コラム 安藤 武士

コラム「医師として、武士として」  Vol.102 「ビールの効用(1)」 Vol.103 「ビールの効用(2)」   安藤 武士 Andou takeshi

1941年、新潟県生まれ。1967年、新潟大学医学部卒業後、医師登録と同時に外科研修を開始。

インターン終了後医師となる。新潟大学付属病院(外科助手医局長)で勤務の後、72年、呼吸器・心臓血管外科を専攻後、80年より、心臓血管外科部長として日本赤十字社医療センターに勤務。その後、山梨医科大学非常勤講師JR東京総合病院(心臓血管外科部長)、明治安田生命(事務センター診療所所長)、JR東厚生部(水戸支社・高崎支社・新潟支社健康管理センター所長)、佐野市民病院(健康管理センター所長)、介護老人保健施設たかつ施設長を歴任。現在は、(社団法人)労働保健協会の診療所所長として活躍中。労働衛生コンサルタント・スポーツドクター(日体協)・健康スポーツドクター(日医)・認定産業医(日医)の資格を持ち、5つの顔を絶妙な味で使いわける医学博士である。身体の大きさと、豪快な笑い・笑顔には、その人柄と存在感をより強くアピールする何ものかが潜んでいる。今なお、'武士'にして"武士"ここにあり。

Vol.102 2018.9.17  ビールの効用(1

今日もスタバで、抹茶フラペチーノグランデを楽しみながらパソコンに向かっている。ほぼ2ヶ月前になろうか。朝、“ひげ”を剃るため鏡をみたら、右の耳の前の頬(ほほ)が異常に腫れている。左は何ともない。医学的には耳下腺のあるところである。前日のTVで耳下腺の悪性腫瘍が増えているとの報道がったため、“ぎょっ”とした。触ると固いだけである。痛みもない。熱感もない。とりあえず出勤した。

翌日、近くの耳鼻咽喉科で診てもらった。その時は、腫れも引いていたので耳鼻科医は何かしらという雰囲気で診察をした。診察を終え、“なんともないですよ”と言われた。恐らく、耳下腺の唾液のでる導管に食物が一時的に詰まったのではないかと説明を受けた。一週間後に瘤があれれば、大病院を紹介するという。一週間後の診察ではなんともなかった。“ホット”した。その時、耳鼻科医(耳鼻咽喉科医)が、今年の正月も頬の腫れた人が来て診察したら、耳下腺の導管から、ポロリと米粒大のものが出てきたと思ったら大量の唾液が出て、あっという間に腫れが引いた患者さんがいた。米粒大のものはシシャモの卵であったことを披露してくれた。

以来、「唾液腺」に興味をもった。唾液腺と一括りに言われているが解剖学的にどうなっているのだろう。唾液の導腺は何本あり、どこに出るのであろうかと、学生時代に勉強したはずであったが、今は全く頭に残っていない。教科書を紐解いたがわからない。結局、ITサイト:ウキィぺデアにたよった。

哺乳類の唾液腺は、「耳下腺」と「顎下腺」、「舌下腺」からなることを確認した。解剖的なことは省略するが、「唾液」が出る導管はどこにあるかが理解できた。「耳下腺」の導管は長さ56cmあり、上顎(うわあご)の第2大臼歯の高さで、(ほほ)の口腔に開口すると記してある。「顎下腺」からも唾液はでる。「舌下腺」は、舌下に数本あり、時として下顎腺と連なることもある。「唾液腺」の病気にはどんなものがあるか知りたくなった。

1. 感染(細菌やウイルス)症: 唾液腺炎(例:急性顎下腺炎、流行性耳下腺炎など)

2. 自己免疫性疾患:シェーグレン症候群IgG関連唾液腺炎

3. 結石が出来る病気:唾石症(例:耳下腺唾石、顎下線唾石、など)

4. 腫瘍:唾液腺腫瘍(例:顎下線・多形腺腫、耳下腺扁平上皮癌、唾液腺・悪性リンパ腫、など)

5. その他:唾液腺閉塞(小生の経験から加えた)。

次第に、「家庭の医学」になってきたので、本編はこれで終わる。(完) 

 

Vol.103 2018.9.17  ビールの効用(2)

