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今日は初美の誕生日

● 須之内 哲也 sunouchi tetsuya         

事故に遭わなければ一時代を築いたに違いない元・オートレーサーによるコラム

「須之内 哲也の世界」~もう一度会いたい~

「おれが生きているのは初美のおかげ。ただ、もう一度会いたい」。
その時々の情景を思い浮かべながら、ひたすら心の内を書き綴っていく。

事故に遇わなければ・・船橋で注目され一時代を築くとうたわれた元オートレーサー、
彼の車名は知る人ぞ知る『ホージョウ』。
レースの賞金で自家用車をもらうほどの一流選手で、弟子を十数名も抱え、師匠と呼ばれるほどにのぼりつめていた。
しかし、30歳にならない歳で脊髄を砕く大事故に遭い選手生命を閉ざされた。
車椅子での生活を余儀なくされ、周囲に当り散らしたこともあった。そんな時、妻の初美さんが見せる悲しそうな顔。
「哲っちゃんのニコニコ笑っている顔が一番好き」という初美さんの言葉・・
それからの生活はいつも一緒で何をするにもふたりだった。
しかし、初美さんは9年前、彼の手の中で逝った。「哲っちゃん、愛してる」の言葉を遺して・・。

⇒バックナンバー(vol11以降)

⇒バックナンバー(vol10まで)

 

vol.28. 2010--22 今日は初美の誕生日

 

721日 今日は初美の誕生日。昨年は病院での、誕生日だったけれど、今年は家族で、食事に行こうと決めていた。子供達が仕事から帰って来てから、行く事になっていた。初美も楽しみだと言っていたのに、夕方から大雨になってしまった。子供達も「大雨だけど、どうする。こんなに雨が降っていて、大丈夫かな」と心配で電話してきた。初美と相談して、今日は中止にしよう、と決めた。子供達にも、中止の電話を入れた。家に居ると、次男が、大きな花束を抱えて帰ってきた。「食事行けなかったから、プレゼントだよ」と初美に渡した。初美が、「こんなに一杯買ってきたの」とビックリしていた。次の日の22日が、次男の誕生日なので、二人まとめて、明日する事、になった。22日は家で、何もないけれど、家族そろっての、夕飯となった。

だんだん、初美が、痛い所が多くなって、「痛い」と言うことが、多くなって来ていた。

食欲もあんまり無く、出来るだけ少なくて、栄養がいい物、と子供達が、色々と買って来た。初美に、これがいい、あれがいい、と食べさせていた。もう、長男が来て、夕食の支度をするようになっていた。

体調が、悪くなって来て、初美は、あまり人にも会いたがら無くなっていた。私も誰か来ると、初美の性格で、無理をするのが分かっていたので、家に来る事を控えてほしい、と皆に言った。皆はどう思うか、分からないけれど、家族で出来る限りの事をしようとしてきていたので、これからも自分達の考えで、初美を看ていきたい、と思っていた。

毎日、昼間は暑いし、体調も良くなかったけれど、夕方になると、温泉の湯の花を入れたお風呂に入り、出てくると、ベランダで深呼吸をする。楽しみはお風呂で、一番気分の良い時だった。

アガリクス、漢方薬も、毎日煎じて飲み続けていたけれど、だんだん飲むのも大変になってきていた。薬、座薬、アガリクス、漢方薬とたくさんあって、初美は「今度は、何時に何を飲むの」痛くなると「シップ張って」と二人で過ごして居る時間を大切にしていた。

86日 私のお袋と三人で、寒川神社にお参りに行った。帰り道、サービスエリアに寄り、私がトイレに行って戻ると、初美が居ない。お袋に「初美は何処に行ったの」と聞くと、「初美さんがラーメンを食べたいと一人で行った」と言うので、すぐ行ってみた。一人で初美は、ラーメンを食べていた。「大丈夫か」と聞くと「なんだかラーメンが食べたくなった」と笑いながら言った。いつもの初美だと思いながらも、私は心配だった。

いつもは、寒川神社で、お払いをしてお参りを済ませると、すぐ近くの、ドライブスルーのハンバーガーを買って、二人でピクニックに来た様だな、と食べていた。

初美がこんな性格だから、笑える事も多く、案外楽しい事もあるし、初美が落ち込んでいないだけ良いか、と思っていた。

 

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