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新コラム【私のメディア・リテラシー】 第2回「民主主義は不可能」か?  尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第2回「民主主義は不可能」か? 2020-4-4 
 土曜日の朝。珈琲カップを手にテレビのニュースショーを眺めていた。
 口は悪いが、世間をよく知るヘルスケア事業者の某氏に言わせると、テレビのニュースショー出演者には「テレビ芸者」が目につくという。確かに新型コロナウイルス感染症を扱うテレビ番組を見ながら、「今日はあの教授は服を変えてきた」とか「あの先生は開業医のはず。自分の患者はいつ診るのか」といった勝手な感想を抱く。

 問題はテレビショーの中身だ。テレビならではの切り口もあって教えられることも少なくないけれども、きがかりな点もある。新聞記事を映像化して識者が解説し、コメンテーターが好き勝手な言葉をはさむのが基本パターンだ。一般市民は新聞やネットをじっくり読み込んで自分なりの意見を考える手間が省くことができて、便利ではある。だが、自分自身の頭で情報の真偽を考えたり、モノゴトの評価をしたりせず、それらをテレビに丸投げできる装置でもある。ニュースショーは世論形成のコンビニエンス・ストアではないのだろうか……。
 と思いつつ眼をテレビ画面から新聞に移すと、朝日新聞(4月4日)の朝刊に良い記事を見つけた。社会学者、大澤真幸氏のコラム「古典百名山」だ。森羅万象を扱ってきた古今東西の名著を素人にも分りやすく紹介してくれるユニークなコラム(800字)である。

今回(№76)のテクストは、ケネス・J・アロー著「社会的選択と個人的評価」(長名寛明訳)。
 大澤氏によると 「民主主義に反対する人はほとんどいない」が、「1951年に初版が出た本書は驚くべき内容を持つ、(経済学者である)アローは、民主主義なるものは不可能だ、ということを数学的に証明してみせた(ように見える)のだ。
 ここから先がややこしい話になる。「ひとつの社会的決定を導き出さなくてはならない」とき、「(意見の)集約の仕方が民主的であるためには、少なくとも三つの条件を満たさなくてはならない」そうである。3条件は以下の通り。
 第1は、「全員が一致して、AがBより好ましいと判断しているときには社会的決定でも、その通りになるべきだ」
 第2は、「AとBのどちらかが良いかという決定に、これらとは別の選択肢Cに対する人々の好みが影響を与えてはならない」
 第3は、「独裁者が存在してはならない」
 そのうえでアローは、「3条件を全て満たす、(人々の好みの)集約の仕方は存在しない、ということを証明した。前の二つの条件を前提にすると、必然的に独裁者が出てくる」というのだ。このへんの論理は難解だが、「本書を通過していない、民主主義をめぐるどんな主張も虚しい」と、大澤氏は記す。私には、いま一つわかりにくいけれど、大澤氏がコロナ騒動のさなかに、この本を持ち出した気持ちを察する。いまや日本を除く世界各国では反民主主義とも見える動きが広がっているからだ。

 イタリア、フランスなど欧州大陸諸国やイギリスなど民主主義の本家で通行証の所持を義務付け、罰則つきの外出禁止令を発信するなど私権を制限する都市封鎖が行なわれている。その際、住民や市民の了解を得るための民主主義的な手続きを踏んでいるという報道は伝わってこない。ノーベル賞を受けたアロー先生の数学的証明が合っているのかどうかは、ともかく、有事には「民主主義なるものは不可能だ」という
ことを新型コロナウイルスは事実を持って語らしめている?
 いっぽう、我が国では、安倍総理も小池都知事も、我が国も東京都もコロナ感染によって医療崩壊の「瀬戸際」に立ち、「事実上の非常事態宣言と同じ」状況を認めているにもかかわらず、私権を制限するような措置はしない、できないと頑張っている。すべての措置は「命令」ではなく「要請」というお願いである。法治国家であることがその理由だ。
遅れてきた民主主義の国のリーダーは、いまや民主主義の鑑になった。ただし、その評価は結果で判断される。もし、民主主義を護持によってウイルス感染が終息するか、感染爆発がおきるか、いま現在は誰もわからない。
 
 民主主義は人類史的な意味で鼎の軽重を問われている。人権不在国家の中国ではどうか。真偽のほどはともかく、中国では習近平氏が強権を発し、武漢市を都市封鎖したお蔭で、新型コロナウイルス感染症のオーバーシュートは終息に転じたとされる。独裁は多数の命を救うことによって民主主義の理想を超えたののだろうか。
 いっぽう、世界的なベストセラー「サピエンス全史」を書いた歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、3月31日、日本経済新聞に「コロナ後の世界へ 警告」を投稿した。
 「人類はいま、世界的な危機に直面している(略)。私たちや各国政府が今後数週間でどんな決断を下すかが、これから数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化を変えていくことになるということだ」と。
 そこで、「全体主義的監視か、市民の権利か」、いずれを選ぶかという問題に直面する。
全体主義的監視社会を拒むなら、「市民がもっと自分で判断を下し、より力を発揮できるようにする」ため、「科学や行政、メディアに対する信頼を再構築すること」。それは「今からでも遅くない」。ハラリ氏はそう説いている。

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