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初美の後ろ姿に涙が出て

● 須之内 哲也 sunouchi tetsuya         

事故に遭わなければ一時代を築いたに違いない元・オートレーサーによるコラム

「須之内 哲也の世界」~もう一度会いたい~

「おれが生きているのは初美のおかげ。ただ、もう一度会いたい」。
その時々の情景を思い浮かべながら、ひたすら心の内を書き綴っていく。

事故に遇わなければ・・船橋で注目され一時代を築くとうたわれた元オートレーサー、
彼の車名は知る人ぞ知る『ホージョウ』。
レースの賞金で自家用車をもらうほどの一流選手で、弟子を十数名も抱え、師匠と呼ばれるほどにのぼりつめていた。
しかし、30歳にならない歳で脊髄を砕く大事故に遭い選手生命を閉ざされた。
車椅子での生活を余儀なくされ、周囲に当り散らしたこともあった。そんな時、妻の初美さんが見せる悲しそうな顔。
「哲っちゃんのニコニコ笑っている顔が一番好き」という初美さんの言葉・・
それからの生活はいつも一緒で何をするにもふたりだった。
しかし、初美さんは9年前、彼の手の中で逝った。「哲っちゃん、愛してる」の言葉を遺して・・。

⇒バックナンバー(vol11以降)

⇒バックナンバー(vol10まで)

vol.17. 初美の後ろ姿に涙が出て・・2008-10-17

 9月に入る頃には、だいぶ元気になって買い物にも行けるになって来た。二人で、スーパーに行く時は、ドライブのようだった。初美が一番したかったことが、夕食の仕度をして、家族に食べさせる事だったので、気持ちに張りも出て来たようだった。それからは、出かける事が多くなって行った。でも、私は初美が知らないお腹のガンが怖くて十分注意をさせていたがいつも気になっていた。そして時々、夜中初美が寝ている時に、手紙を書いて、朝起きて見るだろうと台所のテーブルの上に置いていた。
 すべて、本当の事を話せたらと思いながら、ただ、慎重にして行こうとずいぶん迷いながら書いていた。
 今は元気なのだから出来るだけ好きなことをさせて、明るく毎日が送れたらと子供達にも話し家族がまとまっていた。初美は「家族仲良く、哲ちゃんが笑顔でいることが一番幸せを感じる」と言っていた。皆がそれぞれ自分の出来る事で、初美が喜ぶ事をしようと一生懸命だった。
 毎週病院で抗がん剤の点滴を受け、抗がん剤も出ていたが抗がん剤は飲ませなかった。
 10月7日 先月24日に胸のCT検査した結果を受けた。お腹の腫瘍が5ミリから8ミリ小さくなっていると説明を受け二人で喜んで帰ってきた。
 10月14日 診察日、首の腫瘍がCT検査では分からないぐらい。だけど、MRI検査では、ある事が分かると説明を受けた。
 三ヵ月が過ぎて元気だったけど、私は三ヵ月と言われている事が頭の中から離れず、本当に三ケ月なのかな大丈夫かなと心配はしていた。
 寒川神社に、二人でお参りも行けるようになっていた。
 そして、「明日は小田原に行こうか」と言い出し、次の日、朝早く、小田原城に行った。
 着いたらすぐ、私のトイレを心配して「先にトイレ行ってきなよ」と「まだ大丈夫だよ」と言って。小田原城の坂道を、「あたしが押すから上まで行こう」と初美が私の車椅子を一生懸命押して登って行った。でも、途中、石垣の処が急坂で、「休もう」と二人で息を切らしながら一休みして、写真を取っていた。やっと天守閣の広場に着いて、「せっかく来たのだから、お前は天守閣の中まで見てこいよ」言うと「うん、ちょっと見てくるよ」と階段を登って行った。初美の後ろ姿を見ていると、涙が出てきてしまった。
 下りてきて、菊人形が一杯あったので、菊人形を背に写真を取ろうと言うけれど、私は人が居るので恥ずかしかったが初美が喜ぶならと思って我慢して写真を取っていた。
 しばらく見て周り、帰ろうかと言うと「遠回りして少し歩こうか」と初美が言った。
小田原城を半周して、私の車椅子を押しながら、赤い橋の所で、「この橋は二ノ宮金次郎が・・・」と私に説明してくれたが「うん、うん、」と聞いていただけで忘れてしまった。私はそんな事より、私は自分で車椅子こげるのに「いいよ、あたしが押すから」と押してくれる初美の気持ちが分かっていた。想い出作りなんだろと私は思いながら、街の中を二人で歩いていた。帰って来る時「又、来たいね」と言い喜んでいた。

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