先日、新聞の健康相談に、「就寝中に目が覚めるほど口が乾くます。他の老人性の病気で受診しているので医師に相談するが、改善しない。どうしたら良いか。」という「ドライマウス」で悩むご老人の相談があった。医師が回答しているので要約して記す。

唾液は一日あたり約1.5リットルも分泌されますが、唾液の主成分は水分なので、脱水症状が口腔内乾燥の原因で、唾液が約半減すると口が「乾く」と、気になり始めます。俗に「ドライマウス」という現象で、前立腺肥大症、高血圧症等、色々な病気の治療に用いている薬の副作用が原因になります。他に、細菌感染、自己免疫疾患であるシェーグレン症候群などでも口喝は起こると言われている。

一方、唾液には抗菌作用のある成分が含まれており、分泌量が減ることは、口臭、虫歯、肺炎のリスクを高めるという。「ドライマウス」の人は国内では数百万人いると言われており、定期的に医師、歯科医師の診察を受けることが勧めらている。

小生は心配ない。いつも「ドライマウス」の予防に注意を払った生活を送っている。月に一度は、近くの歯科医に口腔内清掃をしてもらっている。また、夕食に、たっぷりとビールを飲して水分補給に気御配っている。また、口腔内の消毒も完全である。(完)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.101 「男と女」    安藤 武士 Andou takeshi

1941年、新潟県生まれ。1967年、新潟大学医学部卒業後、医師登録と同時に外科研修を開始。

インターン終了後医師となる。新潟大学付属病院(外科助手医局長)で勤務の後、72年、呼吸器・心臓血管外科を専攻後、80年より、心臓血管外科部長として日本赤十字社医療センターに勤務。その後、山梨医科大学非常勤講師JR東京総合病院(心臓血管外科部長)、明治安田生命(事務センター診療所所長)、JR東厚生部(水戸支社・高崎支社・新潟支社健康管理センター所長)、佐野市民病院(健康管理センター所長)、介護老人保健施設たかつ施設長を歴任。現在は、(社団法人)労働保健協会の診療所所長として活躍中。労働衛生コンサルタント・スポーツドクター(日体協)・健康スポーツドクター(日医)・認定産業医(日医)の資格を持ち、5つの顔を絶妙な味で使いわける医学博士である。身体の大きさと、豪快な笑い・笑顔には、その人柄と存在感をより強くアピールする何ものかが潜んでいる。今なお、'武士'にして"武士"ここにあり。

Vol.101 2018.8.16  男と女

いつものスタバで、抹茶フィレペチーノを楽しんでお盆休みを過ごしている。今回は、固い話である。過日、国会議員が某出版社の月刊誌に寄せた一文が物議をかもしている。「子供を作らない、『生産性』が無い『LGBT』に対する支援が過ぎる」との主旨の文章である。「生産性」という言葉にも問題があるが、他の報道を見聞きし、生物である「ヒト」というのを生まれた瞬間から男女と明確に区別していることに疑問を感じないことが一般的であることを改めて知った。議員ともあろう人が、生物としての「ヒト」を知っていればそのようなことを書かないはずである。また、批判する人も「馬鹿な事を」と言って、で終わる事である。

 過日(vol.88:17、10:29)「デジタル」と「アナログ」の表題で拙文を掲載させていただいたが、通常、世間では「ヒト」を「男性」「女性」とアナログ的に明確に分ける。両極の間に、外形、内臓形態・機能、ホルモン、精神:性格・趣向の違いがあることは理解しているが、現実的には「ヒト」を男女とのみに区別することが多い。違いの組み合わせは天文学的数字に上るが、それを男性、女性の枠で括っている訳であるから、種々の問題が起こることは当然のことである。 

日本は、アナログ的に分けられたグループでも大過かなくすごせるので、生物学的にどちらにも属さない人は、それだけ抑圧されているともいえる。日本に在住している米国人の良く知られている評論家は、自身がLGBTであることを表明しており、「日本社会のLGBTへの態度を、やんわりと遠巻きに見るが、“表だって公認しない”」と言っている。日本の知識人は、LGBTを指弾することはあるまじき行為であることの知識を持ているので、指弾しないと言っているといるのである。 

