コラム 尾﨑 雄

【私のメディア・リテラシー】第8回 コロナ禍で求められる「もっと全体を見る」ということ  尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第8回 コロナ禍で求められる「もっと全体を見る」ということ  2020-12-30

 『週刊 金曜日』の2020年12月25日/2021年1月1日合併号を読んだ。訪問診療医・
小堀鷗一郎氏のインタビューが載っていたからである。死亡者3200人を超えた2020年のコロナ禍について小堀医師は次のように語っている。
「大腸がんで亡くなる人は年間約5万人です。コロナで死ななきゃ大丈夫と思っているかのような態勢、ここが大きな問題ですね。胃がんの検診なども数がうんと減っていると思いますよ。おかげで、早期発見できるものができない。病院も検診をやめちゃうし、患者も(検診に)行かないしでね。商売がうまくいかなくなって鬱になるとか、自殺するとか、そういう報道ばかりで、こういうのは統計に表れないけど、確実に増えています。要は何を怖がるか。もっと全体を見ないといけませんね」。

<「パンとサーカス」のたとえから不要不急を問う>
 一部マスコミが煽る「医療崩壊」を防ぐためには「もっと全体」を見て適切なトリアージを行い、医療資源の配分に心がけるべきだったということだろう。「コロナ」騒動があろうがなかろうが、緊急手術や手厚い治療を必要とする「コロナ」ではない患者がいるからだ。インフォデミック(情報洪水)に翻弄されず、医療提供体制を冷静に考える視点がもっとあっても良かったのではないか。医師で作家だった森鴎外は大正5年(1916年)に、命の意味を問う傑作「高瀬舟」を書いた。それから105年。鴎外の孫である小堀医師は82歳の今も訪問診療を続けながら、コロナ騒動を見つめている。
 佐伯啓思京大名誉教授は「パンとサーカス」のたとえを引き、2020年の日本社会を混乱させたキイワードのひとつ、「不要不急」の意味を問いかけた(2020年12月26日付け朝日新聞「異論のススメ」)。古代ローマの市民はパン(食糧=日常の必需品)とサーカス(娯楽=非日常の過剰なもの)の両方が揃っていてこそ生活に満足したとされる。当時のサーカスとは戦車競走や剣闘士の試合観戦だったが、現代も古代ローマと違ったかっこうのサーカス産業があって経済社会が回ってきた。旅行、宴会、スポーツ観戦、各種コンサート、芝居など、それが無くても生きていけるが、それなしは心が満たされないというモノやコトである。
 そこで注目したいことがある。健康保険組合連合会が2020年11月に行った「新型コロナウイルス感染症拡大期の受診意識調査」の結果だ。コロナによって通院や受診を抑制した人の多くは「体調不良を感じることなく生活することができた」というのだ。特に「医薬品の長期処方や電話・オンライン診療の活用、また市販薬の服用などで対応した」人たちにその傾向が強かった。知恵を働かせて「パン」と「サーカス」の使いわけをしたのではないか。

 

<大事なことは「真に正しい情報」と「急がば回れの教育」
 いっぽう、新型コロナウイルスの変異種は日本にも上陸したため、ワクチン開発への期待はいちだんと高まっている。ワクチンはパンデミック阻止の決め手になるのだろうか。ここでも全体を見ることが求められる。
 東大医科学研究所の石井健東大教授は2020年12月22日、日本記者クラブで「コロナ禍でのワクチン開発:その破壊的イノベーションの課題と展望」と題して講演した。そこで、石井教授は、いま、真に
必要なものは「知識のワクチン」だと語った。「真に正しい情報」ということである。学校、会社、病院等で交わされる世間話、電話、新聞、雑誌、本、ラジオ、テレビ、インターネット、友人、同僚等のSNSなどの情報源を使って、「だれから、いつ、どこで、何を、どのようにして正しい情報をを手にいれるか、ということが大切」なのだという。
 もうひとつは「急がば回れの教育」である。「人生のあらゆる局面において正しい情報を入手し、リスク対ベネフィットの比を自分自身で把握し、自己責任において判断して行動できる能力を幼少時から教育することが必要」だと。
 海外ではワクチン接種が始まった。予防効果は製薬会社の能書どおりなのか、副作用が出るのかどうか、出るとすればどの程度なのか、肝心なことはエビデンスやデータが出そろうまで誰にもわからない。コロナ禍のまっただなかで奮闘する医療・介護施設の専門職の方々には感謝してもしたりない。その恩恵を被っている市民にできることのひとつは「パン」と「サーカス」のほかにもある大事な何かに思いを寄せることではないか。

 

      (「老・病・死を考える会プラス世話人)

 

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新コラム【私のメディア・リテラシー】 第6回 ALS患者嘱託殺人事件と「安楽死」について 尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第6回 単なる嘱託殺人か「安楽死」なのか 2020-7-31

 筋委縮性側索硬化症(ALS)の女性患者から依頼を受け、薬剤を投与して殺害した医師2人が7月23日、京都府警に嘱託殺人の容疑で逮捕された。この事件を新聞は競って報道している。特異な事件ではあるが、メディアの報道の仕方や姿勢について考えさせられることが少なくない。

 朝日、読売、毎日、産経、東京、日経の各紙は、①現場が在宅療養の場であること、②SNSを“活用”した計画的な行為であること、③当事者間に金銭授受があったこと、④当事者が「独自の死生観」を持ち、⑤「訴追されないないなら」かまわないという反社会的な意識を持つ医師らによって行われたこと――を大きく報道した。安楽死の「作業はシンプル」だった、被害者に「睡眠薬を胃ろうに投与か」、使用した薬物は「バルビツール酸系睡眠薬と判明」とか各紙は事件の“手口”や経過を競って報じている。

 各紙は、「ALS患者(が)生きやすい社会」を求め、「生きる権利」を主張する当事者や支援団体関係者の声を掲載する一方で、ALS患者らが生きることの苦しみを「早く終わらせたい」という思いや主張も伝えている。ALS患者として初めて国会議員になった舩後靖彦氏の「『死ぬ権利』よりも『生きる権利』を守る社会にしていくことが何よりも大切」という声を掲載した。ところが、被害者の女性がツイッターで「自らの『生』と『死』の在り方を自らで選択する権利」を求めていたとも伝える。新聞は、異なる立場から沸き起こる様々な声や主張を取り上げざるをえないのだが、事件の本質をどのように捉え、読者(市民)に伝えようするのか、わかりにくい。次々と浮上する新しい事実に右往左往しているようだ。一つには、価値観の多様化を反映した複雑な社会現象を評価するための明確な判断基準が見つからないからだろう。今度の事件はインターネットが支配する現代社会で起こるべくして起きたともいえる。

 新聞報道のかたちは二つに分かれた。一つはインターネット世代ならでは新しいタイプの嘱託殺人のディテールを詳細に報道すること。もう一つは、「命とは何か」という重いテーマを社会全体で考えるようと問題提起する流れだ。そうしたなかで、各紙は7月28日、一斉にこの事件に関する社説を朝刊に掲載した。各紙の見出しを列記しよう。
「嘱託殺人 医の倫理に背く行い」(朝日)、「ALS患者の嘱託殺人 医師として許されぬ行為」(毎日)、「ALS嘱託殺人 医療からの逸脱は許されない」(読売)、「医療から外れた嘱託殺人事件」(日経)、「ALS嘱託殺人 生命軽視の明確な犯罪だ」(産経)、「ALS嘱託殺人 安楽死の事件ではない」(東京)である。いずれも見出しで「嘱託殺人」だと断じている。

