コラム 国分 アイ

八十乙女のつぶやき  国分 アイ Kokubun Ai Vol.18

恩師・国分アイ先生は、2004414日 昇天されましたが、福島県出身の先生のお心を思い起こし、継続して掲載させていただいております。>>>>>バックナンバー 

Vol.18 わが家のお客様 その2

いつも集合時間は午前11時頃。なぜか雨の日だった記憶がない。お客様同士、駅からわが家までの道を相前後して歩いてこられ、着いてからお互いに「あら、貴女でしたの」と驚きあっていたこともあった。その後も働きつづけ、仕事先も埼玉、名古屋と変わり、クラスメートが揃って訪ねてくださる機会はなくなった。ひととき、お隣の杉並区にお住まいの橋倉かの代さんが来てくださる時期があった。確か、お手作りの枝豆ごはんをお重に入れてお持ちくださった。お料理上手のお姑様のご指導だとか。

思えば50代で私も若くて元気だった。そんな集まりの1こま1こまが、ひたすら懐かしい。多発性骨髄腫という病が発見されたのは、名古屋の日赤短大の非常勤講師をしていたとき。診てくださったのは、名古屋赤十字病院の内科部長だった。講義が午後2時頃に終わると、輸血を受け、夕方の急行で東京に帰り、途中で夕食の駅弁を求めて家に帰る、という生活だった。

以来、クラスメートの訪問も少なくなった。昔のように自分でご馳走を作り、いきいきと食を楽しんでいた私はいない。去る者日々に疎し。友も老いたり、私も老いたりで、お互いさまである。ただ、私は多発性骨髄腫、要介護Ⅲ度、ヘルパーさんのおかげで生きている、否、生かしていただいている身である。

同情や義理で訪れてくださることを、私は好まない。時々遠方からお電話をくださる宗像さん。クラスメートではないが、ご一緒に病院船で勤務した平英子さん。杏林大学教務でご一緒した是松先生は、今私にとって良き友である。

思えばふるさとのわが家と群馬の姪の家以外、訪問して1,2泊したことがない。それほど、人を招くほうが好きだったに違いない。最近は、去る者は追わず、来るものは拒まず、である。昔のように、来て来てと、無理を言わない。

よく考えると、同級生を呼んだのは、私自身の満足感のためだったのではないか、と思うこの頃である。

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八十乙女のつぶやき  国分 アイ Kokubun Ai Vol.17

恩師・国分アイ先生は、2004414日 昇天されましたが、福島県出身の先生のお心を思い起こし、継続して掲載させていただいております。>>>>>バックナンバー (尚、2012年7月になって国分先生から頂戴していたお葉書の一言を見落としていたことが判明。ここに書き添えます。「頭書のところに 福島県本宮町生まれ 福島県立安積高女卒 と入れて下さるとわが思いがふるさとの方達に届きそうな気がいたします」)

Vol.17 わが家のお客様 その1

かつては、人集めが大好きだった。好きな料理を作り、友を招く。多くは日赤時代の同級生の方々である。多いときは13名を数えたこともあった。当時は元気で、心弾ませ、朝から大張り切りで準備したものである。

献立で人気があったのが桜ごはんだ。瓶詰めの桜の花の塩漬けを前夜のうちに塩出しをし、お米に餅米を少し混ぜたものと一緒にして、炊飯器で炊ける限りの量を仕込んでおく。桜の花びらは、薄い桜色をしていて、ほのかに香りもある。朝になると桜の香りを塩味の利いたお米の準備ができている。頃合をみて炊飯器のスイッチを入れる。炊き上がる直前に、さらに桜の塩漬けを加える。炊き上がったら、器に盛ってふきのとうとけしの実をあしらって完成だ。ふきのとうは、緑の色が消えないように重曹を入れて茹で、冷凍しておいたものだ。

次は、アボガドのサラダ。アボガドを2つの割り、種だけを取り出す。きゅうりとりんごを1センチ角に切ってカッテ-ジチーズで和え、種のあった窪みに盛りつける。アボガドの切り口にはレモンの薄切りを飾り、色取りに瓶詰めのウニを乗せる。見た目もなかなかよく、口当たりもよい。当時、アボガドは食べ頃のものを用意するのが大変だった。固すぎて身がガリガリしていたり、熟れすぎて薄黒くなっていたりするものは使えない。最近は食べ頃のラベルが貼ってあって、これは良いと思った。アボガドは南の国の果実だが、くせがないので、みなさん喜んで召し上がってくださった。夏はこれにビールがついた。