 国会議員の発言は、あるまじきことであると非難しているが(大いに非難されるべきであるが)、報道の論調をみる限り議員の発言を単に、所謂、趣向のレベルでの発言ととらえているように思える。生物学的にできないのにそれを指弾することは、当の議員もそうであるが指弾する人のメンタリティーも疑われて当然である。「ヒト」の「性」は2分的にとらえられないという根本的なことを知っていれば、そのような発言は出ないはずである。

現在、WHO(世界保健機関)疾病分類「ICD-10」、アメリカ精神医学会DSM等では、同性愛は「異常」「倒錯」「精神疾患」とはみなされず、治療の対象から外されている。そして同性愛などの性的指向ついては、矯正しようとするのは間違いとの見方が主流となっている。近年の多くの英米の調査では人口の2-13%50人に1人から8人に1人)の割合で同性愛者が存在していると言われている。 第3の性に属するのである。

先に、「性」を男女と2分してきたことを、一般人も、政治家も、行政官も捨てなければならない時代が既に到来しているのである。第3の性と表現されているが、これからはもっと細分化されるかもしれない。

さて、帰って昼食にするか。家人は何を用意してくれているかな。(完)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.100 「炊飯器」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.100 2018.5.5 炊飯器  

今日もスタバで、抹茶フラペチーノを楽しみながらコラムを書いている。1960年、初版本として発刊された北大路魯山人の筆からなる「春夏秋冬料理王国」というエッセイー集が、1980年、「魯山人の料理王国」と名を変え新装復刻版として発刊された。お読みになった方はおられると思う。小生は、4半世紀前に読んだ。現在でも通る内容である。

魯山人は、料理家だけでなく、書家、陶芸家、染色家としても「名」をなしている。「料理王国」は魯山人の「食」のエッセー集であるが、目次に、「料理する心」「味覚論語」「食通歓談」「お茶漬の味」「香辛料と調味料」「味ところどころ」「料理メモ」とある通り、魯山人は「食」に通じた文化人である。当時、一流の知識人は、競って魯山人が経営陣に参画していた「星ヶ岡茶寮」に通ったという。

「新装復刻にあたって」の復刻版の初頭の文章に、「いつか山人が料理場におりて行くと若い下っぱの料理人が飯を炊いておった。その青年がつと立ち上がって釜に耳を近づけて米がよく煮えて立って音をききすましている。鉄の釜を焚いている間も気をゆるめぬ御飯炊きの忠実さに山人は炊き上がった御飯の出来上がりを待った。よくむれた御飯は上出来であった。そこで山人は大喜びしてこの青年に金一封を贈り、間もなく煮方手伝に登用した」という文章がある。魯山人の心配りにも称賛に値するが、日本料理の中核は、美味しい「ご飯」であることはいうまでもない。

先日、近くの大型家電店に行く機会があり、炊飯器、現在は電気炊飯器であるが、どんなものがあるのか、店内をぶらぶら歩きまわり見てまわった。

“本炭釜の激沸騰と大火力で香り高く炊き上げる「本炭釜」”、“南部鉄器「極め羽釜」”、“プレミヤ本土鍋「四度焼き」”、“米はおどる方がうまい「Wおどり炊き」”等々、米飯の出来具合を宣伝し競い合っている。

小生宅には、炊飯器はない。5年経つであろうか。まず、小生が容姿を考え米飯を食しなくなったことが一番の原因である。現在も、寿司以外の「米」は食べない。家人は、わずか1合程度のご飯を炊くため、いつも炊飯器をきれいにしておき食べるか食べないかわからないご飯を用意することが無くなった。「労」が軽くなったのである。

時に、「おにぎり」を食したいときがある。近くに、美味しいおにぎりで「名」をなしている「コンビニ」で買ってきてもらう。具は「かかお」か「ツナ」が好である。家人は、「パン」か「パスタ」を好んで食している。愛猫は、固形食のみである。従って、炊飯器はいらないのである。結局、炊飯器は粗大ごみとなった。

先日、家人が新聞を食いるように見ていた。1面を使った、食べたいときにすぐおいしい「食宅便」と表示されている広告である。プラスティックのトレイにきれいによそった“おかず”

