【システムのスタッフは、今】全大会、お疲れ様でした。センター創立30年、紆余曲折を繰り返しながらも看護への思いは一つ。再び時代に即した新たな看護を展開!
先週は全体会への参加、大変お疲れさまでした。
センター創立30年・・・。
時代の流れの中、紆余曲折を繰り返しながらも当初からの看護への思いは何一つ変わりませんが。
そして今、
再び時代に即した新たな看護が展開されようとしてきています。
看護に対する思いは変りませんが・・・。
皆さん頑張りましょう。そして、宜しくお願い致します。(奥山)
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先週は全体会への参加、大変お疲れさまでした。
センター創立30年・・・。
時代の流れの中、紆余曲折を繰り返しながらも当初からの看護への思いは何一つ変わりませんが。
そして今、
再び時代に即した新たな看護が展開されようとしてきています。
看護に対する思いは変りませんが・・・。
皆さん頑張りましょう。そして、宜しくお願い致します。(奥山)
Vol.64
2015.5.30宗教と「死生観」:その10
日本人は「宗教」を意識していない。尋ねれば「無宗教」でると考えている人が多い。特定な宗教を信じているという自覚がない。神道、仏教とのかかわりがあるためどちらの宗教を選ぶかが難しく「無宗教」ですと答えるようである。世界を見渡すと、キリスト教が多い欧米では生まれればそのままキリスト教になる。イスラーム教も同様である。
宗教色の薄い日本人では、避けることのできない生物学的な「死」を恐れても、自身のその後を考えている人は少ないのでないかと思っている。むしろ、残される家族、親族、友人を思う人が多いのではないか。 「死生観」はと尋ねられ、すぐに返答できる日本人は多くないと思っている。雑駁に言えば、生まれ住む処で養われる。家庭がその最小単位である。自身の属する民族、宗教、環境、風土、生活習慣が意識しなくとも「死生観」を醸成すると思っている。
小生の事である。生物学的な「死」は必ず訪れることは承知している。しかし、「霊魂」の存在を考えたことはない。良い遺伝子が残ってくれることのみを願っている。
これでお終いである。お付き合い頂いた皆様に感謝する。種々の参考資料を利用させていただいたが、いずれも無断使用である。コラムの主宰者に免じお許しを頂きたい。(完)
Vol.63
2015.5.28宗教と「死生観」:その9
「宗教と死生観」のコラムの完成にてこずった。資料を、糊と鋏で纏めてみたが要約すると、
ユダヤ教の「死生観」に、日本人が言う「あの世」はない。現世しかない。ユダヤ教から派生したキリスト教は、「神」のもとに行き、イエス・キリストが復活したとき信者も復活すると考えている。従って、遺体を埋葬し復活の日を待つ。
イスラーム教は、「神」のみもとに行き永遠の生を得、天国に行くと信じている。遺体を埋葬し「神」の元、天国に行く。
神道の世界では、肉体より「霊魂」が「祖先神」の仲間入りをすると考えている。(大乗)仏教では、「霊魂」が十万億土(極楽浄土)に行くが、生前の善行・悪行により行き先が異なるとされている。
日本人の宗教観、死生観である。縄文期には、霊魂の世界、神道のみであったが、6世紀中葉、仏教が朝鮮半島より入ると神道と仏教との軋轢が始まる。10世紀、仏教は日本の神と異なる性質を持つと理解されるに従い、神道の神を迷える衆生の一種と位置付け、神道の神々も人間と同じように苦しみから逃れることを願い仏陀の救済を求め解脱を欲していると認識されるようになった。「神宮寺」が建立されるようになる。この「神仏習合」の考えは、明治時代まで続き、明治維新になり「廃仏毀釈」の風潮が強まり、明確にではないが神道と仏教は分離するようになり今日に至っている。
日本人の「死生観」は複雑であるが、大掴みに言うと「ご先祖様に申し訳ない。」、「成仏できない。」という表現になる。「ご先祖様」は神道の「祖先神」であり、「成仏」は仏教での「仏陀」である(続く)。
皆さんお疲れ様でした。
何よりも「あ、うん」で繋がる事も素晴らしい。
今後とも、こちらこそよろしくお願いします。(奥山)
レジュメの準備から、今日もお疲れ様です、本当にありがとうございました。とても
助かりました。
今年度は30周年記念をはじめ、沢山やることがあるなぁ~と感じております。皆で進んでいけたら、と思います、よろしくお願い致します。(かわぐち)
色々な話が聞けた今日の全体会、センターとの出会いが皆様々で、でも思いは一つ。
それを形にして行く年なのですね。
30周年の今年、頑張りましょう。又明日からよろしく。(鈴木)
センターの30年目の節目となる全体会に参加できないのが残念で仕方ありません。
センターにスタッフ一人として籍を置かせてもらえること、訪問の実践を経験できることは、わたしにとっては唯一モチベーションを維持できることであり、今はこれまでの私の生き方とは違う選択が多く、葛藤の中で過ごしています。