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八十乙女のつぶやき  国分 アイ Kokubun Ai

村松静子が尊敬してやまない恩師・国分アイ先生は、2004414日 昇天されましたが、福島県出身の先生のお心を思い起こし、継続して掲載させていただいております。>>>>>バックナンバー (尚、2012年7月になって国分先生から頂戴していたお葉書の一言を見落としていたことが判明。ここに書き添えます。「頭書のところに 福島県本宮町生まれ 福島県立安積高女卒 と入れて下さるとわが思いがふるさとの方達に届きそうな気がいたします」)

Vol 16 誤解と弁解

人とのかかわりの誤解は、解かないといつまでもしこりを残す。だが、日常には勘違い程度の誤解も多い。古稀を過ぎたこの頃、うっかりした勘違いが多くなり、不安にもなってきた。

昔、パーマネントがはやりだした頃、私はそれを「パーネマント・ウェーブ」と言っていた。もともと英語の敬遠された時代の無知によるものと思うが、ロシア文字に出てくる“○○スキー”のような、長い人名なども苦手だった。このことをある人に話したら、「コッキン・テンクリートよりはいいですよ」と慰められ、上手がいると大笑いした。

これも昔、わが故郷に若かった母が生きていた頃、ラジオに「ウッカリ夫人とチャッカリ夫人」という番組があったらしい。長女の私が東京に出て留守のわが家では、弟妹たちは、母に、「ウカチャカ夫人」の名を奉っていた。ウッカリ忘れても、チャッカリ合理化して流してしまう母、口を尖らせて抗議しても、柳に風。あっけにとられている弟妹の姿が目に浮かぶ。「いいわ、いいわ」は、母の口癖だった。「気にしない、気にしない」、母はこうして5人の子どもたちを育てた。

この母親の流儀は、「一大事にあらざれば、適当にあしらっておく」という形で、私の身にもついたようだ。私にとって一大事は、職業上に責任にかかわることであった。仕事に全力投球すると、余力はなくなり、後はなるようになれだった。それは母親ゆずりの“ウカチャカ”だったのかもしれない。海軍病院で主任だった頃、当時の職員の一部は厳しかった加藤婦長さんを敬遠していたが、よく聞いてみると誤解が多い。だが、婦長さんは絶対弁解されなかった。主任の私は婦長さんに代わって弁解しながら、婦長さんの頑固さであり、自分への厳しさでもあると思ったものである。

人とのかかわりで、思わぬ誤解を受けたことがある。否、今もそれは続き、そのまま私の人生は終わるだろう。弁解という手段があるが、それは反対に他者の人格、人生さえ傷つけることになる。誤解されたままのほうが、一つの社会集団は平穏無事であると悟った。ウッカリ人を信じすぎた報いだった。

国会の政治家の弁明を聴いた。真実が語れない限り、誤解は疑惑となり、国民の心にしこりを残す。政治家は国民に誤解されたとみたら、正すべきであろう。誤解というしこりは、解明されない限り、問題を残すものだと思う。(2002年)

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おじいさんの古時計

八十乙女のつぶやき  国分 アイ Kokubun Ai      
1920
年福島県生まれ。日本赤十字看護婦養成所を卒業の年に大平洋戦争が勃発し、陸軍海軍病院に勤務。戦後は日本赤十字中央病院へ勤務。後に同病院専任臨床指導者となり、日本赤十字看護短期大学の学生指導、教務部長を経て同病院副看護部長歴任。退職後、自治医科大学付属高等看護学校、杏林大学医学部付属看護専門学校、埼玉県立衛生短期大学、日本赤十字愛知短期大学で教鞭をとるというように、一貫して看護教育に携わる。自身も、胃切除、腰椎圧迫骨折、肋骨骨折、胆のう摘出など怪我や病気を体験し、その体験が看護教育に生かされてきた。さらに70歳で多発性骨髄腫を患いながら、放送大学を5年で卒業。フランス刺繍、ケーキづくりと何事にも研究心旺盛。

国分アイ先生は、2004414日 昇天されましたが、福島県出身の先生のお心を大切に、今後は継続して掲載させていただきます。>>>>>バックナンバー

Vol.15 おじいさんの古時計

最近、聞くともなく聞いていたが、『おじいさんの古時計』という歌が流行っているらしい。“チックタック、チックタック、ボーンボン”と、時を刻む時計の歌である。テレビの映像の中では、アメリカ製で、大きく、長く、デザインは古いが、風格があり立派にみえた。リズム感がある歌で、いつの間にか口ずさんでいた。

昔、生い立ちの家にいた頃、わが家にも古い柱時計があった。国鉄職員で時間に几帳面だった父が、床の間の横柱の時計に、キリキリと捻子を巻いていた後姿が目に残っている。

家を出てからは、婦長をしていた日赤中央病院の外科病棟の看護婦室に時計があった。形はわが家の時計と似ていた。スマートなどといえるものではなかった。備品係の小川さんが管理していたが、時々故障。小川さんはその都度、胸に抱えるようにして器械管理室に運び、修理を依頼していたようだ。そして、頻回の修理にたまりかねて、新規購入を依頼した。

