おじいさんの古時計
八十乙女のつぶやき 国分 アイ Kokubun Ai
1920年福島県生まれ。日本赤十字看護婦養成所を卒業の年に大平洋戦争が勃発し、陸軍海軍病院に勤務。戦後は日本赤十字中央病院へ勤務。後に同病院専任臨床指導者となり、日本赤十字看護短期大学の学生指導、教務部長を経て同病院副看護部長歴任。退職後、自治医科大学付属高等看護学校、杏林大学医学部付属看護専門学校、埼玉県立衛生短期大学、日本赤十字愛知短期大学で教鞭をとるというように、一貫して看護教育に携わる。自身も、胃切除、腰椎圧迫骨折、肋骨骨折、胆のう摘出など怪我や病気を体験し、その体験が看護教育に生かされてきた。さらに70歳で多発性骨髄腫を患いながら、放送大学を5年で卒業。フランス刺繍、ケーキづくりと何事にも研究心旺盛。
国分アイ先生は、2004年4月14日 昇天されましたが、福島県出身の先生のお心を大切に、今後は継続して掲載させていただきます。>>>>>バックナンバー
Vol.15 おじいさんの古時計
最近、聞くともなく聞いていたが、『おじいさんの古時計』という歌が流行っているらしい。“チックタック、チックタック、ボーンボン”と、時を刻む時計の歌である。テレビの映像の中では、アメリカ製で、大きく、長く、デザインは古いが、風格があり立派にみえた。リズム感がある歌で、いつの間にか口ずさんでいた。
昔、生い立ちの家にいた頃、わが家にも古い柱時計があった。国鉄職員で時間に几帳面だった父が、床の間の横柱の時計に、キリキリと捻子を巻いていた後姿が目に残っている。
家を出てからは、婦長をしていた日赤中央病院の外科病棟の看護婦室に時計があった。形はわが家の時計と似ていた。スマートなどといえるものではなかった。備品係の小川さんが管理していたが、時々故障。小川さんはその都度、胸に抱えるようにして器械管理室に運び、修理を依頼していたようだ。そして、頻回の修理にたまりかねて、新規購入を依頼した。
「神武天皇が、これは古いと申しました」と、彼女らしい頓知でお願いに及んだようだ。しかし、婦長室に戻った途端、「婦長さん、神武天皇はまだ使えると申しました」と報告に及んだ。
これは80年生きながらえた私の人生に出会った、おじいさんの古時計のように懐かしい、思い出の時計たちのお話である。 (2002年10月)
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