2026年6月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
フォト
無料ブログはココログ

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

2012年3月

早咲きではない桜の木も、こんなに蕾がピンクになりました。

  近所で一番早咲きの桜の花です。蜜を吸いにつぐみや尾長が飛んできて、花を落として行きます。咲いたばかです。

残念な気もしますが、嬉しくて子ども達と一緒に拾いました。Sn3v01250001_2Sn3v0126_2_2 

訪問先に持っていくと、「もう咲いたの!桜の香りだね、やっぱり日本の春は桜だねぇ!」と笑顔が返ってきます。早咲きではない桜の木も、こんなに蕾がピンクになりました。

昨日週刊文春を買いました。『自宅で死ぬために準備しておきたい事』を読みました。胃ろうの選択がこんな風に決められたのだと、改めて知りました。お母様を看取られた方の思いを感じました。

おじいさんの古時計

八十乙女のつぶやき  国分 アイ Kokubun Ai      
1920
年福島県生まれ。日本赤十字看護婦養成所を卒業の年に大平洋戦争が勃発し、陸軍海軍病院に勤務。戦後は日本赤十字中央病院へ勤務。後に同病院専任臨床指導者となり、日本赤十字看護短期大学の学生指導、教務部長を経て同病院副看護部長歴任。退職後、自治医科大学付属高等看護学校、杏林大学医学部付属看護専門学校、埼玉県立衛生短期大学、日本赤十字愛知短期大学で教鞭をとるというように、一貫して看護教育に携わる。自身も、胃切除、腰椎圧迫骨折、肋骨骨折、胆のう摘出など怪我や病気を体験し、その体験が看護教育に生かされてきた。さらに70歳で多発性骨髄腫を患いながら、放送大学を5年で卒業。フランス刺繍、ケーキづくりと何事にも研究心旺盛。

国分アイ先生は、2004414日 昇天されましたが、福島県出身の先生のお心を大切に、今後は継続して掲載させていただきます。>>>>>バックナンバー

Vol.15 おじいさんの古時計

最近、聞くともなく聞いていたが、『おじいさんの古時計』という歌が流行っているらしい。“チックタック、チックタック、ボーンボン”と、時を刻む時計の歌である。テレビの映像の中では、アメリカ製で、大きく、長く、デザインは古いが、風格があり立派にみえた。リズム感がある歌で、いつの間にか口ずさんでいた。

昔、生い立ちの家にいた頃、わが家にも古い柱時計があった。国鉄職員で時間に几帳面だった父が、床の間の横柱の時計に、キリキリと捻子を巻いていた後姿が目に残っている。

家を出てからは、婦長をしていた日赤中央病院の外科病棟の看護婦室に時計があった。形はわが家の時計と似ていた。スマートなどといえるものではなかった。備品係の小川さんが管理していたが、時々故障。小川さんはその都度、胸に抱えるようにして器械管理室に運び、修理を依頼していたようだ。そして、頻回の修理にたまりかねて、新規購入を依頼した。

「神武天皇が、これは古いと申しました」と、彼女らしい頓知でお願いに及んだようだ。しかし、婦長室に戻った途端、「婦長さん、神武天皇はまだ使えると申しました」と報告に及んだ。

これは80年生きながらえた私の人生に出会った、おじいさんの古時計のように懐かしい、思い出の時計たちのお話である。 (200210月)

心に響く本、今の時代だからこそ、あの日、あの時が思い浮かんできます

「アイ・ラブ・グランパ100の理由」「アイ・ラブ・グランマ100の理由」を読むと、あんなこと、こんなことが浮かんできて心が和むんです。私は、祖父母のことを思い、思い出のお気に入り写真を貼って、100番目の理由を書きました。今は亡き、祖父母にプレゼントするために・・・村松静子

「おじいちゃんを愛しています。だって、 何もない時でも身体を動かして工夫をすれば、必ず解決するって教えてくれた。」(せいこ)

「おばあちゃんを愛しています。だって、私がもっとほしいと思っている時、いつだって笑顔で多めにくれた。」(せいこ)

感謝を込めて思い出の写真を貼って、100番目に私の言葉を書いて、本当はプレゼントするようにできているのですが、私はそっとしまってあります。子供たちの発した言葉が、こんなにも意味のあるものだとは・・・

注文書は ⇒こちら (心から「読んでみたい」「自分を振り返ってみたい」「プレゼントしたい」という方には、特別に2冊で2400円送料込でお分けします。)

お問い合わせは03-5386-2427(担当:片岡・仲野)

事故に遭わなければ一時代を築いたに違いない今は亡き、オートレーサー須之内哲也の連載コラム

vol1⇒ こちら Img237_5

vol.38. 2012-3-1

知人にもベッドを入れたほうが楽だからと言われてベッドを借りて入れることになったけど、私にはこだわりがあった。死ぬ時は二人で、ふとんの上で看取ってあげたいと思っていたのでベッドは出来るだけ部屋に入れたくなかった。でも、初美が起きる時も自動で楽だからとベッドを入れることになった。トイレも訪問看護ステーションから借りて部屋においていたけど、トイレは家のトイレに行きたいと、初美は両手を子供に支えられながらやっと歩いて行っていた。今までふとんだったから、夜中に手を伸ばして私の身体を叩いて起こしていた。ベッドを入れて横に私のふとんを敷いて寝てみたけれど、初美が私を起こせなくて・・・夜中の3時頃まではかならず起きて見ているのだけど、朝方は私も眠ってしまい初美は声を出せなくて手が届かなかったと言う。 私が怪我をして入院している時は今とは逆で初美が私の看病をしてくれた。お互いの手首に紐を縛って寝たのを思い出し次の日からは、お互いの手首を縛って寝ようとそうしたのだけれど、今の初美に紐を引っ張る力がなかったらしく、「今夜も起こそうと思ったけど紐を引く力がなかったから我慢していた」という。色々考えて、次男がベッドに鈴をつけてそれなら手をぶつけるだけでいいからと持って来てくれた。ためしたら鈴が鳴ったので良かった。「じゃこれにしょう」と早速鈴をベッドにつけて、「用事がある時はいつでも鳴らすんだよ」と笑いながら取り付けたりしていたのに、私が台所で片付をしたりしていても「哲ちゃん早くこっちに来てなよ」と、私の姿が見えるところにいても呼ぶ。そばにいてほしいのだろう。顔が見えないとすぐ呼んでいた。

毎日横になっている時間が長くなったから、背中が痛いと横向きにさせたり背枕をあてがったり身体をさすって向きを変えたりする。やっぱりベッドのほうが楽で、食事も洗面もベッドの上でするようになって、トイレに行く時は台所の椅子に一回座って休んでからトイレに行くようにもなってきた。私が車椅子なのでどうしても初美を支えてトイレに連れて行くことは出来なかった。長男が仕事が終わると夜中に仮眠をしに帰り家族で役割分担を決めていたので、長男ももうほとんど家にいてくれるようになった。こんなに家族がまとまったのは始めてかもしれない。これで初美がこのままいつまでもこうしていてくれたらと思うばかりだった。

« 2012年2月 | トップページ | 2012年4月 »

最近の記事