<朝日の社説と「『ブラック・ジャック』登場人物に憧れ?」>
 ただ、東京新聞だけが見出しに「安楽死」を出した。同紙は事件発生を報じた7月24日付けの紙面で3頁のうち2頁で「安楽死」をトップ見出しに使っていた。しかし、社説では「過去の事件と比べ特異な要素が多く、安楽死議論との直結には無理がある」と述べている。各紙は社説のトーンに苦労したようだ。もっと気になったのは、朝日新聞の紙面だ。社説掲載の前日にあたる27日付け朝日新聞夕刊の社会面トップ記事である。メインタイトルは「医師『安楽死』何度も投稿」。サブタイトルは「『ブラック・ジャック』登場人物に憧れ?」である。今回の嘱託殺人のヒントは、あたかも手塚治虫の有名な漫画から得たと思わせる書き方になっている。容疑者の一人は、患者の「安楽死」を金で請け負う漫画の登場人物「ドクター・キリコ」へのあこがれをツイッターに投稿したという。キリコは「ブラック・ジャック」に登場する医師だ。容疑者は「『日々生きていることすら苦痛だ』という方には、横浜地裁の要件はそれとして、一服盛るなり注射一発してあげて、楽になってもらったらいい」、「違和感のない病死を演出できれば、完全犯罪だ」と書き込んでいた。あまりにも常軌を逸した発言と言葉遣いに唖然とする。

 容疑者がこのような書き込みをしていたことが事実だとしても、影響力のある大新聞がそれを大きく載せるとは如何なものか。「ついに、こんな時代になってしまったのだ」とクールに受け止める読者もいた。が、しかし、事実だからと言って、リビングに置かれる新聞の夕刊の社会面に大きく載せて良い記事なのだろうか。小・中学生や高校生が目にし、読むかもしれない。朝日は社説で医師である容疑者二人の行為を「医の倫理に背く」と指弾しているが、この社会面の記事は社説の主張と矛盾する。施設ホスピスや在宅ホスピスなど緩和ケアの現場で働いてきた山崎章郎医師は「医の倫理に背くどころか、人としての道を外れている」と朝日の社説に違和感を持ったという。

<殺人事件を「安楽死」と同等あるいは類似のことのように>
 「安楽死」の扱い方は難しい。24日の毎日はそれを簡潔に書いていた。安楽死は、薬物などで患者を死なせ、尊厳死は終末期に延命治療をしないこと。我が国では法律による定めはないが、医師が末期がん患者に薬剤を注射して死亡させた東海大事件(1991年)で、横浜地裁は安楽死を認める要件を示した。すなわち、①耐え難い肉体的苦痛がある、②死が避けられず死期が迫っている、③肉体的苦痛を取り除く代替の手段がない、④生命の短縮を承諾する患者の患者の意思表示がある――の4つである。今度の事件の容疑者が書き込んだとされる「横浜地裁の要件はそれとして、一服盛るなり注射一発してあげて、楽になってもらったらいい」の「横浜地裁の要件」は、これである。
今回の事件では、なくなった患者は4つの要件を満たしていたのだろうか?  ①についていえば、耐え難い肉体的苦痛があったというより、むしろ精神的、社会的な苦痛に苛まれていた。②と③は議論の余地があったはずである。ところが、新聞は「安楽死 SNSで思惑一致」(東京)、「安楽死の望み」(朝日)、「医師『安楽死が必要』投稿」(読売)といった具合に、殺人事件を「安楽死」と同等あるいは類似のことのように扱っている。このような報道が広がることを憂慮してか、日本緩和医療学会はいち早く木澤義之理事長名で声明を出した。逮捕された医師2人は同学会の会員ではないと断ったうえで、「いわゆる積極的安楽死や自殺幇助が緩和ケアの一環として行なわれることは決してありません」。「積極的安楽死」とは、患者の命を終わらせる目的で「何かをすること」である。
医療と情報の技術や手段が急速に発達し、生活の隅々まで行き渡ったところに一部の不心得な医師が関わり、起こるべくして事件が起きた。在宅医療の現場や地域での終末期ケアを担ってきたベテラン医師の一人は語る。「毎年、約1万人の医者が誕生する時代だ。変人、奇人もいるだろう」と。しかし、市民の多くは、他の職業ではありうるとしても医師だけは、そうあって欲しくないと望んでいるはずだ。最大の問題は、社会規範が破綻に瀕している現実を、メディアがどのように咀嚼し、一般社会にどのような形で発信すべきか、ということである。

<報道の社会的責任とは何かについて問う>
ALS当事者団体に属する一人はSNSにこう書きこんだ。「SNSのみのやりとりで、初めて会う患者に多額の謝金をもらい(死に至る薬物を)投与したこの事件は、ただの殺人事件」だと。産経が「生命軽視の明確な犯罪だ」と断じた嘱託殺人事件の手口を詳細に報道することは、一部の専門家の参考になろうが、一般市民にとってどんな利益があるのか気になる。報道の社会的責任とは何かについて改めて考えざるを得ない。
世界保健機関(WHO)の自殺対策に関するガイドライン「メディア関係者に向けた自殺対策推進のための手引き」(2017年版)は、「やってはいけないこと」を例示している。たとえば、
・自殺の報道記事を目立つように配置しないこと
・自殺を前向きな問題解決策の一つであるかのように紹介しないこと
・自殺に用いた手段について明確に表現しないこと
・センセーショナルな見出しをつかわないことーーなどだ。
 いうまでもなく、自殺と安楽死を混同すべきではない。とはいえ、今回のALS嘱託殺人事件に関する新聞報道を振り返ると、「やってはいけない」ことが少なからずあったように思えてならないのである。 

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新コラム【私のメディア・リテラシー】 第5回 どう生まれ変わるのか、私たちの暮しを左右する新型コロナウイルス対策会議 尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第5回 どう生まれ変わるのか、私たちの暮しを左右する新型コロナウイルス対策会議 2020-6-27  


後期高齢者の一人である私にとって唯一と言える趣味はメディアリテラシーの実践です。言ってみれば、最寄りの図書館に赴き、その日の新聞を読み比べることです。
6月25日の各紙朝刊は、新型コロナウイルス対策に関する専門家会議の廃止を報道していました。
最も大きく紙面を割いていたのが、朝日新聞です。
1面の脇トップ(トップ記事に次ぐう重要ニュース)に据え、さらに、3面の半分を超えるスペースを埋めて「政治と科学 問われる距離」という問題提起をしていました。
 1面記事の主見出しは「専門家会議廃止、新組織に」です。政府は、医学的見地から政府に助言を行ってきた専門家会議を廃止し、社会・経済の専門家など幅広い専門家を加えた新たな会議体を立ち上げるというニュースです。「コロナ」担当の西村康稔経済再生大臣によると、専門家会議は「位置づけが不安定」であるから、新たなコロナ対策会議を設置し、「感染防止と社会経済活動の両立を図る」ため、感染症の専門家以外に自治体の関係者や情報発信の専門家らを加え、感染の第2波に備えるという狙いだそうです。