諦めなければならないことも多いですが子供はわたしを救ってくれており、いつかまたほんとにやりたいことをやれる日がくることを信じて今を生きていきたいと思っております。(O)
全体会、よい会であったこと、皆様日ごろからの意識が、今年も会で全開したのでしょう。
よかったです。
私も参加していた気持ちで様子をうかがう?時間でした。
今月も、のこるところ1週間になりました。 しっかり本来の業務体制に切り替えたいと考えています。(K)
Vol.62 2015.5.23宗教と「死生観」:その8
「死生観」である。ユダヤ教は「契約」の宗教である。「契約」を順守し絶対服従していれば、神が「豊かな地を授けその民族に繁栄をもたらす」という教えでユヤダ人に「約束の地、パレスチナ地方」を与えた。その「死生観」は「死後の世界」はなく、亡くなったあと新たな生活が始まるという考えはない。ユダヤ教では「人」は神により土の“ちり”から作られたのもとされており、亡くなるということは人が本来の姿である“ちり”にもどるとされている。死は永遠の眠りのためのものとなっている。従って、神、ヤハエイとの契約(教え)に従って、現世を如何に過ごすかが最も大切であると考えている。ヤハウエが復活すれば、自身も蘇るとされており、ユダヤ教のエレサレム神殿の近くに葬られることを望むという。
キリスト教の教えは、「神の愛」を信じるだけで「罪と悪から救う」と言われている。「戒律」もなく「対価も求めず」、ただ「神」を信じるだけで「罪」から救われる「愛」の宗教とされている。
その「死生観」は、人の死は墓場のなかで永久的に過ごすのでなく、神の子である「イエス・キリストの復活」とき、神を信ずるものは死んだときの人格で再びこの世に戻ってくることになる。故に死者を土葬し約束の日まで保存しておかれる。神を信じたものは審判を受け、天国に迎えられ永遠の命を持つものと、地獄に行くものに分かれる。
イスラーム教は、死後にアッラーの元に行き「唯一神:アッラー」の裁きを受け、教えを貫いたものだけが永遠の生を得、天国に行ける。
日本の仏教では、「霊魂」は十万億土(極楽浄土)に行くとされているが、生前、善い行いをしたものは死後、極楽の世界(天国)、悪い行いをしたものは地獄に落ちる。死後の世界に執着しないのが大乗仏教の教えであるが、日本に渡来してから、お釈迦様(仏陀)の教えは変容している。
神道は、「自然・祖先」を崇拝すれば、共同体を守り、怠れば「祟り」をもたらすと言われている。氏族の始祖を氏神とし崇敬し、祖先を自分たちの「守り神」とするので、自身も死後は家族や親族を見守る霊となって祖先神の仲間入りをすることを願っている。「魂」は、祖先から自分へ、自分から子孫へと永遠につながることを念じている。仏教のように「十万億土」に行くのではなく、わが家、わが郷土に留まって、「祖神」とともに子孫の繁栄を見守り、子孫から祭りを受けることを期待している(続く)。
本年度は、1986年に在宅看護研究センターを立ち上げて、そこから30年の節目に当たります。
当初は、現在のような制度は無く、有料の訪問看護から始まりました。30年の間に、時代の変化と共に制度の変遷はあったものの、『必要な時に 必要な看護を 必要なだけ』が保険・有料と形を問わず提供されて続けてきました。
時代とスタッフが変わっても、脈々と受け継がれてきた何かがあったのだと思います。それは、とてもすごいことなのだと思います。現在の当社には、立ち上げ当初を知るスタッフから、センターと同い年になるスタッフまで、幅広く在籍しています。
そこで、今年の全体会では、センターの30年間の活動と、それぞれスタッフの看護のエピソードから、センターが、それぞれ個々が大切にしている看護を確認し、これからの1年間の展望をスタッフ全員で語りたいと思います。
また、30周年記念行事にもつなげていくことができたら、と思います。
日時 : 2015年5月24日(日) 10:00~15:00
Vol.61 2015.5.16宗教と「死生観」:その7
神道である。一番身近な「神」で信じている・いないという宗教を超え我々の生活・身体に沁みこんでおり、簡潔に記すことが極めて難しい。そのような訳で、手元にある資料の丸写しとなった。神道は、一神教と違い今まで述べてきた「唯一神」、「預言者」、「戒律」などはない。
日本人は縄文時代より、自然現象を敬い、自然に「八百万の神」を見出し暮らしてきた。木の実を採取し、狩猟を行ない、川、海で漁猟をしていたので収穫の良し悪しは全て自然に支配さており、畢竟、縄文人以来、自然を操作するものを「神」とした。つまり、我々の常識的な判断を逸脱する存在するあらゆるものを「神」とみなした。自然を崇拝する「多信教」である。
「自然崇拝」を日本古代の信仰の横軸とすれば、縦軸は「祖先崇拝」である。「祖先崇拝」は「人間信仰」である。人は死ぬと「死霊」になり、さらに時がたつと「祖霊」になる。「神道」では、祖先の魂が現世と他界とを行き来することにより子孫を守るとされている。祖先を「祖先神」とし仰ぐ。一神教のように教祖、創始者はおらず、また、明確な聖典もない。「古事記」や「日本書紀」などを「神典」と称される古典書を規範とする。肉体より、「魂」を重んじる。
