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コラム「医師として、武士として」  Vol.89 「デジタル」と「アナログ」(その2)     安藤 武士 Andou takeshi

 Vol.89 2017.11.5 「デジタル」と「アナログ」(その2) 

「ヒト」の生態は、アナログ(連続的)で動いていると前号で記した。しかし、社会生活では 「ヒト」は何かで括られている。肌の色、生まれた国、人種、年令、男性、女性が古来からの括りである。その様に考えると、「ヒト」は「デジタル:離散的」に処理されている「もの」と言える。近代化すればするほど、社会的には「離散的」になる。「括り」が多種多様になってきている。自分では、心身ともに良いことも悪いことも、過去から現在まで連続性のある「生き物」と思っても、現実は、最も「括り」のある「生き物」であると思っている。

 現存する「ヒト」はホモ・サピエンスという「ヒト属」に属し、約700万年前、霊長類から分かれた「生き物」で変化しながらも連続している生き物であるが、社会が複雑になればなるほど「括り」も多様になってきている。太古では、せいぜい「種」と「性」が「括り」であったろう。 

 話をもとに戻す。「健康診断」では診察がある。医師は、診察時に「健康診断票」を見て名前を確認する。年令・性別欄に目をやる。それから、受診者に現在の健康状態を訪ねる。所謂、問診である。次いで診察に移る。診察時には心音・呼吸音を聴く。聴診である。アレ!、男性と健診票に書いてあるのに乳房がある。女性と記されているのに乳房がない。 

小生は、十数年前、初めて「性同一障害」と言われている人を診察した。始めはどのように接したら良いか戸惑ったが、診察をし終えてから「健診票」に「男性」とあるのは間違いですねと、「性別」記載の違いを詫びる。受診者は、「いいえ、まだ戸籍を変えていないんです。」と恥ずかしそうに言う。数年間、毎年、数人の「性同一障害」のある人、現在では「障害」という言葉を避け「LGBT」と表現される若者の「健康診断」を行った。徐々に立ち入ったことにも応えてくれた。小生にとって「ヒト」は「男女」という文字では括れない連続性のある「生き物」であることを肌で知った。 

 「LGBT」は、LesbianGayBisexualTransgenderの頭文字をとった略語であることはご存知と思われる。「体の性」と「心の性」が一致しないで外科的転換を望む「ヒト」を指す。両方の性的特徴と器管のある人をインターセックス、Queerともいう。総じて、「性的マイノリティー」と言う。

 「ヒト」は、社会的に男性、女性と2分されていても生物としては、解剖学的にも生理学的にも連続性がある事を実体験し驚愕したのである。

  2004年、性差医療・医学研究会 第一回学術総会(現在は、日本性差医学・医療学会)が東京で開催され、小生も聴講した。聴講した理由は後に記す。

 招待講演は、アメリカのコロンビア大学の 世界で初めて「性差医療」の確立を提唱したDr. Marianne J Lgatoで、「性差医療の実際」に関する演題であったと思う。

 横浜市立大学大学院医学研所貴邑富久子博士の講演は『脳の性、セックスとジェンダー』であった。Dr.Lgatoは、生物学的に「男女」があるにも関わらず、現実は医療が「男性」に偏ったモデルで行われているので、それを是正しようと立ち上がった医学者である。感銘を受けた講演であったが、これは本題と離れたことなのでこれ以上立ち入らない。

  もう一人の招請講演者である貴邑富久子博士の『脳の性、セックスとジェンダー』は、体型は男性でも生物としての(脳)機能は女性である生物(ヒト)が存在するという講演であった。無論、その逆の話もある。小生にとっては驚きの講演であった。講演の記憶をたどると、受精すればすぐ男女の体型は決まるが、脳の機能は母体内(子宮)環境が影響するとのことである。

 2004年に得た学術的な知識を、数年後「健康診断」で驚愕の体験をした訳である。小生は、以来、「ヒト」と接触する場合、男性、女性という「性別」の括りに係らず、俯瞰的に接触するようになったと思っている。気取らず言えば、生物学的にも社会的にも外見ではわからない色々な「ヒト」がいる、存在するという事である。

 家人と時に議論をする。過年、小生が、「そのように伝えておいて」というと、家人は「やだは、自分で言えば」と断る。先日、家人が「主人(小生の事)がいないので返事ができません。後でお電話します」という電話の会話を耳にした。家庭という小さな社会でも夫婦、男女、子供で役割分担があると思っていた小生は、“ニヤリ”とした。当時、「ヒト」は、男女の人権は同じでも、生きていくには役割分担が「ある・ない」という家族のバトルがあり、小生の言い分を証明しようとしていたが、・・・。(続)

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