齢化時代に「医療再生」の一端を担う人材を送り出すための最初の一歩である。

 

大分看護科学大・大学院修士課程のNP養成コースは実践者養成コース(定員10人)に含まれる。同コースの院生は「老人NP」と「小児NP」のどちらかを専攻し、「看護アセスメント能力」、「看護実践能力」、「診察の実践能力」など7つの能力を身につける。第1期生は30代と40歳代の看護師3人。男性1人は4年生看護大卒。女性2人は看護学校卒で、1人は老健施設、もう1人は訪問看護ステーションに勤務していた。入学の主な動機は「医師に近い判断ができる能力」をつけることだと甲斐倫明同大学院教授は語る。同大学は民間病院と連携して大分県内に医療特区を申請、主として高齢者・在宅患者・小児を対象としたNPによる地域医療の実践を行ない、NPコース修了者の受け皿とする。

<看護モデルと医学モデルを組み合わせたケアを個人営業できる>

草間朋子学長が雑誌『病院』(医学書院)4月号に寄せた「アメリカにおけるナースプラクショナー制度と日本への導入の可能性」によると、NPとは「医療・保健サービス必要とする人々にプライマリケアを提供する専門看護師(Advance Practice Nurse=APN)」のこと。「医師と連携を図りながら、様々な主訴を持った患者を医師から独立して観察・診察し、必要な検査を実施し、薬物の処方を含めた治療」に当たる。処方する医薬品にはむろん麻薬も含まれる。日本の看護師といちばん違う点は、個人でクリニックを開業でき、診療報酬の支払いを受けることができることだ。

医師より優れている点は「看護モデルと医学モデルを組み合わせて」ケアにあたり、「全人的(holistic)な視点から患者および家族と関わりを持ちながらケアにあたる」ことである。アメリカでは14万人ものNPが「医療・保健システムを支え」ており、患者の在院日数短縮、副作用の回避、医療訴訟の減少などに貢献しているという。

<看護大学院の生き残り外科医が呼応して>

大分看護科学大のNP養成実施の狙いは看護大学の乱立時代に生き残るため。全国の看護系大学は158校(2007年度)もあり、うち99校が大学院の修士課程を備えているのだが、教育課程が研究者・教育者の養成に偏り、過当競争も手伝って定員割れが目立つ。社会に直接役立つ実践者養成の場になっていないからだ。「論文は書けても患者をきちんと診ることができない医学博士を育てるようなもの」という指摘もある。そこで、3年前からNP養成コース開設の準備を重ね、大学院改革のメダマの一つとした。

これに呼応するかのように動き出したのが日本外科学会と日本胸部外科学会だ。その第一弾が福岡で開く第61回日本胸部外科学会定期学術集会(10月13日~15日)の特別企画「上質な分業の拡がりは医療崩壊を防げるか」である。チーム医療のあり方を専門職の分業と協業の視点から再検討。医師のオーバーロードを緩和して外科医志望者を掘り起こし、医療再生の突破口の一つとしようとする試みだ。参加パネリストは草間学長、広瀬前日本看護協会常任理事、石川典子厚生労働省医事課課長補佐や医療再生に取り組む外科医ら。エール大学・大学院で資格を取り、アメリカでNPとして活躍中の緒方さやかエール大学大学院講師の招請も検討中だ。司会は日本外科学会理事・日本胸部外科学会理事長の田林こう(日+光)一東北大教授と前原正明防衛医大教授が勤める。

<背景にアメリカの1960年代と似た日本の医療事情も>

草間学長によると、「NP」浮上の背景には1960年代のアメリカ医療事情と似た現在の日本のそれがある。

「医師たちの専門分野への志向が高まり、医師、特に小児科医およびプライマリケアを担当する医師が不足し、都市部の貧困層や遠隔地域でのプライマリケアが不十分な状態であった。さらにGDPに占める保健医療費の高騰が社会問題となっており、また看護師自身の、自律を目指す動きが活発化してことも大きな原動力となり、1965年にコロラド州コロラド大学で、最初のNP養成の試験的なプログラムが開始された」(前掲誌313頁)。