<微妙な立場に追い込まれたかっこうの専門家会議>  


いっぽう、専門家会議は脇田隆字座長ら3人が政府の記者会見と同じ24日、日本記者クラブで会見を行いました。その主旨は概ね以下の通りです。
「(感染症防止)対策の実行は政府が行い、現状分析と評価は専門家会議が政府に提言するという役割分担」のはずだった。ところが、実際は「国の政策を専門家会議が決めているようなイメージ」を国民に与えてしまった、という主張です。
 私は政府の会見には出られなかったものの、専門家会議の会見は日本記者クラブのオンライン中継で全容を知りました。専門家会議の位置づけが曖昧なため、会議メンバーらも「役割以上の期待と疑義」を持たれていることは承知しており、そうした世評に対する反論と反省がにじむ記者会見でした。専門家会議の主要メンバーの思いはオンラインの映像と音声でも、その口調と表情が如実に伝わってきました。感染症の専門家のほかに医療と社会・経済活動など両立を図るための新組織づくりには政府の歩調と合わせてはいるものの、奥歯にものが挟まったような印象を受けました。
 この間の微妙ないきさつは6月26日付けの日経新聞の朝刊が書いていました。
――政府、コロナ新会議設立 方針『逸脱』封じ 権限明確に 廃止の専門家会議とは溝――という記事(政治面)です。

<「感染防止と社会経済の両立」というミッションの行方>   


それによると「5月の連休が明けて政府が緊急事態宣言の解除を急ぐようになると、政府と専門家の考え方に溝が生じ始めた」そうです。事業者や企業の休業や活動を事実上押さえこむ自粛要請が長びくと、経済が委縮するという風評と批判が広がってきたため、政府も地方自治体も政策のウェートを、感染防止よりも経済の延命にシフトせざるを得ないからです。
いち早くコロナ対策に手をつけた杉並区の田中良区長も「ライブハウスのロックコンサートならともかく、静かに音楽を聴くクラシックの演奏会まで規制するのは行き過ぎ」と語っています。
 専門家会議も「感染防止と社会経済の両立」が必要なことは分かってはいるものの、やはり「病気のことは、先ずは専門家に任せて欲しい」というのが本音なのでしょう。記者会見には国の政策が社会経済の“延命”にシフトしても「感染症の専門家は関与すべきだ」とする専門家会議の本音がにじみ出ていました。
そう考えると、25日付けの朝日新聞が専門家会議のあり方について考えるべき点があることを他紙よりも強調したことは意味があります。同じ日の日本経済新聞も社会面で専門家の助言のあり方に課題がある、と指摘していました。
 新たにできる組織のミッションは二つ。
一つは、感染の第2波への備え。もう一つは感染拡大を押さえつつ経済活動を再開することです。ブレーキを踏みながらエンジンをふかすという矛盾した政策をどう作って、実施するのか。
7月には新組織は発足するようですが、私たち一般市民の暮しに直接かかわる問題だけに、新聞やテレビなどメデアはこれから動向を的確に報じてほしいと思います。

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新コラム【私のメディア・リテラシー】 第4回 政府が無能なのに、コロナ対策が成功したわけ 尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第4回 政府が無能なのに、コロナ対策が成功したわけ2020-6-1 

新聞を開くと、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の生真面目な記事が多いが、緩い話も載っている。たとえば、5月30日づけの朝日新聞土曜版のコラム「日本人は勝手にやってきた」。政府が無能だからこそ、ほかの国に比べてCOVID-19の感染者と死亡者を少なく抑えることができている、という。
安倍総理は「日本ならではのやり方で、わずか1カ月半でCOVID-19の流行をほぼ収束させることができた」と自負し、「すべての国民のご協力、ここまで根気よく辛抱して下さったみなさまに心より感謝申し上げます」と述べた。これを受けて「日本人は勝手に……」は、「コロナ対策がなぜか、うまくいっている」のは「(政府が)無能なのに、じゃなくて、無能だからこそ、うまくいっている」と手厳しい。専門家会議の議論を尊重してきた政府が無能かどうかはともかく、国民の多くは政府が提示した施策に納得がいけば罰則なしでも従い、施策の効果を上げ、結果的に公共善に貢献した。このコラムの筆者は小説家の保坂和志氏。表現は過激とはいえ多くの文学賞を取っている作家らしい指摘である。
“異邦人”も似たような日本人観を持っているという。ラグビー日本代表のエディ・ジョーンズ前ヘッドコーチは「日本人は上に言われるから規則に従うのではなく、もともと日本人には規則に対する強い敬意がある」と。ここで言う「規則」とは「ものの道理」のことだろう。日本人がほんとうに遵法精神に富んでいるかどうかはさておき、「三密」禁止とかソーシャル・ディスタンスの保持といった常識的に納得できる「要請」なら遵守する賢さを備えているようだ。これが話題の「ファクターX」の一つかもしれない。

「ファクターX」を探せ!

「ファクターX」とは、iPS細胞を作製してノーベル賞を受けた山中伸弥氏(京都大学iPS細胞研究所・所長)が自身のサイトで問題提起した考え方である。山中氏はこう述べる。「新型ウイルスへの対策としては、徹底的な検査に基づく感染者の同定と隔離、そして社会全体の活動縮小の2つがあります。日本は両方の対策とも、他の国に比べると、緩やかでした。PCR検査数は少なく、中国や韓国のようにスマートフォンのGPS機能を用いた感染者の監視を行うこともなく、さらには社会全体の活動自粛も、ロックダウンを行った欧米諸国より、緩やかでした。しかし、感染者や死亡者の数は、欧米より少なくて済んでいます。何故でしょうか?? 私は何か理由があるはずと考えており、それをファクターXと呼んでいます」
山中氏があげるファクターXの候補は7つ。①感染拡大の徹底的なクラスター対応の効果、②マスク着用や毎日の入浴など高い衛生意識、③ハグや握手、大声の会話などが少ない生活文化、④日本人の遺伝的要因、⑤BCGなど、何らかの公衆衛生政策の影響、⑥2020年1月までの何らかのウイルス感染の影響、⑦ウイルスの遺伝子変異の影響――である。

 
日本固有の「恥の文化」が感染拡大を押さえた?

この問題提起は、瞬く間にメディアに拡散した。たとえば、6月4日号の『週刊新潮』は、「手洗い・マスク文化」「BCG」だけではなかった“重大要素”とか、「重症化回避の遺伝子を探せ」慶大・京大研究班が「ゲノム解析」とかいった記事を載せている。山中氏の「候補」には入っていないが、「日本人は勝手にやってきた」は8番目のファクターX候補かもしれない。5月31日の日本経済新聞のコラム「春秋」はルース・ベネディクトの『菊と刀』にかこつけて書いた。日本固有の「恥の文化」が影響しているという見立てである。
COVID-19の正体は、日本上陸当初に比べればおぼろげに見えてきたとはいえ、治療薬はもとよりワクチンの開発もハッキリした見通しが立っていない。したがって「ウィズコロナ」とか「アフターコロナ」とかいうウイルスと共生するための議論は百家争鳴。それだけに「ファクターXを明らかにできれば、今後の対策戦略に活かすことができるはず」(山中氏)だ。「日本人は放っておけば、勝手に努力して、勝手にあれこれ工夫する。そういう人たちのあつまり」(保坂氏)だ。リーダーシップの不在が叫ばれて久しいが、中国の一党独裁や韓国のIT監視網による電脳独裁などに比べれば、「ものの道理」を弁えた国民が「勝手にやって」くれるようなレッセフェール(自由放任)体制の方がましなのかもしれない。

