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9・「メッセンジャーナース」読後感想

2016年6月19日 (日)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑬こんなにもたくさんの看護師たちが、患者に寄り添おうとして真剣に努力している〔完〕

この五月、私はまたK大病院に入院した。昨夏、足の手術のときに入れた金具を取る手術を受けるための入院だった。希望した病棟はすべて満床。やむを得ず、新しくできた病棟の値段の高い個室に入ることになった。シャワー・トイレ付き、広さも十分ある気持ちのよい部屋だった。食膳は、見た目にも美しく盛りつけてある。看護師たちは、みな笑顔を絶やさずに応対してくれる。前回の病棟では検温に回ってくることもなかったが、ここでは朝、夕の交代のたびに看護師が部屋に挨拶に来る。血圧を測り、脈を取り、熱を測る。ほんの三、四分であっても患者と向き合う時間をとっている。傷の痛みはどうか。夜は眠れるか。食事は食べられているか。決まりきった会話ではあるが、直接、顔を合わせて話すことは大事なことだ。

 ある日、傷を覆っている包帯が緩んでしまった。昨年入院した病棟では、「整形外科領域のことは、私たちはやってはいけないことになっている」と断られた。ちょっと巻きなおすだけなのに…、と不満気な私に、「傷に関することには手を触れないことになっている」と言う。クリミアの地で兵士たちの傷の手当てをしたナイチンゲールのような看護師像は、このとき、私の中ですっかり崩れ去った。

 こんどの病棟でも断られるかもしれない、と思いながらも、手にも障害がある私にはうまく包帯を巻き直すことはできそうにない。回ってきた看護師さんに「あのう、包帯が緩んでしまって…」と言うと、「あ、巻き直しましょう」と、いとも簡単に手際よく包帯を巻き直して、きちんと留めてくれた。

 「この病棟は、特別に優秀な看護師さんを集めているのですか」と聞いてみた。「そんなことはないけれど、いろいろな資格を持っている人がいます」と言う。病棟に配属される前に、患者に対する言葉遣いなどマナーの講習を受けたそうだ。なるほど、看護師の技能以前に、ひとりの人間として相手の立場に心を寄せ、よく話を聞き、応対する能力を身につけるのは大事なことだ。何より重要なのは、相手を思いやる心だ。

 

 この本に報告を寄せているのは、さまざまな職場で経験を積んできた看護師たちだ。治療のすべのない患者であっても、ひとりひとりが最期まで力を尽くして生き切ることができるように、どんなことでもして援助したいと努力を重ねている看護師たち。こんなにもたくさんの看護師たちが、患者に寄り添おうとして真剣に努力している。胸が熱くなった。

看護師の仕事の内容は、たしかに昔とは変わってきた。これからも、さらに変わっていくだろう。時代の要請に応じて仕事内容が変わったとしても、病み傷ついている患者に寄り添おうとする思いがあるならば、看護師は患者にとって最大の味方になる。患者はひとり孤独に戦わなくても、メッセンジャーナースといっしょに病気に立ち向かっていくことができるのだ。

 

この本を読んでよかった。これから一生続く私の病気との戦いに、メッセンジャーナースが寄り添ってくれるかもしれない。そのためにも、メッセンジャーナースの数が増えてほしい。

メッセンジャーナースの存在を多くの人は知らない。まずは一般の人たちにメッセンジャーナースのことを知ってもらうこと。この本が、医療関係者だけではなく、広く一般の人に読まれるようにと願っている。

 

なお、付図の字が小さくて読みにくかった。もう少し大きくするか、文章にして文中に挿入してもらった方が分かりやすいと思った。〔完〕

2016年6月18日 (土)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑫ああ、こういうことだったのか。これを読んで腑に落ちた。広く一般の人に読まれるようにと願っている。

◎ 第七章 メッセンジャーナース認定協会の設立と関連事業について

・吉田和子さんは現役を退いたあと、見舞いなどで病院を訪れるとき、看護師の存在が薄くなったと感じた。

《看護師としてベッドサイドケアを充実させたいという、その切なる願いのために、看護師でなくてもできることは他に移行し、業務のスリム化を図ることに腐心しました。しかし、その分、ベッドサイドケアは充実したのでしょうか。》(P.313~314)