「神武天皇が、これは古いと申しました」と、彼女らしい頓知でお願いに及んだようだ。しかし、婦長室に戻った途端、「婦長さん、神武天皇はまだ使えると申しました」と報告に及んだ。

これは80年生きながらえた私の人生に出会った、おじいさんの古時計のように懐かしい、思い出の時計たちのお話である。 (200210月)

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わが闘病の記―生と死へのアクセス

八十乙女のつぶやき  国分 アイ Kokubun Ai      

1920年福島県生まれ。日本赤十字看護婦養成所を卒業の年に大平洋戦争が勃発し、陸軍海軍病院に勤務。戦後は日本赤十字中央病院へ勤務。後に同病院専任臨床指導者となり、日本赤十字看護短期大学の学生指導、教務部長を経て同病院副看護部長歴任。退職後、自治医科大学付属高等看護学校、杏林大学医学部付属看護専門学校、埼玉県立衛生短期大学、日本赤十字愛知短期大学で教鞭をとるというように、一貫して看護教育に携わる。自身も、胃切除、腰椎圧迫骨折、肋骨骨折、胆のう摘出など怪我や病気を体験し、その体験が看護教育に生かされてきた。さらに70歳で多発性骨髄腫を患いながら、放送大学を5年で卒業。フランス刺繍、ケーキづくりと何事にも研究心旺盛。

国分アイ先生は、2004年4月14日 昇天されましたが、そのお心を継続して掲載させていただきます。>>>>>バックナンバー

Vol 14 わが闘病の記―生と死へのアクセス

「痛―ッ!自分でやるから手を放して!」。介護を受けながら、この苦痛悲鳴。わずかな身体の動きで起こる激痛を、どうしたら起こさないようにできるか、と目をつむりながら痛みとの取引に全神経を集中させている。 

ここ数日の痛みをの戦いに、私はすっかり負けてしまった。疲れた、本当に疲れてしまった。半分夢の中ともいえる心のさまよいのさなかで、ふと気づいた。とうとう、人間として生きるための欲求の、最低の次元まで落ちてしまったと。食べる、排泄する。この最も基本的なことがままならないのだ。

特に、健康ならば快感でさえあるはずの排泄がこたえる。身体の中心部である腰から便意が起こり、手足の動きにさえ連動して激しい苦痛を伴うのである。食べることは、質も量も制限してしまった。しかし排泄は、尿はともかく、ふだんは便秘がち。しかも、腰の痛みで差し込み型の便器が使えない。おむつ、新聞紙を使い、どうしてもヘルパーさんにお願いするほかない。病多い人生で馴れていたつもりだったが、やはり病人になりきれていないのであろう。これは私の覚悟の問題であろう。なんとか理屈でごまかそうとする、私の見栄があったかもしれない。

晩学で、私は放送大学に学んだ。その卒論が心理学者、アブラハム・マズローの、人間の基本的欲求に関するものだった。これらは段階的に生理的欲求、安全の欲求、所属・愛への欲求、承認の欲求、そして自己実現の欲求となる。このうち、3段階までは人間以外の動物にもみられる欲求であり、4,5段階は人間が人間らしく生きるための欲求である。

かつて看護職にあるとき、QOL(クオリティ・オブ・ライフ、生活の質)は看護行為の一つの目標であった。どんな病人でもその病状なりの生き甲斐を与えること、質の高い人間らしい生き方ができるように援助してゆくことだった。

現在病人でもある人間にもそれを願い、制約された狭い行動範囲の中で人間らしく生きる事、すなわちQOLを自らも維持することを課してきたつもりだった。

なんとか室内歩行できる頃は、掃除、洗濯、買い物は市の福祉の恩恵で、週3回派遣していただくヘルパーさんに依存しながら、刺繍やハーブを入れたシューズキーパーづくりなど、手先の仕事に没頭することができた。お見舞いにいただいた花をモデルに、和紙の葉書にスケッチして、自家製の絵はがきを作ったりもした。そうした作業が、病の憂さを忘れさせてくれたものだった。

多発性骨髄腫という病の宣告と同時に、余命は2年から8年という宣告も受けた。にもかかわらず、宣告以来12年目を迎えて、今も生きている。ひところ、看護婦なのだから、自分のもつ知識、技術を生かして生き長らえているのだという誇りもあった。それも、いまやおぼつかない。病の苦しみの中で、必死にあがいている。できれば“ぽっくりと”を願ったのに、いつの間にか人の手を煩わす病人になっていた。

いずれは死を受容しなければならない。その準備を少しずつしなければ、と思っている。

(2002年)

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