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新コラム【私のメディア・リテラシー】 第3回 「新型コロナ」の前と後 世界はどう変わるだろうか 尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第3回「新型コロナ」の前と後 世界はどう変わるだろうか 2020-4-23
世界的ベストセラー、「サピエンス全史」の著者であるイスラエルの歴史学者、ハラリ氏によれば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、いまこそ人類史の転換期だと言う。
かつて日本人が歴史の節目に立たされた日があった。1945年8月15日である。それまでの「国のかたち」が全否定された日だ。私が「転換期」を実感したのは、2001年。世界を震撼させた「9.11.同時多発テロ」の当日、ニューヨークにいた。炎上するツインタワービルが崩落する姿を目の当たりにした。その歴史的瞬間にアラブ系らしき市民が悲鳴のような叫びをあげていた光景を忘れない。

神が人間の傲慢さに怒り「新型コロナ」を地球にばら撒く?
「世界は変わった」と直感したのはこのときである。新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、それ以来の衝撃である。米国のジョンズ・ホプキンス大学によると、2020年4月22日現在、新型コロナウイルスの感染者は世界全体で261万人を超え、死者数は18万人に達した。圧倒的な感染の広がりとスピード、地球経済と国際政治に及ぼす深刻なインパクトは9.11.テロやリーマンショックとは桁違いに大きい。大袈裟に表現すれば、人類は、これまで営々として築いてきた文明の袋小路にはまっているのである。地球環境問題、先進諸国の出生率低下、貧困格差の拡大……をもたらした科学至上主義、合理主義的な経済システムや民主主義の限界は、人間という種が獲得してきた成果の意味を根本から問い直している。現在の惨禍は、わが物顔に地球を支配してきた人間の傲慢さが招いたのではないか。
人間の傲慢さを突いた物語は「ヨブ記」だ。「旧約聖書中もっとも注目すべき、重要なものの一つで、文学作品としても世界文学の最高峰のうちに数えられる」(文庫版解説)とされる古典である。 
神を畏れ敬うことこのうえなく深く、道徳的にも信仰においても非のうちどころのない暮らしを続けてきたと自負するヨブに、神は次々と過酷な試練をくだす。サタンを地上に遣わし、10人の子どもと莫大な財産をことごとく奪い、「足の裏から頭の天辺まで悪い腫物」に覆われる悪疫に感染させる。ヨブは、神の非情に抗議するが、神は創造主に人間が逆らうこと自体けしからぬとはねつける。神は「自分を中心に創造の世界を見、自分を創造者と対置した」ヨブの傲慢さを厳しく指弾した。「すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し ひとり残らず塵に葬り去り 顔を包んで墓穴に置く」(新共同訳)と。この物語の主人公、ヨブは現在の人類の姿そのものではないか

『智慧』の伝統を発展的に継承して深く思索する
人類はあたかも全知全能の神のように地球に君臨してきた。地球の資源や生態系を思うままに収奪し、破壊することによって豊かで便利な暮らしを謳歌してきた。あまつさえ遺伝子操作にまで踏み込んで神の領域を侵しつつある。ここにいたって、偉大で慈愛に満ちた神もさすがに堪忍袋の緒が切れ、サタンを地上に遣わし、新型コロナウイルスを地球上にばら撒いたのではないか。旧約聖書に拠って建つイスラエル生まれの歴史学者、ハラリ氏は3月31日付けの日本経済新聞に論文「コロナ後の世界へ警告」を投稿し、冒頭にこう書いた。
「人類はいま、世界的な危機に直面している。おそらく私たちの世代で最大の危機だ。私たちや各国政府が今後数週間でどんな判断を下すかが、これから数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化をも変えていくことになるということだ。新型コロナの嵐はやがて去り、私たちの大部分もなお生きているだろう。だが、これまでとは違う世界に暮らすことになる」。
人類は、ITやAIを駆使したデジタルイノベーションやデジタル・トランスフォーメーションを駆使して世界の再生を試みるだろう。それで人類は存続するだろうか。「ヨブ記」の著者は「当時の最高の知識人であっただけでなく、人生の苦難に打ちひしがれたつらい経験を持ち、しかも正しく『智慧』の伝統を発展的に継承して深く思索した人であった」(岩波文庫版解説)。だとすれば、「『智慧』の伝統を発展的に継承」し、「深く思索」することなしには、人類は「新型コロナ」よりも手ごわいウイルスの脅威に繰り返しさらされる。なき人類に未来はない。

現代のヨブ、人類は己の傲慢さに気づくか
21世紀における『智慧』とはなんだろう。
諸外国では、ウイルス感染を防ぐため罰則付きの外出規制を実施し、それなりの効果をあげている。これを我が国でも踏襲すべきか否かについて議論が分かれているが、iPS細胞の作製によりノーベル生理学・医学賞を受けた山中伸弥氏はこう語る。
「普段、私たちは気付かないうちに社会システムに守られ、研究や移動などの自由を謳歌している。今のような公衆衛生上の危機に直面した場合には、いっとき自由な行動を我慢してでも社会を守らないといけない。中国の武漢やイタリア、スペインのような状況では、罰則を伴う強硬措置もやむを得ない。そうならないために一人ひとりが自らの行動を変える必要がある」(4月20付け日本経済新聞のインタビュー)。
科学史家の村上陽一郎氏は、「一部の権威ある人々がすべてを決定した時代と異なり、今は社会にとって何が合理的なのかを最終的に判断するのは市民だ」(4月11日付け・日経)と明言し、「個人の良識や常識、健全な思考に私たちの未来はかかっていると再認識すべきだ。自然の謎や『わからないこと』と真摯に向き合い、問い続ける。その継続によって良識は養われる」(同)と指摘した。「コロナ」後の世界では、市民的な良識の創造が不可欠なのだ。
自らの傲慢さに気づいて悔い改めたヨブは、財産が倍返しに増え、病気は完治し、140歳の長寿を全うした。「ヨブ記」は2500年前の物語だが、21世紀もの人類は自らの傲慢さに気づき、行動変容をするかどうか。

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新コラム【私のメディア・リテラシー】 第2回「民主主義は不可能」か?  尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第2回「民主主義は不可能」か? 2020-4-4 
 土曜日の朝。珈琲カップを手にテレビのニュースショーを眺めていた。
 口は悪いが、世間をよく知るヘルスケア事業者の某氏に言わせると、テレビのニュースショー出演者には「テレビ芸者」が目につくという。確かに新型コロナウイルス感染症を扱うテレビ番組を見ながら、「今日はあの教授は服を変えてきた」とか「あの先生は開業医のはず。自分の患者はいつ診るのか」といった勝手な感想を抱く。

 問題はテレビショーの中身だ。テレビならではの切り口もあって教えられることも少なくないけれども、きがかりな点もある。新聞記事を映像化して識者が解説し、コメンテーターが好き勝手な言葉をはさむのが基本パターンだ。一般市民は新聞やネットをじっくり読み込んで自分なりの意見を考える手間が省くことができて、便利ではある。だが、自分自身の頭で情報の真偽を考えたり、モノゴトの評価をしたりせず、それらをテレビに丸投げできる装置でもある。ニュースショーは世論形成のコンビニエンス・ストアではないのだろうか……。
 と思いつつ眼をテレビ画面から新聞に移すと、朝日新聞(4月4日)の朝刊に良い記事を見つけた。社会学者、大澤真幸氏のコラム「古典百名山」だ。森羅万象を扱ってきた古今東西の名著を素人にも分りやすく紹介してくれるユニークなコラム(800字)である。