そばにいることが少なくなったということは、患者にとっては看護師が身近な存在ではなくなったということではないか、と書く。なぜ、こういうことになったか。

《医療保険制度による在院日数の短縮化のために各疾患の治療工程表ともいえるクリニカルパスが用いられ、その計画表に沿った治療処置に追われてしまったこともあるかもしれません。また安全管理上、その対策のために説明と同意書の書類も増え、それらの確認と整理に費やす時間も多くなったと聞きます。こうしたいくつかの要素が重なり、看護師の人数は増えても、目の前のルーチン業務に追われているということもあるでしょう。》(P.314)

 

*ああ、こういうことだったのか。これを読んで腑に落ちた。昨年、入院した時の、看護師と患者の隔たり。看護師は患者に寄り添うものと思っていたのに、看護師の視線はいつもコンピューターに向かっている、と妙な違和感をおぼえた。

病気で気弱になっている患者は、よほどのことがないとナースコールを押すことはしない。顔なじみになった看護師と、ちょっとしたおしゃべりができるような関係ができて、はじめて心の中を明かすものだ。気ぜわしげにベッドサイドに立って、「なにか困ったことはありませんか」と聞かれても、「いいえ、別に」と答えてしまう。忙しい看護師さんの手を煩わせてはいけない。やっかいな患者、と思われてはいけない。だれしも、よい患者になろうと思っているのだ。 

2016年6月17日 (金)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑪熱心に仕事に向き合っている看護師ほど深く悩むのではないか

◎ 第六章 メッセンジャーナース研鑽セミナーとそこでの学び

・村松静子さんが二〇一〇年にメッセンジャーナース研鑽セミナーを開くに至った経緯とセミナーの内容を記している。

 村松さんがメッセンジャーナース構想を考えていたころ、過去に看護師をめざしたことがある方から手紙が来たという。《メッセンジャーナースであるためには、その絶対条件として、まず「受ける」ことに熟達したヒアリング・ナースでなければならない。》(P.268)

ヒアリング、つまり患者の語ることを「聴く」ことに熟達していなければならない、というのだ。そのためには、看護の知識があるだけでは足りない。相手の趣味や人生観、豊かな教養、見識、学識などの素養や知識が必要になる。そのような専門内外の複合的な知識、経験を持ったうえで、さらに「聴き取る」という技能も必要になる、と書かれていた。

さらに、

《この技能を習得するためにも、やはり専門の養成機関や教育施設、研修、プログラム等が必要となる。そして、こうした聴き取りに必要な専門技能もまた、従来の看護教育や業務の中で得られるようなことの再履修や再教育では不十分である。たとえば警察などにおける尋問の要領のほか、心理カウンセラーや精神科医などが用いる対話療法など、あらゆる状況下で相手の主張、訴えを的確に把握しうる「聴取のプロ」となるための技能の取得ということでなければならないだろう》(P.269)

 

・村松さんは、さらにこう書いている。

《医療の高度化・診療報酬の混沌さにより、現場はますます複雑化していくことが予測されます。看護師の中には、本来の役割が果たせていないと嘆き戸惑う人も増えていくのではないかと思われます。

一方、もっと本来の看護はできないものかと悩んだときに、フッと気づく。身についている観察力・判断力、高度医療の知識は活かせるのではないか、これまで経験した多くの事例を基に対話の研鑚を積むことで、看護力は磨けるのではないか。

 こういう思いを受けて動き出したのがメッセンジャーナースたちです。そうした人たちは口をそろえて言います。「メッセンジャーって、看護の根っこの部分ですよね。私はここが大切だと思うんです」と。》(P.273~274)

 

