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初美の誕生日、そして退院

● 須之内 哲也 sunouchi tetsuya         

事故に遭わなければ一時代を築いたに違いない元・オートレーサーによるコラム

「須之内 哲也の世界」~もう一度会いたい~

「おれが生きているのは初美のおかげ。ただ、もう一度会いたい」。
その時々の情景を思い浮かべながら、ひたすら心の内を書き綴っていく。

事故に遇わなければ・・船橋で注目され一時代を築くとうたわれた元オートレーサー、
彼の車名は知る人ぞ知る『ホージョウ』。
レースの賞金で自家用車をもらうほどの一流選手で、弟子を十数名も抱え、師匠と呼ばれるほどにのぼりつめていた。
しかし、30歳にならない歳で脊髄を砕く大事故に遭い選手生命を閉ざされた。
車椅子での生活を余儀なくされ、周囲に当り散らしたこともあった。そんな時、妻の初美さんが見せる悲しそうな顔。
「哲っちゃんのニコニコ笑っている顔が一番好き」という初美さんの言葉・・
それからの生活はいつも一緒で何をするにもふたりだった。
しかし、初美さんは9年前、彼の手の中で逝った。「哲っちゃん、愛してる」の言葉を遺して・・。
 

⇒バックナンバー(vol11以降)

⇒バックナンバー(vol10まで)

 

vol.14. 初美の誕生日、そして退院 2008-7-19

午後病室に行くと、必ず初美は窓の外を眺めていた。そっと近づいて、声をかけると不安そうな顔で振り返り「深呼吸していた」と、でも、元気になっていた。

それからまもなく、他の部屋に移されて、今度はカーテンで仕切った、廊下側になった。

そして、一週間の予定で抗がん剤の点滴が始まった。ニ日間は何でもなく食欲もあったのが、三日目ぐらいから、食欲もなく吐き気があって、クスリが増え苦しそうだった。

7月21日、午後から病室に行くと、初美の54歳の誕生日だったので、看護師さん皆で、初美のベッドを取り囲んで、ハッピバスデーを歌ってくれて、花と色紙に看護師さんの寄せ書きをプレゼントしてくれたと、嬉しそうに見せて、話してくれた。夕方には、子供も花束を買ってきた。「子供からのプレゼントは嬉しいね」と言っていた。

抗がん剤の点滴も終わりになる頃に、「一日も早く退院して家に連れて帰りたい」と先生に相談して、退院日は7月31日に決まった。初美に「もう少しで家に帰れるからな」と話したら、初美は抗がん剤で苦しんでいたので「こんな状態で帰れるかな」と不安そうに聞いてきたので「大丈夫だよ。家に帰ろう。」と言うと「うん」と、うなずいた。

7月30日 先生が「白血球が多いので、明日の退院は、血液検査してからもう一日延ばすか決める」と言った。でも、家の方は、もう掃除をして、ふとんを引いて、初美を迎える準備は出来ていたので、どうしても連れて帰ると思っていた。

7月31日 次男と朝から初美を迎えに病院に行った。先生が「血液検査結果で一日延ばそう」と言ったのだが、私は「連れて帰りたい」と言い、初美も、「こんな状態で帰って大丈夫かな」と心配していたけど、先生も「まっ、いいか」と退院を許可してくれた。帰る前には、初美の妹も病室に来てくれた。私のお袋と姉も、家の方に来てくれた。

皆で、気持ちだけの退院祝いをして、やっと初美も笑顔で「退院出来たんだね」と言い、皆にも笑顔がでた。

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コメント

須之内さんのコラムいつも気にかけてます。本人さんが亡くなってしまったのは残念ですが。
私はオートレースを楽しんでおり、オートレースを教えてくれた父から、かつて船橋オートに須之内哲也という凄腕のレーサーがいると聞かされ気になってました。少しでも須之内さんの事を知りたいので続けて下さい

投稿: 鈴木 | 2008年7月21日 (月) 19時50分

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