の写真に一食分のカロリー(エネルギー)と塩分量が記載されている。

1) トマト煮込みハンバーグ:エネルギー272Kcal、塩分2.8g  2)牛しゃぶ:エネルギー264Kcal、塩分1.9g  3)海老グラタン:エネルギー362Kcal、塩分2.8g 

)野菜たっぷり回鍋肉:エネルギー223Kal、塩分1.5g  5)鶏肉のレモンペッパー焼き:エネルギー246Kcal、塩分1.9g  6)牛肉の牛蒡煮:エネルギー231kcal、塩分1.9g 7)鱈のきのこクリーム:エネルギー234kcal、塩分1.8g

さらに、「管理栄養士の新生活応援セット、おかず7食セット 3,920円」と掲載されている。一週間分の夕ご飯のおかずになることを想定しての広告であろう。

時代と共に料理法は変わってきている。手料理から、スパーマーケット食、コンビニ食、いずれは「宅配食」となるのは確実である。“チン“すれば良い訳であるから超高齢者社会になれば必然であろう。

小生も家人も年を取った。いつから“チン”食事になるかな。(終わり)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.99 「倫理観:素朴な質問(その2)」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.99 2018.4.28 倫理観:素朴な質問(その2 

現在の世界は、「自由、平等、有愛」に基づく倫理観でなりたっている。その「倫理観」を普遍的な倫理観とするため壮絶な争をした。また、現在もしている。「自由、平等、有愛」は、1678年に起きたフランス革命からの倫理観である。有史以来、数千年、世界のどこでも「絶対君主」が「民」を支配していた。絶対君主制の倫理観で世界は動いていた。「君主」がいて「民」がおり「奴隷」がいるというものである。奴隷と言っても、ギリシャのソクラテス、プラトン、アリストレスのように有力者の「民」に属するという時代が長く続いた。それがフランス革命で崩壊し、「ヒト」は自由、平等という新しい倫理観ができた。庶民は戸惑ったと聞く。現在の倫理観は僅か350年前に生まれた、生まれたての倫理観である。この歴史の浅い倫理観も変わるであろう。

殺してもいい時代、自由、平等でない時代が来る可能性もある」と考えると、市井の一員である我々はどのようにしたらよいのであろうか。

飛躍した話になるが、医療資源の確保の観点から制限される医療も検討されている。医療人は、「命のトリアージ」をしてはならないという「倫理観」を絶対的な行動規範としていたが次第に崩れてきている。

災害時のトリアージタッグで知られる救命制限、がん治療・血液透析開始の年令制限、生前診断(NIPT)に基づく出生制限等々である。医療資源の確保、費用対効果など色々な理由で命のトリアージが行われようとしている。それを否定する訳でないが、「命」と対比するものはないと教わり続けられ、また、思っている「倫理観」を変えなければならない時代になってきた。

「可愛そう」という素朴な倫理観だけでは、世の中は通じなくなってきている。

「倫理観」は常に変わることが言いたかったのである。理屈っぽく、一人よがりになってきたのでお終りとする。(完)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.98 「倫理観:素朴な質問」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.98 2018.4.15 倫理観:素朴な質問

 今日もスタバで、抹茶フラぺチーノを楽しみながらコラムを書いている。新聞の「人生相談」で、倫理観の根源的な問題を15歳の若者が素朴な質問し、落語家で作家の立川談四桜氏が、小気味いい回答をしているのを読んで興奮している。

 質問は、年齢から言うと高校1年生と思われる青年が、「僕が、ヒトを殺してはいけない理由を簡単に説明して」と、一緒にニュース番組をみていた親戚のおじさんに頼んだら、「我々がそうゆう時代に生きているからだよ。価値観や倫理観は時代によって変わる」と即答されました。それなら「殺してもいい時代が再び来る可能性もある」と考えるべきでしょうか。というものである。

 「ヒトを殺してもいい時代はくるのか?」。極め重く回答に窮する問題である。回答者の立川氏がこれまで聞いた回答で感心したのは、「理由はない。いけないものはいけないんだ。」というものであるという。しかし、親戚のおじさんの「我々が、そうゆう時代に生きているから」にも説得力があると回答している。