 村松さんの目は、先を見すえている。このままでは看護師たちは本来あるべき職務を見失ってしまう。熱心に仕事に向き合っている看護師ほど深く悩むのではないか。

 さまざまに考え抜かれた研鑽セミナーの内容が、P.272に紹介されている。セミナーにかける村松さんの並々ならぬ情熱が現われている気がする。この情熱が、周りのものを動かさないわけはない。参加した看護師たちは、今までの経験で身についた技能と感覚が、本来の看護の仕事に生かされていくことに自信と喜びをもって、実践の現場に戻っていったことだろう。 

《メッセンジャーナース認定証を受けたベテランナースたちの表情は実に清々しく、誇り高く映ります。看護は実践なくして語れません。看護は実践なくして評価されないのです。》(P.274)

2016年6月16日 (木)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑩大きな惨害、経管栄養や吸引が必要な重度の障害を持つ人は

◎ 第五章 被災地におけるメッセンジャーナース 「ここさこらんしょ」で心の復興を

・二〇一一年三月十一日、東日本大震災が起きた。福島県の仲野佳代子さんは、セカンドハウス「ここさこらんしょ」開設の経緯をこのように書いている。

 震災直後、村松静子さんから「私たち看護師に何ができるか? 救われた命を避難所では死なせたくない。今こそ、これまで長年あたためてきたセカンドハウス構想を福島の地で実現したい!」と声がかかる。突然、被災者となった大勢の人たち。せめて一軒家で過ごせたら、傷ついた身体や心が和むのではないか。原発から六十キロメートル離れたところに見つけた庭つきの一軒家。「ここさこらんしょ」と名づけた。被災した人たちが暮らせるように奔走した。ひとりでは限界があることだが、全国からボランティアナースが集まってきた。

最初の入居者はIさん夫妻。夫は経管栄養や吸引が必要だった。庭つき一軒家のセカンドハウスで本当の家族のように、助け合いながら暮らすことができた。

 

*大きな惨害が起きて、テレビに避難所でのようすが映し出されると、私は避難所では暮らせない、と思う。ベッドに寝ること、椅子に腰かけることはできても、床に座ることができないし、座った状態から立ち上がることもできない。これでは避難所暮らしは無理だ。こういう障害をもつ人は多くいると思う。障害者や病人は震災の後、どのようにして暮らしていたのだろう。まして、Iさんのように経管栄養や吸引が必要な重度の障害を持つ人は、どうしたらいいのだろう。「ここさこらんしょ」のような「家」があって、家族のように助けたり助けられたりして、そこにプロのメッセンジャーナースがいてくれる。どんなにありがたいことだろう。

《ボランティアに参加するナースたちは、決して何かをしてあげようという傲慢さはありません。自然に擬家族として溶け込む人たちでした。》(P.228)

 

 仲野さんはまた、このように書いている。

《人の心が復興していくには、当たり前の生活が基盤になければ難しい。(略)ひとりひとりの当たり前の生活を知り、どんな生活を希望しているのかを知ることから始めなければいけない。(略)同じ志をもつナースがつながれば、そこから何かを生み出す動きができる、それがメッセンジャーナースだとも感じています》(P.231)

2016年6月15日 (水)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑨いつか必要になった時のために、このぺージに大きな栞を挟んだ

・武田美和さんは、在宅看護研究センターの働きを、Nさんという癌の終末期の患者を通して記している。自分の死に場所に「病院」ではなく、「住み慣れた家」を選んだNさん。在宅看護研究センターが依頼された時間は、毎日十八時~二十一時の三時間。

《出過ぎず引きすぎずの関わりで、残された時間のないNさん本人の思う通りに過ごせるように考えたのです。当社のスタッフには「必要な時に、必要な看護を、必要なだけ」という理念があります。》(P.214)

Nさんの希望は、身体の状況にあわせて刻々と変化していく。最初は、「ひとりになってやりたいことがある」と言って、知り合いへの電話やメールでの連絡、施設に入っている母とに面会、研究者としてやり残した授業の口述筆記を家族に手伝ってもらいながらやり遂げ、三通の遺書も書いた。