厚生労働省は昨年12月28日、医政局長通知「医師及び医療関係職と事務職員等での役割分担の推進について」を出し、「自ら適切に判断することができる看護師の養成」を提言した。それを受ける形で今年6月18日に取りまとめた「安心と希望の医療確保ビジョン」は、「一定の医療資源」の中で「質の高い医療サービス」を維持していくためには「単に医師数を増やすのみで課題が解決するものではなく、医療従事者のみならず、患者・家族等国民がみんなで医療を支えていく姿勢」が必要だと医療政策の方向を示した。

これは、明治時代から続いてきた医師を頂点とするピラミッド型医療社会を見直し、医療専門職の分業と協業の形を再構築することに通じる。「医師不足」を楯に医師の増員要求を叫ぶことに終始する視野狭窄的な発想を改め、自立と自律に基づく医療専門職同士のコラボレーションを実現することこそ医療再生への道だ。それは薬剤師ら他の医療専門職と医師の関係にも当てはまるのだが、「NP」は医療改革を実現するためのキイワードの一つなのである。

<現状のままでは優秀な看護人材の頭脳流出も>

医師による厚労科研「新しいチーム医療体制確立のためのメディカルスタッフの現状と連携に関する包括的調査研究」は既にスタート。米国のNP事情を視察してきた医師の一人は次のように指摘する。

「アメリカでNPとして働いている日本人看護師は予想以上に多い。日本の看護師のありかたに疑問を抱く若くて優秀な看護師がアメリカの大学院に留学してNPになっている。このままでは、看護界の頭脳流出に拍車がかかる。医師不足にしても医師の数をふやすだけでは限界がある。医療従事者間の垣根を取り払って分業・協業のありかたを整理すれば、医療従事者みんながハッピーになり、したがって患者もハッピーになり、結果として社会全体もハッピーになるはず」(西田博東京女子医大講師)。胸部外科学会のNP関連特別企画には内科医の矢崎義雄独立行政法人国立病院機構理事長も参加するが、同理事長は「医療確保ビジョン」作成アドバイザーだった。NP創設の火付け役となった草間学長は日本看護協会副会長でもあるだけに同協会はいずれNPの養成や制度化を政策課題に取り上げることになるだろう。

草間学長の下でNP養成に取り組む甲斐教授によると、お隣の韓国ではNPに相当する「保健診療員」が地域医療を担うなど看護師の自立と自律は日本に先んじている。首都圏一部の医療系大学や民間病院でもNP養成プログラムを検討していると言われる。だが、日本の看護系大学院でNP養成コースを修了しても、その能力を発揮できる場の保証はない。医師法第17条によって医師以外の「医業」は禁じられ、看護師は保健師助産師看護師法第5条によって患者らの「療養上の世話又は診療の補助を行うこと」とされている。またNPが医師のようにクリニックを開業したとしても医療保険の診療報酬の支払いを受けることはできない。こうした数々のバリアについて草間学長は、「NP」を看護師の「『診療の補助』業務の拡大として解釈するのではなく、『医業の一部を分担する』方向での法制度化に向けて検討していく」(前掲誌315頁)ように求めている。

<アメリカでも医師と看護師の妨害にめげず制度化した歴史が>

看護師のもう一つの道を目指す動きに対する抵抗は複雑だ。看護師への権限委譲を拒む医師や医師団体だけでなく、同じ身内にも潜む。例えば責任の重い仕事は医師に任せて「補助業務」に安住したいという生業感覚の存在。医師と対等な看護師であるよりも昔ながらの看護婦でありたいという働き方もひとつの人生選択を否定することはできない。制度を手直しするだけでなく医療従事者の意識を変えていくこと自体が医療改革なのだから。

とはいえ、一部の人々が声高に叫ぶような「医療崩壊」が近づいているとしたら、改革を躊躇してはいられない。大分看護科学大は、見切り発車してNPを地域に送り出し、実績を社会の評価にさらす道を選んだ。アメリカでも当初は医師と看護師の両方から批判されたが、NP教育が先行し、制度化は後に鳴った経緯がある。わずか3人で始まった大分での実験は医療改革の試金石でもある。2008年7月5日)

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