 確かに「ヒトは殺してはならない」という倫理観は、700万年からの人類史を見ると、まず、自分が生き抜くためには常に「争い」に勝なければならないから太古にはなかったと言ってよい。「争い」は、倫理観の欠如というより本能的なものであったろう。時代が下るとともに、自分という「個」から、同種、同族、集団の命・財産・名誉を守るために「争い」を起すようになり、若干であるが何らかの倫理観を持つようになってきたと思われる。

「理由はない。いけないものはいけない」という倫理観を、現世の人は絶対と考えているが、有史以前から色々な理由で「ヒトを殺し」世界が形成されている。何か理由があれば「ヒトを殺してもよい」というのが現在の倫理観なのであろうか。20世紀は、戦争で4億人が殺されたという。現在も、世界のどこかで戦で「ヒト」が殺されている。

その様に考えると、これからも同じことは起こりえる。回答者は、「殺してもよいという可能性はゼロではない」と答えているが、質問している若き青年に「それを防ぐのは、あなた方の世代に期待する」と回答している。質問も回答も秀逸である。

倫理観は一般に人の行動規範となる。法律とは関係がなく、「ヒト」として守り行うべき道、善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるものーと、書物に記してある。残念な事に、歴史は「ヒトを殺してはならない」という倫理観は、まだ「普遍的」になっていないことを示している。(続く)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.97 「風月堂のゴーフル」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.97 2018.4.1  風月堂のゴーフル

アルベルト・シュバァイツァーという人物をご存知の方は少ないと思う。医師・哲学者・神学者・音楽学家で、アフリカでの献身的な医療活動が評価され1952年、ノーベル平和賞を授与された人物である。30歳で医学部生となったが、それまでは、哲学・神学を学び、大学の神学講師として研究・教鞭をとっていた。

38歳で医学博士号の学位をとり、1913年に医療施設に困っていたアフリカ・ガボンのランバレネに診療所を建て1955年まで医療に従事する。第一次大戦という混乱期では、医療活動は一時中止し、ヨーロッパでパイプオルガンの演奏者として名声を得る。その後、ガボンに戻り、献身的な医療奉仕活動とヨーロッパでの講演活動を展開、その献身的な奉仕活動が評価され、1952年度のノーベル平和賞を受賞する(以上はIT情報)。

小生も小学校時代に「アルベルト・シュバァイツァ―博士」の伝記を読んだが、木製の「輸液台」の挿絵が記憶にある。

その後、核反対運動にも参加するなどしつつ、ランバレネで医療活動を続け、1965年、90歳でこの世を去った。

何事も毀誉褒貶はある。現地での評判は決して良いものではないという。自らの神学思想を現地の文化より優先し、同時代の西洋の知識人たちと同様に白人優先主義者で、「人類皆兄弟」の標語を唱えながらも、白人を兄、黒人を弟として扱っていたという。植民地支配の側面が強かったようである。近代医学を行う医療機関も設立されたが、シュバァイツアー博士の奉仕の精神の医療施設に負け、閉鎖を余儀なくされたという。それが原因で、当地の医療は著しく遅れたという。

シュバァイツァー博士は、ゴーフルが大好物で、日本から訪れる人は「風月堂のゴーフル」をお土産として持って行ったと聞く。

小生の昼食は、長年、「風月堂のゴーフル」のみである。10月になると落ち着かなくなる。(完)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.96 「赤ひげ」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.96 2018.3.17  赤ひげ

 この数年間、TV放送はニュース以外余り見ない。興味ある番組は録画しておき観たいときに観る。

 その代わり、DVDは沢山所蔵している。シリーズ物として、アガサクリスーの「探偵ポアロ」(60巻余)、ピーターホーク主演の「刑事コロンボ」(60巻余)、コナンドイルの「シャーロックホームズ」(30巻余)、他に、ヘミングエイの「誰がために鐘はなる」、イングリッド・バーグマン主演の「カサブランカ」、オードリーヘップバーン主演の「ローマの休日」、アランラッド主演の「シエーン」、ショーンコネリー主演の「ジームズボンド」シリーズ等々、切りがない。時間があれば、何度も同じものを見ている。そのたびに新たな発見がある。

1ヶ月前より、黒沢 明監督の映画の「DVD」が発売開始となった。早速、購入手続きをとった。先日、3巻目が届いた。かの有名な三船敏郎主演の「赤ひげ」である。確か昭和40年頃の映画であったと思う。