つぎの段階でのNさんの希望は、「自分でトイレに行きたい」だった。ベッドのそばに置いたトイレに座っているだけでも、エネルギーをふりしぼり、命を燃やし尽くしているように見えた。そして、しだいに朦朧としていることが多くなっていった。「ごくごく飲みたい。喉が渇いている」と訴えるが、一日にわずかな水しか口に入らなくなった。それでも、時おりユーモアを交えた会話ができた。学生時代のこと、恋愛、仕事、社会に対する自分の考えなどをスタッフに話したという。「大丈夫、大丈夫」と自分に気合を入れて、Nさんは全力を傾けて生き切った。

《まだできることがあるということがNさんを支えていました。》(P.217)

 メッセンジャーナースたちは、家族と話し合いを重ねながら、Nさんの最期のときまで寄り添った。

《メッセンジャーナースは、研鑽セミナーでいかに看護師として医療中心の思考になっていたのかを振り返っているので、医療者寄りではなく患者・家族の立場で看護を提供する視点を持ち合わせています。そのためNさんに関わった八人のメッセンジャーナースは、Nさんの今の状況にあわせ看護を行うことができたと思っています。(略)Nさんの自宅で、Nさんの状況にあわせた看護は、出過ぎず、引きすぎず、状況の変化を把握して、五感を駆使して寄り添うことでした。》(P.219)

 

*これを読んで、私もこのセンターの看護援助を受けたい、と思った。いつ、どのような事態で最期を迎えるのかは知ることはできないが、ひとり暮らしで病気持ちの私も高齢になっている。いつ最期が来てもおかしくはない。この在宅看護研究センターは新宿にあり、《有料訪問看護は、希望があれば可能であるかぎり受けています。東京都下、近県であれば訪問しています》とある。いつか必要になった時のために、このぺージに大きな栞を挟んだ。

2016年6月14日 (火)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑧メッセンジャーナースたちの思いを覗くと・・その3

・田口かよ子さんには忘れられない二つの出来事があった。

ひとつは、父親が肺がんになって入院した時、その変わり果てた姿に衝撃を受けた。何とかしなければ、と開設されたばかりのホスピス病棟に行く。そこで初対面の医師に、混乱した感情のまま、とりとめもなく今の思いを話す。

《医師はただじっと聴いてくれました。すると私の中で、ふっと力が抜けていくような感触がひき起こされたのです。ひとりで抱え込まなくてもいいんだというきもちがうまれ、ただただ、ありがたかったことを今でも鮮明に思い出します。「聴く」という行為に、これほど人を癒す力があることを心から実感しました。「聴くこと」で、相手を「受容する」というメッセージを伝えることができるということを体験したのです。このときより、「聴く」ということが私の最も大切な看護になりました。》(P.200~201)

二つ目は、村松静子さんとの出会いだ。地域医療連携室でさまざまな相談に対応している中で、ときには患者から強い怒りや理不尽な怒りを浴びせられて、落ちこむことがある。「聴く」ということを一番大切な看護として、自己研鑚を重ねてきたはずなのに…と自分自身に嫌悪感を抱くことさえあったという。そのような時に、村松さんと出会い、メッセンジャーナース研鑽セミナーに参加した。そして、気づく。「私は本当に聴くことができていたのか」と。

田口さんはさらに経験を重ね、わかったことがある。それは、

《人は、その人自身に問題を解決する力があるということ。(略)短い時間のなかでも、相談者が語ることで、その語りから自らの思いに気づくに至ったのです。情報を与えることは大事ですが、もっと大切なのは目の前で語られることに耳を傾け、本人の気づきにつながる〝そのひと言〟が見つけ出せるかということです。二つ目は、メッセンジャーナースは、医療の真っただ中にいる人をつなぐだけでなく、医療の前段階の時期、どこにも相談できずに悩む人たちもつないでいく役割があるということです。潜在的なニーズをどのようにキャッチするのか? 難しいけれど、とても大切なことであり、ここに、メッセンジャーナースの能力が発揮できる機会があると考えます》(P.204~205)

2016年6月13日 (月)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑧メッセンジャーナースたちの思いを覗くと・・その2