今回(№76)のテクストは、ケネス・J・アロー著「社会的選択と個人的評価」(長名寛明訳)。
 大澤氏によると 「民主主義に反対する人はほとんどいない」が、「1951年に初版が出た本書は驚くべき内容を持つ、(経済学者である)アローは、民主主義なるものは不可能だ、ということを数学的に証明してみせた(ように見える)のだ。
 ここから先がややこしい話になる。「ひとつの社会的決定を導き出さなくてはならない」とき、「(意見の)集約の仕方が民主的であるためには、少なくとも三つの条件を満たさなくてはならない」そうである。3条件は以下の通り。
 第1は、「全員が一致して、AがBより好ましいと判断しているときには社会的決定でも、その通りになるべきだ」
 第2は、「AとBのどちらかが良いかという決定に、これらとは別の選択肢Cに対する人々の好みが影響を与えてはならない」
 第3は、「独裁者が存在してはならない」
 そのうえでアローは、「3条件を全て満たす、(人々の好みの)集約の仕方は存在しない、ということを証明した。前の二つの条件を前提にすると、必然的に独裁者が出てくる」というのだ。このへんの論理は難解だが、「本書を通過していない、民主主義をめぐるどんな主張も虚しい」と、大澤氏は記す。私には、いま一つわかりにくいけれど、大澤氏がコロナ騒動のさなかに、この本を持ち出した気持ちを察する。いまや日本を除く世界各国では反民主主義とも見える動きが広がっているからだ。

 イタリア、フランスなど欧州大陸諸国やイギリスなど民主主義の本家で通行証の所持を義務付け、罰則つきの外出禁止令を発信するなど私権を制限する都市封鎖が行なわれている。その際、住民や市民の了解を得るための民主主義的な手続きを踏んでいるという報道は伝わってこない。ノーベル賞を受けたアロー先生の数学的証明が合っているのかどうかは、ともかく、有事には「民主主義なるものは不可能だ」という
ことを新型コロナウイルスは事実を持って語らしめている?
 いっぽう、我が国では、安倍総理も小池都知事も、我が国も東京都もコロナ感染によって医療崩壊の「瀬戸際」に立ち、「事実上の非常事態宣言と同じ」状況を認めているにもかかわらず、私権を制限するような措置はしない、できないと頑張っている。すべての措置は「命令」ではなく「要請」というお願いである。法治国家であることがその理由だ。
遅れてきた民主主義の国のリーダーは、いまや民主主義の鑑になった。ただし、その評価は結果で判断される。もし、民主主義を護持によってウイルス感染が終息するか、感染爆発がおきるか、いま現在は誰もわからない。
 
 民主主義は人類史的な意味で鼎の軽重を問われている。人権不在国家の中国ではどうか。真偽のほどはともかく、中国では習近平氏が強権を発し、武漢市を都市封鎖したお蔭で、新型コロナウイルス感染症のオーバーシュートは終息に転じたとされる。独裁は多数の命を救うことによって民主主義の理想を超えたののだろうか。
 いっぽう、世界的なベストセラー「サピエンス全史」を書いた歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、3月31日、日本経済新聞に「コロナ後の世界へ 警告」を投稿した。
 「人類はいま、世界的な危機に直面している(略)。私たちや各国政府が今後数週間でどんな決断を下すかが、これから数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化を変えていくことになるということだ」と。
 そこで、「全体主義的監視か、市民の権利か」、いずれを選ぶかという問題に直面する。
全体主義的監視社会を拒むなら、「市民がもっと自分で判断を下し、より力を発揮できるようにする」ため、「科学や行政、メディアに対する信頼を再構築すること」。それは「今からでも遅くない」。ハラリ氏はそう説いている。

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新コラム【私のメディア・リテラシー】 第1回「新型コロナウイルス感染症報道とメディア・リテラシー」 尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

1942 生まれ。65年早稲田大学卒。日本経済新聞社入社、「日経WOMAN」編集長、編集委員、仙台白百合女子大学教授などを経て、現在は在宅ホスピスを経営する認定NPO法人コミュニティケアリンク東京副理事長など医療・介護福祉団体の経営に関わっている。4月に2040年問題、2060年問題を40歳代以下の世代と考える勉強会「AIDプラス」を立ち上げる。

第1回「新型コロナウイルス感染症報道とメディア・リテラシー」 2020-3-22 
 1929年の10月のことである。ニューヨークの株式市場が大暴落した。それがきっかけで世界大恐慌が勃発し、世界は第二次世界大戦という人類史的な悲劇に巻きまれた。それは、いま生きている人にとっては教科書でしか知らない過去の出来事である。だが、 地球規模で起きた新型コロナウイルス感染症のパンデミックは「オンリー・イエスタデイ」の悪夢をよみがえさせる。
そこで、メディアの功罪を考えてみたい。
テレビ、新聞、インターネットなどのメディアからフェイクニュース、誤報、意図したあるいは意図せざるデマ、ノイズすなわち無視すべき雑情報がばら撒かれ、見えるウイルスとして私たちの暮しを脅かしている。それらを鵜呑みにすれば、パニックになる。情報過剰時代は、下手をすると、取り返しのつかない本当の危機をもたらし、自分が困るだけでなく、他人や社会全体に迷惑をかけ、無辜の人々の命を奪うことにもなりかねない。関東大震災におけるおぞましい「朝鮮人虐殺事件」のように。こうした混乱を暗い目的のために利用しようとする輩は昔も今も、洋の東西を問わず、虎視眈々とチャンスを狙っているのだ。

自らの身を護り、世間や世界が凄惨な愚行を繰り返さないようにするにはどうすべきか?
メディア・リテラシーを身につけることだ。自分自身の責任で世間や世界を認識し、判断すること。それしかない。問題はそれが難しいことである。官・民を問わず、指示を待って動くという「指示待ち人間」の習性に浸ってきたからである。責任ある立場の人たちでさえ結果責任を負おうとしないからでもある。
やっと、その殻を破る人物が登場した。北海道の鈴木直道知事である。彼は2月28日、「緊急事態宣言」を出し、週末の外出自粛や休校などを道民に求めた。
そのニュースが全国に流れたあと、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議は3月19日、現状を「爆発的な感染拡大の可能性がある」と発表した。その記者会見で北海道の「非常事態宣言」について「一定の効果があった」(尾身茂副座長)と評価した。
国会が緊急事態宣言の発令を可能にする改正新型インフルエンザ対策特別措置法を可決したのは3月13日。鈴木知事の決断はそれに2週間も先立つ英断だった。
大阪府の吉村洋文知事は19日、大阪府と兵庫県との往来を20日〜22日の3連休中は自粛するよう府民に求めた。それと呼応する格好で、兵庫県の井戸敏三知事も同日の記者会見で、大阪など他の地域との間で不要不急の往来を自粛するよう県民に求めた。
国の特別措置法の発令を待たず首長が為すべきことを判断し、権限を行使したである。北海道知事の判断を見習った行動変容である。ところが、吉村、井戸知事の決断について、20日のテレビ朝日の「羽鳥モーニングショー」は両知事の事前打ち合わせがなかったことを批判した。22日付け朝日新聞も「法の枠外で住民に大きな制約を課すことになりかねない判断」だ、と指摘した。それは、一つの見解ではある。