長崎で修練して江戸の小石川療養所に配属された「近代医学」を学んできた若き医師が、「赤ひげ」流の施療に反抗していたが次第に“医のこころ“を学び、「こころ」の医者になっていくという山本周五郎の名画である。

時代と共に、医師に求められることは異なるが、どんな時代になっても変わらぬは、「赤ひげ」流の「医のこころ」であると思っている。

「赤ひげ」は、現在、地域医療に貢献した医師に日本医師会が授与する「赤ひげ」大賞の名称にもなっている。技術的に発展し続ける医療界で活躍する医師に求められる「医師」にも、「赤ひげ」流“医のこころ”が必要と思っている。

小生は「赤ひげ」は、「良医」ではない、「名医」でもない、「善い医者」のことを指していると思っている。

先日、医師の友人に「赤ひげ」の事を話したら、「もし手術をすることになったら『善いこころ』より『技術が優れている』方が良いね。」と言われた。拡大鏡を用い、髪の毛より細い糸で縫合するには、それなりの技術がいることは承知している。「ロボット」手術の成績が良い疾患もあるので理解はできる。

小生には、現在は逆立ちしても手術をすることが無いので、「赤ひげ」流の“医のこころ“が「善い医師」にとって必要ということを強調しているのかもしれない。

以前、「証拠ある医療(EBM)」に関する「コラム(Vol:16)」を掲載させていただいたが、もう「赤ひげ」は不要と明記した医事評論者がいた。それも理解できるが、なにか釈然としない。

 現在、予防医学に従事しているが、小生の目標は医療機関の“パイ”を小さくすることを目標としている。(続)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.95 「命のトリアージ」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.95 2018.3.3  命のトリアージ

今日も、近くのスタバで、抹茶フラペチーノを楽しみながらコラムを書いている。資料を調べているうちに気が重くなってきた。本日は、“重い重い”話となる。

 

 1月下旬、「新型生前前診断(NIPT) 本格実施」 “対象施設拡大と 指針の見直しへ”、という記事が新聞の一面のトップに掲載されていた。妊婦の血液から胎児の病気の可能性を調べるNIPTを巡り、日本産婦人科学会が、倫理面で臨床研究に限定したのを見直し本格実施に踏み切る方針を固めたという。胎児の中絶に繋がるため「命の選別」との批判も根強いが、高齢者妊娠の増加で高いニーズに応える必要があるとして受診できる施設を大幅に増やすという報道がなされた。日本医学会がNIPT実施できる施設認定を行っている。現在は89施設が認可されているが、認可施設を600施設程度まで拡大する事を検討中という。昨年、日本では9月まで5万人余が検査を受けたという(新聞報道)。 

INPTは、妊婦の血液中の微量な胎児のDNA分析し、染色体数異常の可能性の有無を調べる検査である。確定診断は羊水検査であるが、NIPTは容易にしかも母体に及ぼす危険もないので、NIPTが広がっているという。実施できるのは日本医学会の「認定施設」のみに限定されている。現在、検査を受けることができる妊婦は、35歳以上、過去に染色異常(21、18、13トリソミー)の分娩経験のあるもの、胎児が超音波検査、母体血清マイカー検査で、染色体異常の可能性の上昇を指摘されているもの、両親がロバートソン転座(13、14、15、21、22番の染色体異常)があるものされている。

13トリソミーとは、13番目の染色体が1対(2本)でなくもう一本、余計にあることをいう。胎児は、染色体異常で色々な健康障害を持つ。

現在、指針に定められた年齢に関係なく、また、21トリソミー(ダウン症)、18トリソミー(エドワーズ症候群)、13トリソミ―(パトウ症候群)以外の染色体検査をする施設もあるという。また、無認可施設も登場してきているという。NIPTは、2011年、米国で開発されたが、詳細は他に譲る。英国では2004年以降、は全妊婦が何らかの出生前検査を受けるよう求められているという。

 

小生が、医学進学過程を終了し医学部の基礎講義に「衛生学」があった。衛生学の講義は、大変、勉強になった。デトロイトの大気汚染〈エアーポリューション〉、ハンスセリエのストレス学説など今日的問題になっている学問的基礎知識を、聴講できた。