・中村義美さんは、いくつかのエピソードを紹介している。

①末期の肺がんのAさんは五十代の女性。ひとり娘Bさんは母を自宅に引き取り、ギリギリまでいっしょに暮らしていた。介護をはじめたころは不安と緊張の連続だったBさんだが、介護に少しずつ慣れて、一日一日を大切に過ごしてきた。

 そんなある夜、突然、呼吸困難になったAさんは、救急車で病院に運ばれ、翌朝早く、息を引き取った。「ありがとうございました」と中村さんにお礼を述べたBさんの言葉には、看護師に対する感謝というより、自分自身がよく頑張ってきた、という満足感に満ちた響きがあった。中村さんは、「療養者・家族が主役、看護師はあくまで黒子」ということを学んでいた。看護師は、本人・家族の自立を陰で支える「必要な時に必要な看護を必要なだけ」するということを、看護の核としている。

② Cさんは、くも膜下出血、完全球麻痺。胃瘻を作って流動食を入れている。医師は、在宅での介護は無理、と病院を紹介したが、その病院を見学した息子は「とても父を預ける気にはなりません」と自宅に連れ帰った。主治医からは、肺炎を起こす恐れがあるので口からの食事は禁止されているのに、妻は内緒で経口摂取させている。その理由を妻に問うと、「口から食べてこそ、人間は生きている意味があると思う」ときっぱりと答えた。

 その様子を見せてもらうと、Cさんは実に慎重に、小さな杯の湯をほんの少しずつむせることなく飲み下していった。中村さんは、《目から鱗とはこのことでした》と記す。

《私たちは、妻の思いを汲もうとせず、主治医と一緒になって頭から経口摂取は無理・無謀と決めてかかったことを深く反省しました》(P.193)

 そののち、この患者は胃瘻を閉じて経口で食事が摂れるようになったという。このことを通して中村さんは、《療養者・家族の思いを洞察し、医師に伝えることは、看護の本来の機能でありもっとも重要な役割であることを再認識しました》と書いている。(P.194)

③ 中村さんは、Dさんからこのような発言を聞いた。《舌がんの術後、苦痛の一番激しい時に「看護師は治療第一主義で、患者のつらさや将来の不安にまったく無関心であった」》(P.195)

しかし、Dさんは二回目の手術を受けた病院では、看護師に励まされたという。「リハビリとは普段していることをするのですよ」「一年後に外来に来られた患者さんは、ほとんどの人はしゃべれるようになっていますよ」と。このことから知り得たのは、《患者に勇気を与えるのは慰めの言葉ではなく、患者の心に火をつけるヒントとか情報を提供すること》(P.195)

④ 末期のすい臓がんで余命三か月と宣告されたEさん。Eさんの今後について、家族の間で不安、葛藤、迷いがあったと想像されるが、大切なのはEさん自身の考えだ。ゆっくり話を聞くうちにEさんから本音が出た。「検査も治療もいらない。病院より家にいたい」。さまざまに準備を整えて、Eさんの在宅緩和ケアがスタートする。飲食店の三階にある自宅に帰り、子供や孫といっしょに穏やかな生活をすることができた。Eさんは、「子どもたちはもちろん、娘の夫、息子のお嫁さんたち皆がよくしてくれて本当に幸せ」とにこやかに語った。

 メッセンジャーナースのしたことは、Eさんの本当の気持ちを聞き出し、長女が退院後、通院するK病院の看護相談室に行くとき同行しただけ。

《メッセンジャーナースは、必要な時に必要なこと必要なだけ行えばよいのです。個々の価値観や願い、その人らしさに着目し、それを「伝え、叶える」ことに特化した看護サービスをめざしています》(P.198)

2016年6月12日 (日)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑧メッセンジャーナースたちの思いを覗くと・・その1 

◎ 第四章 患者・家族の「こころの風景」 その心に向き合って

・メッセンジャーナースの村中知栄子さんは、末期のすい臓がん患者(住職)との出会いを語っている。残された時間が少なくなったとき、患者の思いは、最期はわが家に帰ること。その願いをかなえようと、関係者(主治医、病棟看護師、MSW,居宅ケアマネージャー、事務職員、在宅酸素業者、訪問看護師、メッセンジャーナース)が立ち合って自宅に担架で移動。長年住み慣れた自宅のベッドに落ち着く。その日の深夜、家族に囲まれて穏やかな最期を迎える。

