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2018年1月

コラム「医師として、武士として」  Vol.92 「幼少時教育」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.92 2018.1.15 幼少時教育

小生と音楽? 無縁のことと思っている方が多いと思う。違うのである。終戦直後、両親は進駐軍のご婦人より家でソーシャルダンスを習っていた。まだ、蓄音機の針が「タケ」の時代である。小生は、両親の練習姿を覚えている。常に音楽が周囲に有る環境で育った。

耳に記憶に残っているのは、「マリネラ」というシャンソンである。3,4歳の頃であろう。無論、その時は、題名は分かるはずはない。長じて題名を知った。過年、有名な”銀パリ“で活躍した往年のシャンソン歌手にリクエストしたがそんなシャンソンは知らないという。「コラム」を書くにあったって調べてみた。

マリネラは、「1936年のPierre Caronが制作し、ティノ・ロッシが主演した映画『マリネラ』の主題歌。」と解説してある。1936年では小生は生まれていない。しかし、確かにあったのである。“調べ”は、体に染みこんでいる。

その頃、父親が月一度、家でレコードコンサートを催していた。近所のクラシック愛好家が集まって「通人」の解説を拝聴した後、コンサートが始まるのである。小生は、部屋の端で両膝を抱え聴いていた。バッハ、ブラームス、べート―ベン、モーツアルト、シューベルト,ショパン、良さもわからず聞いていた。しかし、シューベルトの歌曲「魔王」だけは恐怖に慄いて聞いた。これも、後で曲名を知った。このような生活が数年続いた。

 

幼稚園に通っていたころの話である。中心街に楽器専門店があった。シーウインドウに可愛いバイオリンが飾ってあった。それが欲しくてたまらなかった。誕生日に好きなものをあげると言われたので、そのバイオリンをねだった。小生はおもちゃの積りでいたが、両親は早速バイオリン教室を見つけ通わせた。冬、自分で引くバイオリンの“ギーギー音”で寒くなり炬燵で引いていた。10歳で親の仕事の都合で上京したが、それをきっかけにバイオリンはやめた。

 上京してからは、家が繁華街にも近かったため「流行歌」が常にあった。何時も、「何か」の音につつまれていた。

中学から大学を卒業するまでは、運動漬けで当時の音楽は知らない。医師になってからも病院と密着して生活をしていたので世間知らずであったが、会費要員として「カラオケ」に頻回に連れていかれ、それなりの歌手と流行歌を知る機会はあった。

1980年、米国胸部外科学会に参加するためアメリカに行ったが、ボストンで若き日の小沢征爾氏のドヴォルザークの「新世界」を聴く機会があった。現在、老成した征爾氏の指揮から生まれる音楽は別人が指揮を執っているようである。柔らかい。

そんな環境の中、ある音楽大学の教師と知り合い、以後、月に一度、クラシック音楽の切符を頂くようになった。ストビンスキーのような現代音楽は落ち着かなく聞いていたが、クラシック音楽になると心穏やかにひと時を過ごせた。何年続いただろうか。

勤務先の研究室にもラジカセを置き、何時もクラシック音楽を流していた。小生が好きなのはピアノ協奏曲である。ラフマニノフ、グリーク、ショパン、ベートーベン、サンサーンス、シューマン等々、何時も流していた。心が安らぐ。これは、幼少時の影響と思った。その後、音楽を聴く環境もなくなったので音楽とは疎遠になった。

 

幼少時の体験は体が覚えているので、幼児教育は将来を決めると言われいる。

 今、小生が口ずさむのは「美空ひばり」の歌でばかりである。(完) 

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コラム「医師として、武士として」  Vol.91 「“呑んべい”の言い訳」(完)    安藤 武士 Andou takeshi

1941年、新潟県生まれ。1967年、新潟大学医学部卒業後、医師登録と同時に外科研修を開始。

インターン終了後医師となる。新潟大学付属病院(外科助手医局長)で勤務の後、72年、呼吸器・心臓血管外科を専攻後、80年より、心臓血管外科部長として日本赤十字社医療センターに勤務。その後、山梨医科大学非常勤講師JR東京総合病院(心臓血管外科部長)、明治安田生命(事務センター診療所所長)、JR東厚生部(水戸支社・高崎支社・新潟支社健康管理センター所長)、佐野市民病院(健康管理センター所長)、介護老人保健施設たかつ施設長を歴任。現在は、(社団法人)労働保健協会の診療所所長として活躍中。労働衛生コンサルタント・スポーツドクター(日体協)・健康スポーツドクター(日医)・認定産業医(日医)の資格を持ち、5つの顔を絶妙な味で使いわける医学博士である。身体の大きさと、豪快な笑い・笑顔には、その人柄と存在感をより強くアピールする何ものかが潜んでいる。今なお、'武士'にして"武士"ここにあり。

Vol.91 2018.1.1 「呑んべい」の言い訳(完)

「呑んべい」は何やかんやと言い訳をしながら呑む。「乾杯」の音頭をとってくれと言われてね。チョットの積りが、皆が挨拶に来て注ぐので断る訳にもいかず飲んじゃって。ウーロン茶をウイスキーの水割りと言って飲んでいたら、バレテネ。と、言った具合に呑み続けるのである。

小生は、大酒家ではないが気持ちは理解できる。相手の気持ちを損ねないようにいつも心がけているのである。「呑んべい」は優しい気持ちの持ち主なのである。

 

 先日、50人程の宴会が終わり会場より地下鉄で帰ろうとしたが、地下鉄の入り口までかなりの距離があったので通りかかったタクシーに乗った。

 運転手に、「靖国通り」でも「新宿通り」でもいいよ。「靖国通り」なら、曙橋駅の先に側道があるから、その道を登ってくれれば後は家まで案内するよ。「新宿通り」なら、と説明した。

 運転手と世間話をしながら、気分よく乗っていた。目的に近づいてきたので100mほど先に側道があるから、その側道の坂道に沿って行ってくれと説明をした。運転士は側道を通りこした。「ここでいいよ」と言って降り、逆戻りし坂道の側道を歩いた。坂道の途中で何かに足をとられ転んだ。意識はしっかりしていた積りであったが、起き上がれないのである。数分、そのような状態が続いたので、しばらく休めば良いも醒め立てるだろうと思い、悪あがきをせず

おとなしく横になっていることにした。車が来ると危いので体を回転させながら道端までごろごろ転んでいき危険を防いだ。鞄を枕に一寝すれば起き上がれると判断した。極めて、適切な判断と思った。

 どのくらい経ったかわからないが、周囲の騒がしさに目をさました。10人ほどの通行人が小生の廻りにいた。車のライトが小生を照らし周囲の人が観察していた。救急車を呼ばなければ、という声が聞こえたので、大丈夫です、起き上がれれば家がすぐそこですのであるいて帰れます。起き上がるのを手伝ってくださいと言ったと記憶している。小生のご近所さんが数人おられ、小生を家まで支え送ってくれた。

 なに食わぬ顔で帰宅すればと思っていたが思わぬ事態になった。家に帰ってからが大変であった。あとは、想像におまかせする。

 乾杯の一杯が。あの運転士め。これは「呑んべい」の言い訳ではない。(完) 

「呑んべい」の言い訳(1)⇒ こちら

「呑んべい」の言い訳(2)⇒ こちら

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