その一つに、優生学的問題に関する講義があった。宗旨として自然妊娠のみ許しているクエーカー教徒の実態調査で、排卵から受精までの期間が長いほど染色体異常の胎児ができることが判明したという。多くは死産であるが、21トリソミー(ダウン症候群)の胎児は出生するという。21トリソミ―の人達は、争う事はなく何時も穏やかで人なつこく、この世の全ての人が彼ら彼女らのようになれば、世界から争いがなくなるというものであったと記憶している。現実には、種々な問題を抱え日々を送らざるを得ない。

 

全世界の妊婦に、何らかの生前検査を受けさせることが当たり前になってきているようであるが、生存可能な染色体異常胎児と判明した場合でも、何らかの処置をとることになることは必死である。日本では、胎児が染色体異常あると判明した場合、97%の妊婦が処置をとっているようである。第2次大戦でドイツが行ったホロコーストと同じことが日常的になりつつある。

 

 小生は、妊婦の生前検査の是非に対し答えを持っていないが、医学が進むほど倫理的な問題が生じてくることを言いたかった。(完)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.94 「長時間労働」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.94 2018.2.17 長時間労働

今日も「スタバ」で、開店から抹茶フラペチーノを楽しんで「コラム」を書いている。題は決まっていなかったが、最近、新聞記事の一面に「医師の長時間労働」が話題になっていることもあり、「医師と労働」、「医師と労働時間」について、過去を振り返り、現在の思うところをコラムに寄せた。

1998年、関西の大学病院の研修医が自死するという悲しい事件があった。その前の月の残業が114時間であったことが判明し過労死と判定されたことに触れたコラム(Vol.37:2009年7月31日)を、掲載していただいた事を思いだす。

 医師自身は、長時間勤務は当然のことであり、長時間「労働」をしているとは思っていなかった。自身が携わっている仕事を「労働」と思っていなかったからである。長時間、患者に尽くすことは当たりまえでそれを誇りに思い、それを心の支えにしていた。それが、研修医の不幸な事件を契機に、医師は労働者と明確に定義され、医師の労働時間も労働規準法に従わなければないとされた。それでも医師は、労働問題は社会的問題であり、医師の仕事の実質は、担当の患者さんが快癒するまで、全責任をもって尽くすことが医師の任務であり、「医療」は「労働行為」ではなく、社会的規範から外れて存在するものと思っていた医師は多いはずである。

労働時間を管理するには、労働時間を把握しなければならない。小生が出退勤表に打刻するようになったのは臨床医をやめる数年前であるが、打刻するようになってから明らかに「心」に変化が起きた。当初は、労働者として労働時間を病院が管理するためやもうえないと考え夕刻になると出退勤カードに打刻していたが、日が経つにつれ打刻をした後の患者さんに対する思い、責任が薄れ始めてきた。極端にいえば、後は当直医の責任、病院の医療体制の問題と考えるようになってきたのに気が付いた。

現在も、大学病院でも、病院でも、所謂、長時間労働をしている最中、タイムカードに打刻をし、また医療活動に戻るという事があると聞いている。法的には、打刻をした後の業務は「サービス残業」ということになる。仮に事件性を帯びたことが起こると、「サービス残業」を病院が強いたと報じられる。病院の労務管理体制が問われる。

 医師にとって、自身が労働者としての職務と同じであり、社会的ルールに従はなければならないと思っていない医師は少なからずいると思っている。現況を変えるためには、医師の交代勤務など、本邦の病院の医療体制を抜本的に変えなければならないと思っている。しかし、変えた場合、果たして医師の「心」をどのように担保するかが大きな課題になると思っている。

過年、小生がある教職員組合の会合で労働衛生の講話をする機会があった。講話が終わって、管理者である司会者が会場の教職員に「なにか質問ある先生は?」と言ったら、すぐに、それなりに責任のあると思われる先生が、「過重労働が問題になっているが、職場にタイムカードを導入することについて意見は?。」という発言があった。

小生は、「当然、労務管理には労働時間を把握する一手段として、タイムカード制度は必要と思う。」と回答した。発言者は、司会者に「そらみろ。」という雰囲気で着席した。会場の先生もがやがやし始めた。