* 末期の患者を、いくら本人が望んでいるからといって自宅に帰すことは無謀なように思えるが、この丁寧な報告を読むとそうではないということが納得できる。村中さんはこう記している。

《決して在宅がすべてではありませんが、患者の秘めた思いを家族に伝え、どうするのが一番よいか、一緒に悩む時間や空間が必要だと思いました。ある日突然、がん告知を受けて、しかもそれが末期で治療の施しようがないといわれても、その事実を認めることはすぐにはできないことです。経験のないことをどう判断するかは、とても難しいことだと思います。患者本人の限られた時空を頑張れるかどうか判断する情報提供は、当たり前に必要でかつ重要だと思いました。また、自宅に帰ってみても、無理であればいつでも病院に戻れるという情報も、安心材料になるようでした。そして、二十四時間の訪問看護体制も大きな存在でした。》(P.105~106)

 

《「たとえ、治らないとわかっても、精一杯やれることはやった」という思いを持ってもらえたと考えるから》(P.167)と書いている。この言葉も、心に深く届く言葉だ。

 

*村中さんは、もうひとり生涯忘れられないであろう患者・家族のことも書いている。それは、病室で主治医が臨終を告げる場面で、妻が「主人は亡くなってなんかいません。あなたがたに、患者や家族のわずか一パーセントの希望まで奪う権利はないはず!」と言ったという。このように言わずにいられなかったのには、自分たちに対して抑えることのできないほどの憤りがあったのだと、村中さんは考えた。

《思えば、患者や家族のそのときどきの苦痛や不安、怒り、そして希望まで、相手を理解する「対話」の大切さを見失っていたのでした。どうすることもできない現実に慣れてしまっている医療者は、奇跡を信じる患者や家族の思いに立ち止まり、患者や家族の思いを「聴く」ことを軽視して、心の耳をもっていなかったのだと思います。》(P.167~168)

 このことから村中さんは、「聴く」こと、「対話」することの大切さに気づいた。そして、インフォームドコンセントは、患者・家族の思いを聞くことから始めることだと書いている。

 

* P.174の「病院のなかの管理者の役割」とあるが、管理者とはどういう人を指すのか?

 

 村中さんはさらに、今、看護師がさかんにチャレンジしている看護師のスキルアップのことについても述べている。

《いま、看護師の間で盛んに、専門看護師や認定看護師に関心がもたれ、皆こぞってチャレンジしているといいます。たしかに看護師としてスキルアップを図るというのは素晴らしいと思います。看護師も修士や博士を取得する時代になり、医師のパートナーとして患者のキュア・ケアを対等に議論するうえでは、頼もしく、重要な自己投資だと考えます。しかし、「現代社会の医療や介護に対する不安を抱える患者や家族の現実に、誰がどのように支援するか」という、今後の社会での役割を視野に入れたキャリアアップでなければ意味がありません。看護師は何のためにレベルアップを図っているのかを、じっくり立ち止まりよく考える必要があるように思います。》(P.175~176)

 

・「気づいて、察して、つないで、紡ぐ」が、メッセンジャーナースの発案者である村松静子の言葉。だが、これを実践するには、まず患者と家族のことを知らなければならない。どうしても「対話」が必要となる。(P.187)

2016年6月11日 (土)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑦メッセンジャーナースの仕事ぶりを覗くと・・その3

・神奈川県の倉戸みどりさんは、村松静子の著書『開業ナース』を読んで「村松先生のような看護がしたい」と、在宅看護研究センターにかかわるようになる。そこでは、素手の看護、看護の心、人に向き合うことの大切さを教えられ、村松から「実践は、看護の対象である患者・家族に変化を起こすもの」ということを学んだ。