ただ、今は平常時ではない。首長には非常時ならでは行動変容があってもいい。

それはコトの本質を見落とす枝葉末節の議論ではないか。両知事の決断は、地方分権の本質を自覚した首長としての責任行使であり、評価こそすれ、批判すべきことではないだろう。我が国は中国のような一党独裁の中央集権国家ではないからである。鈴木、吉村の両知事は38歳と44歳。若い地方政治家が中央と地方の行政のありかたを目に見える形で示してくれた意義は大きい。一般市民は会社や家族の日常に追われ、膨大な社会情報を綿密に分析して付きあう余裕はない。従って新聞などが、一般市民に代わって情報を選んで咀嚼し、適切な判断を行うための材料を提供することを行う――アメリカのジャーナリスト、W・リップマンは名著『幻の公衆』(1925年)でそのように指摘した。

昨今、インターネット・メディアのプラス面を手放しで持ち上げる傾向がある。それを危惧するのはわたしのような旧い世代だけだろうか。
今度のような有事にこそ、従来のメディアは改めて適切な報道と解説に努めることが求められている。誤報、ノイズ(雑音的なジャンク情報)や情動に訴えるフェイク・ニュースなどがゴチャマゼになった押し寄せる情報環境において、一般市民に代わって情報の質の見分け方を市民に提供すること。それがあるべきメディアの果たすべき役割である。
むろん、情報の受け手である市民も確かなメディアを選択する分別・見識すなわちメデア・リテラシーを身に着けるべきだ。そのための情報と解説(モノの見方)の提供すること。それこそ確かなメディアの使命ではないか。日々、垂れ流されている玉石混淆の膨大な情報のなかからコトの本質を見分けるためのヒントをもたらす言説を拾い出し、自分なりに世間と世界の真実を読み解いていきたい。

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【市民の眼】 Vol.50 報道されない「フクシマ」見聞記

【市民の眼】   尾崎 雄 Ozaki Takeshi (老・病・死を考える会世話人)

1942 生まれ。65年早稲田大学卒業、日本経済新聞社入社。札幌支社報道課、流通経済部、婦人家庭部次長、企画調査部次長、「日経WOMAN」編集長、婦人家庭部編集委員などを経て、日経事業出版社取締役編集統括。高齢社会、地域福祉、終末ケア、NPONGO関連分野を担当。現在、フリージャーナリスト・仙台白百合女子大学総合福祉学科教授・AID(老・病・死を考える会)世話人・東京大学医療政策人材養成講座2期生。著書に「人間らしく死にたい」(日本経済新聞社)、「介護保険に賭ける男たち」(日経事業出版社)ほかがある。市民の眼医療福祉の断面やエピソードなどについて医療職ではなく一市民として気づいたことが書かれています。 >>>バックナンバー (VOL.1-47) 

Vol.50 報道されない「フクシマ」見聞記

<一泊二日で原発被災地を歩いて、感じたこと>2013-6-12

 6月6日から2日間、福島県を訪れ、原発事故被災地を歩いて被災住民の声をお聴きしてきました。わずか2日の見聞で、あれほど巨大かつ複雑で微妙な事件の全貌が分かるはずはない。それを承知の上で、地元NPOに案内を乞い、福島原発周辺の地震・津波被災地を放射線による立ち入り禁止ゲートまで行き、全国紙やTVでは分かりにくい、現状や地元の人々の本音に触れてきました。

1日目は、いわき市からスタート。原発バブルで地価が高騰し、被災民の移住などで人口が増えるなどにより住宅難になった市中心部から仮設住宅街へ。

いわき市のニュータウンにある仮設住宅は、昨年見てきた宮城県の東北最大の仮設団地(石巻市・開成地区)などに比べると環境に恵まれ、住み心地は良さそうだった。

少なくとも建物は石巻市のようなバラックだけでなく普通の住宅に近いもの少なくなかった。津波に襲われた海岸に近い地域に到ると「空気」は一変する。

放射線警戒地域、規制のため原発のトンネルや建屋を遠望するところまでしか行けなかったものの、被災住民からは、地震・津波の体験と原発爆発の音と振動、そして混乱した避難のようすを聴くことができた。当然とはいえ、夜間立ち入り禁止の富岡町での見聞は強烈だった。

居住禁止区域に走っているのは、巡回警備のパトカーや東電の原発事故関係車両のみ。開いている店舗は作業員相手の弁当や食事を売る店だけだとか。

原発から遠い小名浜周辺までは、津波によって壊滅した市街地は瓦礫は片づけられつつあったが、事故原発に近い地域の市街地は、破壊された住居や商店などの無残な姿が当時のままの姿を到るところに曝していた。津波で流された自動車が室内に突っ込んだままの廃屋も。線量が高いため、解体も瓦礫処理もできず、201131447分のまま時間がストップしているのだ。

白い防護服を着て雑草除去をしていた作業員が携帯する線量計の表示は0.38~0.43μシーベルト。カメラを向けると「会社名がわかるから」と拒否された。旧財閥系企業だった。同行した朝日新聞OBは「ひとも住んでいない廃墟の草刈りとは」と疑問を漏らす。

その夜、現地案内をお願いしたNPOの幹部と懇談したとき、「除染は無意味では?

単なる公共事業(予算消化の意)」と質問すると、それを否定せず「除染ではなくて、『移染』です」と本音を漏らした。翌朝の福島民友の読者投稿欄に、ほぼ同じ意見(61歳・無職)が掲載されていた。こうした見方は現地では常識になっているのだろう。

――原発事故二年余も経過しての除染など、もはや除染ではない。この間飛散した汚染物質もあろうし、あるいは深く沈潜しての除染では、どうにもならないものもある。

(除染の実態は)放射性物質の撹拌と散乱、すなわち「移染」にほかならない。あるところを洗浄しても汚染は近隣に永遠に移動し続けるだけなのだ……「除染」は税金による公共事業として実施されいるはずだが、効果はあるのか?

行政は「対策を実施した」というアリバイ作りに行っているのではないのだろうか。そんなことを連れと囁き合いながら、次の現場にむかった。

「フクシマ」訪問のきっかけは、ある勉強会で現地NPOによる「風化するフクシマ」報告を聴いたこと。「風化」の様子を自分自身の目と耳と肌で知りたくなり、朝日新聞の政治部と整理部のOBを誘って現地を訪問したのである。行ってみると、風化というより、むしろ事態は悪化ないし、複雑化し、問題の本質が露わに見えてきたと言ってよさそうである。

ひと言で表現すればニッポン全体の縮図が「フクシマ」の形を借りて露呈しつつある。その過酷な現実は、放射線によって故郷を追われ、「ディアスポラ」(放浪の民)になって復興に取り組む方々の話を現地で直接に聴かねば分からない。

親戚も親しい友人も福島県に持たない私にとって「フクシマ」はやはり風化していた。それを指摘する報道はあまりなかったようだ。あるいは、見ても見えなかったのかもしれない。

「フクシマ」から帰った翌日の11日付け読売新聞の現地レポート(福元理央記者)を載せていたが、それは私が見て聴いて来た「フクシマ」の実感を代弁する。

<希望、失望 二つの心模様 除染作業に汗 高線量で帰還諦め>

記事の結語は大熊町の町長談話である。「町に戻れる環境を全力で取り戻すことが、町の使命だ。だが、町民のニーズは多様化している。町に戻る人、戻らない人、どちらの選択も尊重して希望に応えられるようにしたい」