引き続き、過重労働対策として当然であるが、学校の「先生」は「聖職」と言われているように何時も何処にいても、担当の生徒のことを考えておられると思う。タイムカードを導入し労働時間を管理することは労務管理するうえでは当然であるが、導入により聖職者である先生方の「心も時間と共に変わる。」と、医師として経験したことを話したら会場は静まり返った。

このコラムは、医師、教職者の労務管理を抑制するために記したものではないとはご理解いただけると思う。

先日も若き研修医が、自分で命を絶った。医師は技術職に入るが、交代勤務を導入するようになるのではないかと思っている。今後、更に「医療の質」も変わると思う。どのようになるかは分からないが、少なくとも小生が医師になった時の「心」とは違う医師が誕生すると思っている。

人生の終末期に入ると、「くどくど」と自身の経験を述べることは人の習いと聞いている。我慢をして、目を通していただき感謝しております。(完)

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コラム「医師として、武士として」  Vol.93 「スタパ」    安藤 武士 Andou takeshi

Vol.93 2018.2.1 スタバ         

 休日は、朝から昼まで何時も家から10分ほどのところにある「スタバ」にいる。入店するとまず,定席に荷物を置きカウンターに行く。大抵、第一号客である。

カウンターに行くと「抹茶フラペチーノ グランデ」ですね、と店員はいう。代金を払い席に戻り、パソコンをセット。その後、新聞を読み、何かを始める。今日は、特に処理しなければならない事のないので、何時もお世話になっている「スタバ」を調べることにした。

 「スタバ」はご存知のようにスターバックスの、日本での略語である。スターバックスの発祥の地は、米国、ワシントン州のシアトル市という。1971年のことである。当初は、コヒーの焙煎を生業としていたが、1985年、コヒー店とし飲み物をテイクアウトできるようにしてから、あっという間に世界に広がったとのことである。世界に、900国に約225万店以上あるという。日本では、東銀座に一号店がお披露目された。現在は、店内でインターネットもできるようにしたことも時代にあったようである。どこも盛業である。小生の周囲のお客さんもパソコンで調べ物をしている。大変便利である。スターバックスという名は、メルビル著の「白鯨」に出てくる第一航海士の名前からという。云われは分からない。このコラムをかいている合間に新聞に目を通していると、重い記事が目に入った。

「嫁」もう嫌だ 縁切った 苦しんだ30年「死後離婚」届け 「3世代同居 かえって亀裂」、という表題の記事を読み、理解できることがあったので重い問題であったが、コラムの内容を変えた。

「死後離婚」とう言葉は知らなくはなかったが、記事を読み理解できた。結婚すると女性は苗字を結婚する男性の名にすることが多い。現在、その習慣に疑問を持たない人が多いようである。その逆は、世間からみると不自然に思われる。同居するか否かは別にして、女性が結婚する相手の名になる場合、籍ばかりではなく、全生活が夫の世界に入る。夫の両親、夫、自分、子供が家族の「核」になる。「核」の世界では、夫の両親は舅、姑となる。結婚した女性は誰からも「嫁」と呼ばれるようになり、家族の一員となる。夫を除けば皆よそ者である。3世代家族をつないでいるのは、舅、姑からは「孫」と呼ばれる子供である。

夫が死んだ場合も、いやでも夫の家族の一員として残らざるを得ない場合が多い。自分が死んでも、嫁ぎ先の家の墓に入ることになる。「何々家」の墓と表記された墓に入りたくないと思っているひとは少なくないようである。

愛する夫が亡くなった場合、舅、姑が全てを取り仕切るのが一般的である。「嫁」である以上、世間では当然と思われている。それを避けるため「死後離婚」制度があるという。夫の死後、夫の家族の籍を離れる制度である。これで、亡き夫の家の一員ではなくなる。自由の身になる。

小生の耳にも最近、他人事ではあるが親族、家族、殊に「嫁」とのいがみ合いの話が耳に入る。小生宅は「核家族」である。そのような問題はないが、過年、家人が子供に「私は、散骨にして欲しい」と言ったときは、ドキッとした。

「スタバ」は安らぎを与える場所でもあるが、余計なことまで考えさせる場所でもある。(完)

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