 その後、母親ががんになった。終末期に入った母の看護のために退職。在宅看護の経験と母を在宅で看取った経験から、がん相談員として働くことになる。

《がん医療においては、患者・家族が、医療者が説明したことを正しく理解し納得したうえで治療方法や療養の場を選択することができずに、悩む場面に遭遇することが多くあります。患者・家族と医療者の理解や認識のズレを修正し、患者・家族の思いを受け止め、両者をつないでいくことを、病院のなかでがん相談員のメッセンジャーナースとして行うのが私の役割です》(P.147)

倉戸さんは、四十歳代の胃がんを再発した患者の事例を取り上げている。初回の面談は、患者本人と妻、病棟看護師・がん相談員で行い、二回目は主治医の説明に同席している。本人と妻は前もって質問や確認したいことを話し合ったうえで、ノートに書いていた。それで、具体的な質問事項が明確になり、ひとつひとつに対応することができた。

 

* ノートに書くことはとても大事だ。私自身、膠原病を発病して五十六年になるが、歳をとるにつれて記憶がだんだんおぼろになっている。あれはいつのことだったか? 先生は何と言われたのだったか? それで、発病当初からの「私の病気の記録」をつくって情報を管理している。症状、検査の結果、医師の言葉、私が感じたことなどを記載している。記録にとることで、自分の病気を客観視できるし、具体的に問題点を整理することができる。書くことは有効な手段だと思う。

2016年6月10日 (金)

「父の遺した戦中戦後―近衛文麿主治医・岡西順二郎の日記」の著者、岡西雅子さんから・・・『メッセンジャーナース――看護の本質に迫る』を読んで ⑦全国のメッセンジャーナースの仕事ぶりを覗くと・・その2

・赤瀬佳代さんは、合同会社岡山在宅看護センター「晴」を設立した。

《患者の本音とは、医療の場においては病院であろうが在宅であろうが、患者は遠慮や気兼ねがあり本音を出せない。(略)本音を理解したうえで、その人が本当に望む療養のサポートがしたいと思うようになりました。このようなときに『医療の受け手の使者となり、医療者との懸け橋になる看護師』というメッセンジャーナースのことを知り、メッセンジャーナースを軸として看護を実践したいと思うようになりました。》(P.104)

 赤瀬さんは、乳がんの再発で終末期を迎えている女性と出会う。リンパ浮腫で腫れあがった体を静かにマッサージしながら話を聞く。女性は「誰も私の身体にしっかりとは触れてくれないのよ。炎症が影響しているのはわかるけど…。説明を求めても、納得がいく説明もなくて…。」

 女性はまたこうも言っている。「最近の看護師さんは傾聴してくれるが、看護のプロとしての提案がない」と。話は聞いてくれるが、聞くのみで終わっていることが多い。話を聞くことは大切だが、看護師がもう一歩を踏み出し、プロとしてひとりひとりに合わせた提案ができる、それが当たり前となるような教育が必要だ」と、赤瀬さんは感じている。(P.109)

 

・新潟県の小田直美さん。ご自分が病気になり、入院・手術を経験してはじめて患者・家族と医療者の間に「認識のズレ」があることに気づいた。それは、医療者の説明不足だけでなく、患者側の知識不足にも原因があるという。きちんと説明され、パンフレットも渡されていても、何が何だかわからずに質問ができなかった。説明を受ける時点での患者は、思いもかけない病気になった衝撃で、会話ができない状態になっていることが多いのだ。

・栃木県の山口久美子さんは、こう書いている。

《病気になったときは医療・介護・福祉の統合した情報が必要であるにもかかわらず、ほとんどの人は、病院のシステムや診療内容、入院期間などについて十分な知識を持っていません。自分に合った診療を受けるために、いろいろな情報を整理しておく必要があると思いました。》(P.132) 

そこでメッセンジャーナースの会栃木支部主催で、「かしこい病院のかかり方」というテーマで公開講座を開いた。そこでは、地域の病院の看護部長などにも参加してもらって、病気になったとき、受診したとき、入院・退院したときに困った経験や疑問に思ったことなどを本音で話し合うことができた。住民と病院との情報交換の場になったという。

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