だが、希望派と失望派に分断された町民全員が納得できる復興計画をほんとうに作れるのか? それは、国と県と自治体における政治の問題であり、煎じ詰めれば、国民と現地住民をひっくるめて democratic innovation が問われているということなのである。

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医療改革と「男と女」の構図、土佐の国を訪ねて

市民の眼   尾崎 雄 Ozaki Takeshi (老・病・死を考える会世話人)

1942 生まれ。65年早稲田大学卒業、日本経済新聞社入社。札幌支社報道課、流通経済部、婦人家庭部次長、企画調査部次長、「日経WOMAN」編集長、婦人家庭 部編集委員などを経て、日経事業出版社取締役編集統括。高齢社会、地域福祉、終末ケア、NPO・NGO関連分野を担当。現在、フリージャーナリスト・仙台 白百合女子大学総合福祉学科教授・AID(老・病・死を考える会)世話人・東京大学医療政策人材養成講座2期生。著書に「人間らしく死にたい」(日本経済 新聞社)、「介護保険に賭ける男たち」(日経事業出版社)ほかがある。 市民の眼 医療福祉の断面やエピソードなどについて 医療職ではなく一市民として気づいたことが書かれています。 >>>バックナンバー


vol.49  医療改革と「男と女」の構図、土佐の国を訪ねて 2009-3-9 

 

ラーラーラ、ダバダバダ、ラーラーラ、ダバダバダ……フランシス・レイのテーマ音楽で知られたクロード・ルルーシュ監督の「男と女」。つれあいを失った子持ちの男と同じ境遇の女がたまたま出逢って離れがたくなる、このフランス映画は何度見ても飽きない。ジャン=ルイ・トランティニヤンとアヌーク・エイメが演じる「お父さんとお母さん」が、やがて、「ひとりの男とひとりの女」に変わっていく、ありそうでなさそうな、なさそうでありそうな人生のエピソードを描いているからだ。

医療における男と女を語るに当たって、旧いフランス映画を持ち出したのは、ほかでもない。先日、土佐の高知を訪ねたからである。彼の地では男と女の構図は「いごっそう」と「はちきん」。頑固者の土佐男にしっかり者の土佐女という組み合わせだ。たった3日間の高知滞在とはいえ病院と訪問看護ステーションで働く看護師・訪問看護師や医療NPOを動かす女性代表およびバーや居酒屋で男客をもてなす女性たち会って「はちきん」の意味がよくわかり、土佐の女性たちにすっかり魅了されてしまった。

むろん、土佐の国でも建前社会の仕組みや制度を動かすのは依然として男であることに変わりない。封建遺制が色濃く残る医療界ではその傾向が顕著である。とりわけ旧い土地柄の高知では「男を動かす術を熟知した女性に一肌脱いでもらって、男である医師たちを動かさねばならない」そうだ。ほんとうにそうなのか? とりあえず羽田空港を発ち、高地龍馬空港から

高知市

内へ。

真っ先に訪ねたのはがん患者支援団体の事務所とK病院の地域医療連携室である。患者支援のNPO法人代表を務める年配の女性は、愛娘が不治の癌を患ったと知った翌日に自分が経営する化粧品店を畳んで癌治療法を探し始めた。それがきっかけで高知県の癌患者支援活動に奔走し、高知県がん対策推進協議会の設立を促し患者・家族を委員として協議会委員参加を実現した。

次に訪ねたのは民間病院の地域医療連携室。ここの室長・看護師長は日本看護協会の緩和ケア認定看護師。NPO法人高知緩和ケア協会の事務局長である。同協会は高知県内の緩和ケアネットワークのコーディネートを担当し、事務局長の彼女がその仕事を一手に切り盛りしている。彼女が仕切る在宅医療カンファレンスを見学させて頂いたが、医師や看護師から報告を促し、的確な指示をよどみなく下していく采配ぶりは見事だった。

病院内で、まして地域医療の最前線である在宅医療の現場では看護師なしでは医師は手も足も出ない。有能な医師ほど地域医療の真の担い手は看護師であることを熟知している。別の民間病院の訪問看護ステーションを訪ねると、管理者の訪問看護師は、突然の訪問者にもあわてず騒がず、日常業務をテキパキこなしながら資料を示して高知県の訪問看護の課題とステーション経営の問題点および今後の方向性について歯切れよく語ってくれた。

「だから、医師たちを動かす力を備えた看護師に医療改革活動の要を引き受けてもらったのです」。

高知市

内で営業する訪問薬局の経営者が、そう語る意味を現地で実感した。高知県庁も訪ねたが、担当者もその辺の呼吸は心得ているようだった。土佐の男は果報者である。

男勝りではないものの、ものごとの本質を見抜き、社会や組織の表向きは男手に任せ、男衆を立てながら内実を仕切る。そんな意味でのしっかり者である土佐の女性たち。すなわち山内一豊の妻のようなタイプの女性医療職こそ、日本の医療改革を推進する影の立役者だと期待したい。

高知県は平成22年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」放映に合わせて「土佐・龍馬であい博」を開催する。封建日本に近代の曙をもたらした立役者の一人、坂本龍馬を育てたのは土佐の女たちだった。「はちきん」とは土佐弁で一人で四人の男を手玉に取る女性をさすという。

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「看護婦」から「看護師」に向けて 大分県立看護科学大・大学院が日本初のNP養成コース

市民の眼   尾崎 雄 Ozaki Takeshi (老・病・死を考える会世話人)

1942 生まれ。65年早稲田大学卒業、日本経済新聞社入社。札幌支社報道課、流通経済部、婦人家庭部次長、企画調査部次長、「日経WOMAN」編集長、婦人家庭 部編集委員などを経て、日経事業出版社取締役編集統括。高齢社会、地域福祉、終末ケア、NPO・NGO関連分野を担当。現在、フリージャーナリスト・仙台 白百合女子大学総合福祉学科教授・AID(老・病・死を考える会)世話人・東京大学医療政策人材養成講座2期生。著書に「人間らしく死にたい」(日本経済 新聞社)、「介護保険に賭ける男たち」(日経事業出版社)ほかがある。 市民の眼 医療福祉の断面やエピソードなどについて 医療職ではなく一市民として気づいたことが書かれています。 >>>バックナンバー

vol.48 「看護婦」から「看護師」に向けて 2008-7-5 

 <国内初のナースプラクショナー養成コースに女性2人と男性1人が入学> 

   いずれ日本でも、医者に代わって高齢者や子供たちの診断と治療に携わる看護師が活躍する時代が来るかもしれない――大分県立看護科学大学は、今年4月、日本で初めて、大学院の修士課程にナースプラクショナー(NP)養成コースを設けた。医師のイコールパートナーとして少子高齢化時代に「医療再生」の一端を担う人材を送り出すための最初の一歩である。

 

大分看護科学大・大学院修士課程のNP養成コースは実践者養成コース(定員10人)に含まれる。同コースの院生は「老人NP」と「小児NP」のどちらかを専攻し、「看護アセスメント能力」、「看護実践能力」、「診察の実践能力」など7つの能力を身につける。第1期生は30代と40歳代の看護師3人。男性1人は4年生看護大卒。女性2人は看護学校卒で、1人は老健施設、もう1人は訪問看護ステーションに勤務していた。入学の主な動機は「医師に近い判断ができる能力」をつけることだと甲斐倫明同大学院教授は語る。同大学は民間病院と連携して大分県内に医療特区を申請、主として高齢者・在宅患者・小児を対象としたNPによる地域医療の実践を行ない、NPコース修了者の受け皿とする。