「自然・祖先」と「神」とは一体的に認識され、それを結ぶ具体的作法が「祭紀」である。祭紀を行う場所が「神社」であり聖域とされた。伊勢神宮には、天皇家の祖先神、「天照大神」が祭られている。春日神宮は、中臣(藤原)氏の「祖先神」を祭っている。
「神道」は地縁、血縁などで結ばれた共同体を守ることを目的に信仰されてきた。地域を守り、現世の人間に恩恵を与える「守護神」である一方、病や死を招きよせる「祟る」性格をも待っている。
教義を一口で言えないが、「祭紀」を行い「自然・祖先」を敬えば、部族や村といった共同体を「守護」し、怠れば「祟り」を引き起こすと言われている(続く)。
永さんから、下町でお生まれになった、お育ちのお話をうかがいました。
下町、そうです、その通りの話を耳にいたしました。 うかがっている私、同じ環境の中で生活をしていたものとして、自然にあふれるものがありました。
仕事とも、向き合いたい!中途半端にはしたくない、この思いはしっかり持ち、 わずかでしょう、現役をしっかりつとめたい!そのような心境です。
Vol.60 2015.5.9宗教と死生観:その6
ゴータマ・シッダール(釈迦牟尼)が「正しい悟り」を会得し、インド宗教の「仏陀」の頂点にたった。そのため、「仏陀」と云えば「釈迦牟尼尊」を指すようになり、「仏陀の教え」を「仏教」と称するようになった。
「仏教」の教えの中核は「悟り」である。「悟り」とはなんであろうか。種々の資料を要約すると、「物事に対する執着を捨て、慈悲を与え苦しみから解脱する。」ことと理解してよい。
生あるものは全て滅し、事象は流転する。生老病死の苦は一回限りのものではなく、そこから「脱しない」限り永遠に繰り変される(輪廻転生)。価値観は相対的に移り変わる。煩悩を捨てることはできない。ひとつの教えに固執するがゆえに他者との間に対立や争いが生ずる。ひとつの教えに固執してはいけない。ある人にとって役立つ教えは、ある人にとっては役立たない。教えは多様である。「執着」しないがゆえに一切のとらわれから離れ、心の安寧が得られる。簡明に言えば、死後、どうなるであろうと考えに執着しないことが「解脱」「涅槃」とされている。「自覚宗教」である。(初期)仏教は、大掴みであるが「解脱」という言葉にその教えは集約される。
仏陀が入滅して約500年を経た紀元前後の仏教界では、自分の解脱より他者の救済を優先するという「他利行」の教えが広まる。出家者でない俗世の凡夫でもこの「他利行」を続けていけば、誰でも未来の世において「仏陀」になれるという考えが浸透してきた。「成仏」すると表現されている。日本では、「慈悲」と「悟り」が今日まで続く大乗仏教の教えである(続く)。
こんにちは。
お天気の良い日が続いています。日差しも大分強くなってきました。
我が家の近所でもジャスミンの花が咲き始め、香りがプンプンと漂っています。
日本ではあまりなじみがありませんが、タイでは王女様の花と言われており(日本で言う皇室の方々のお印の花)母の日や先生の日(自分の師を敬う日があります)等目上の方に贈る花、高貴な花として扱われています。
花もところによって様々です。
皆様今週も宜しくお願い致します。(奥山)
Vol.59 2015.5.2宗教と死生観:その5
仏教である。日本では、今日でもその「教え」は葬式、墓参などの仏事を通し「仏の教え」らしきものが身についているので、「仏教」の教義を知っている積りになっている人が多いと思う。改めて「教えは?」と問われると、口をもぐもぐするだけである。
仏教の歴史から始める。仏教はインドで興ったことはご存じのことと思う。紀元前13世紀、現在のアフガニスタンから多神教を奉ずる民族がインドに侵入し、先住民族を支配する封建体制が形成された。紀元前10世紀頃より、バラモン教、ジャイナ教、アージーヴィカ教、仏教などの宗教が登場しインドの4大宗教はそろった。
「仏教」に絞る。仏教は「仏陀の教え」と解されるが、「仏陀」とはサンスクリット語で<悟った者>ブッダbuddhaの音訳で、インドでは古来から真理を「悟った人」という意味を持つ。従って、インドではヒンズー教、ジャイナ教などでも<仏陀>は存在する。ゴータマ・シッダール(釈迦牟尼)もその一人で、紀元前4世紀、彼は「正しい悟り」をインド北部ガンジス川のブッダガヤで会得し「仏陀」となった。
ゴーダマ・ジッダール(釈迦牟尼)の教えが、最も「正しい悟り」でありその教えが他のインドの土着宗教の教えを超越するようになった。ゴーダマ・シッダールは「仏陀」の名を占有でき、その「教え」は「仏陀の教え」、「仏教」となった。ゴータマ・シッダールは、日本では「釈迦牟尼尊(おしゃかさま)」と言われる。(続く)。
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