<看護モデルと医学モデルを組み合わせたケアを個人営業できる>

草間朋子学長が雑誌『病院』(医学書院)4月号に寄せた「アメリカにおけるナースプラクショナー制度と日本への導入の可能性」によると、NPとは「医療・保健サービス必要とする人々にプライマリケアを提供する専門看護師(Advance Practice Nurse=APN)」のこと。「医師と連携を図りながら、様々な主訴を持った患者を医師から独立して観察・診察し、必要な検査を実施し、薬物の処方を含めた治療」に当たる。処方する医薬品にはむろん麻薬も含まれる。日本の看護師といちばん違う点は、個人でクリニックを開業でき、診療報酬の支払いを受けることができることだ。

医師より優れている点は「看護モデルと医学モデルを組み合わせて」ケアにあたり、「全人的(holistic)な視点から患者および家族と関わりを持ちながらケアにあたる」ことである。アメリカでは14万人ものNPが「医療・保健システムを支え」ており、患者の在院日数短縮、副作用の回避、医療訴訟の減少などに貢献しているという。

<看護大学院の生き残り外科医が呼応して>

大分看護科学大のNP養成実施の狙いは看護大学の乱立時代に生き残るため。全国の看護系大学は158校(2007年度)もあり、うち99校が大学院の修士課程を備えているのだが、教育課程が研究者・教育者の養成に偏り、過当競争も手伝って定員割れが目立つ。社会に直接役立つ実践者養成の場になっていないからだ。「論文は書けても患者をきちんと診ることができない医学博士を育てるようなもの」という指摘もある。そこで、3年前からNP養成コース開設の準備を重ね、大学院改革のメダマの一つとした。

これに呼応するかのように動き出したのが日本外科学会と日本胸部外科学会だ。その第一弾が福岡で開く第61回日本胸部外科学会定期学術集会(10月13日~15日)の特別企画「上質な分業の拡がりは医療崩壊を防げるか」である。チーム医療のあり方を専門職の分業と協業の視点から再検討。医師のオーバーロードを緩和して外科医志望者を掘り起こし、医療再生の突破口の一つとしようとする試みだ。参加パネリストは草間学長、広瀬前日本看護協会常任理事、石川典子厚生労働省医事課課長補佐や医療再生に取り組む外科医ら。エール大学・大学院で資格を取り、アメリカでNPとして活躍中の緒方さやかエール大学大学院講師の招請も検討中だ。司会は日本外科学会理事・日本胸部外科学会理事長の田林こう(日+光)一東北大教授と前原正明防衛医大教授が勤める。

<背景にアメリカの1960年代と似た日本の医療事情も>

草間学長によると、「NP」浮上の背景には1960年代のアメリカ医療事情と似た現在の日本のそれがある。

「医師たちの専門分野への志向が高まり、医師、特に小児科医およびプライマリケアを担当する医師が不足し、都市部の貧困層や遠隔地域でのプライマリケアが不十分な状態であった。さらにGDPに占める保健医療費の高騰が社会問題となっており、また看護師自身の、自律を目指す動きが活発化してことも大きな原動力となり、1965年にコロラド州コロラド大学で、最初のNP養成の試験的なプログラムが開始された」(前掲誌313頁)。

厚生労働省は昨年12月28日、医政局長通知「医師及び医療関係職と事務職員等での役割分担の推進について」を出し、「自ら適切に判断することができる看護師の養成」を提言した。それを受ける形で今年6月18日に取りまとめた「安心と希望の医療確保ビジョン」は、「一定の医療資源」の中で「質の高い医療サービス」を維持していくためには「単に医師数を増やすのみで課題が解決するものではなく、医療従事者のみならず、患者・家族等国民がみんなで医療を支えていく姿勢」が必要だと医療政策の方向を示した。

これは、明治時代から続いてきた医師を頂点とするピラミッド型医療社会を見直し、医療専門職の分業と協業の形を再構築することに通じる。「医師不足」を楯に医師の増員要求を叫ぶことに終始する視野狭窄的な発想を改め、自立と自律に基づく医療専門職同士のコラボレーションを実現することこそ医療再生への道だ。それは薬剤師ら他の医療専門職と医師の関係にも当てはまるのだが、「NP」は医療改革を実現するためのキイワードの一つなのである。

<現状のままでは優秀な看護人材の頭脳流出も>

医師による厚労科研「新しいチーム医療体制確立のためのメディカルスタッフの現状と連携に関する包括的調査研究」は既にスタート。米国のNP事情を視察してきた医師の一人は次のように指摘する。

「アメリカでNPとして働いている日本人看護師は予想以上に多い。日本の看護師のありかたに疑問を抱く若くて優秀な看護師がアメリカの大学院に留学してNPになっている。このままでは、看護界の頭脳流出に拍車がかかる。医師不足にしても医師の数をふやすだけでは限界がある。医療従事者間の垣根を取り払って分業・協業のありかたを整理すれば、医療従事者みんながハッピーになり、したがって患者もハッピーになり、結果として社会全体もハッピーになるはず」(西田博東京女子医大講師)。胸部外科学会のNP関連特別企画には内科医の矢崎義雄独立行政法人国立病院機構理事長も参加するが、同理事長は「医療確保ビジョン」作成アドバイザーだった。NP創設の火付け役となった草間学長は日本看護協会副会長でもあるだけに同協会はいずれNPの養成や制度化を政策課題に取り上げることになるだろう。

草間学長の下でNP養成に取り組む甲斐教授によると、お隣の韓国ではNPに相当する「保健診療員」が地域医療を担うなど看護師の自立と自律は日本に先んじている。首都圏一部の医療系大学や民間病院でもNP養成プログラムを検討していると言われる。だが、日本の看護系大学院でNP養成コースを修了しても、その能力を発揮できる場の保証はない。医師法第17条によって医師以外の「医業」は禁じられ、看護師は保健師助産師看護師法第5条によって患者らの「療養上の世話又は診療の補助を行うこと」とされている。またNPが医師のようにクリニックを開業したとしても医療保険の診療報酬の支払いを受けることはできない。こうした数々のバリアについて草間学長は、「NP」を看護師の「『診療の補助』業務の拡大として解釈するのではなく、『医業の一部を分担する』方向での法制度化に向けて検討していく」(前掲誌315頁)ように求めている。

<アメリカでも医師と看護師の妨害にめげず制度化した歴史が>

看護師のもう一つの道を目指す動きに対する抵抗は複雑だ。看護師への権限委譲を拒む医師や医師団体だけでなく、同じ身内にも潜む。例えば責任の重い仕事は医師に任せて「補助業務」に安住したいという生業感覚の存在。医師と対等な看護師であるよりも昔ながらの看護婦でありたいという働き方もひとつの人生選択を否定することはできない。制度を手直しするだけでなく医療従事者の意識を変えていくこと自体が医療改革なのだから。

とはいえ、一部の人々が声高に叫ぶような「医療崩壊」が近づいているとしたら、改革を躊躇してはいられない。大分看護科学大は、見切り発車してNPを地域に送り出し、実績を社会の評価にさらす道を選んだ。アメリカでも当初は医師と看護師の両方から批判されたが、NP教育が先行し、制度化は後に鳴った経緯がある。わずか3人で始まった大分での実験は医療改革の試金石でもある。2008年7月5日)

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