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私のメディア・リテラシー

2021年12月14日 (火)

私のメディア・リテラシー 2021,12.14 尾﨑 雄@老・病・死を考える会プラス 【私のメディア・リテラシー】第14回 「コロナ禍と向き合った看護職のつぶやき」  尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日経ウーマン編集長

 コロナ禍のさなか看護職員が、いわれなき被害を受けている。在宅医療に携わる医療従事者の情報交換ネットワークの一つCNK‐MLで知った。自然災害を含む有事が勃発すると、ひとはパニック状態に陥り、そのはけ口を誰かにぶつける。その矛先は主に行政に向かうのだが、今回のコロナ禍では医療従事者にも向けられた。とりわけ患者や市民に身近な看護職への訴えが目立ったそうである。
ある看護職は、住民から「いわれのない怒りや侮辱」をぶつけられた。「私でよければ怒りをぶつけてください」と受け止め、(住民に対する)ケアの一部として対応」してきた。それは看護職としての強みを生かした対応でもあった。とはいえ、一部の市民からにしても「2年間にわたる叱責には事務も保健所職員も疲弊して市民に心を閉ざしてしまいそう」だった。

続きは☞ こちら

 

2021年11月15日 (月)

【私のメディア・リテラシー】第13回「世代を超え共感を呼ぶ寂聴さんのしたたかさ」  尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日経ウーマン編集長

死せる孔明、生ける仲達を走らす、いや、死せる寂聴、マスコミを走らす。

 

作家・僧侶の瀬戸内寂聴さんが11月9日になくなった。マスコミは、その波乱に富んだ生涯を称え、大々的に報道した。東京新聞にいたっては訃報で1面トップを飾った。他の各紙も多くの紙面を割いて評伝と雑観や識者の談話を競って掲載した。ただ、99歳になるまで誰がどのように介護し、大往生を看取ったのか、それまでにかかったであろう介護費用など庶民がいちばん知りたい情報の提供をマスコミはほとんど忘れていた。我が国は世界一の超高齢社会であり、「お一人様の老後」は社会問題になっているのにもかかわらず……。
詳細は☞ こちら

2021年10月14日 (木)

【私のメディア・リテラシー】第12回 腰砕けの「女性活躍」。クオータ制で突破口を 尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日経ウーマン編集長

10月14日、衆議院は解散され、31日には総選挙の投票が実施される。その前哨戦だった自民党総裁選の立候補者は男性2人vs女性候補2人。男女均等の戦いだった。争点の一つに選択的夫婦別姓の是非もあって女性活躍時代の曙光も見えたようだった。ただ、岸田内閣の女性閣僚は3人に落ち着き、女性登用が進んだ印象は薄かった。さらに岸田文雄氏が行った施政方針演説には注目すべきジェンダーギャップ解消の決意や文言が見当たらなかったことは残念である。・・続きは☞ こちら

 

 

2021年9月22日 (水)

「老・病・死を考える会プラス」世話人(元日本経済新聞編集委員)尾﨑 雄【私のメディア・リテラシー第11回】自民党総裁選の議論に欠落する医療の国家戦略 が掲載されました。

詳細は⇒ こちら

2020年9月12日 (土)

新コラム【私のメディア・リテラシー】第7回 死への準備教育で聖ザビエルを超えたアルフォンス・デーケンさん  尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第7回 フランシコ・ザビエルを超えた? アルフォンス・デーケンさん  2020-9-12

「デーケンさん」。その講演を一度でも聞いたことのある人ならだれでも親しみを込めてそう呼んでいた、アルフォンス・デーケン師が、9月6日になくなった。88歳。カトリックの司祭であり上智大学教授として「死の哲学」を講じた哲学者だったが、むしろ、人びとが死をタブー化しないように導く、デス・エデュケーション(死への準備教育)を日本に広めた功労者として知られていた。

「死への準備をすることは、よりよく生きること」。そんな死生観にもとづく市民グループ「生と死を考える会」をつくり、各地に同じ趣旨の会が広がった。画期的だったのは医師たちへの影響だ。医師の多くがホスピス・緩和ケアを「敗北の医療」と無視する時代に人間中心の医療を目指す一部の医師や看護師らに共感の輪を広げた。我が国に緩和ケア病棟の制度化の基礎を作った柏木哲夫医師(淀川キリスト教病院名誉ホスピス長)は、デーケン先生から二つのことを教えられたという。「人は必ず死ぬということを認識することの大切さ、と(死の)準備をする必要性だ」(9月11日・東京新聞)。国が普及に躍起のアドバンス・ケア・プランニング(ACP)も「死への準備教育」の流れを汲む。上智大グリーフケア研究所の島薗進所長によると「死生学は病院、介護施設などで、医学や心理学と絡めて考えられていた」が、それを一般市民むけに「死に向き合うことは自分を見詰めること」だと訴え、「広く生と死について考える流れをつくり、死生学の裾野を広げた」(同)。

デーケンさんはイエズス会の神父。イエズス会創始者のひとり、フランシスコ・ザビエルは日本にキリスト教伝道の道を開いた。彼は3年間日本で過ごし、彼は志半ばで日本を去ったが、デーケンさんは60年にわたって日本で活動し、ザビエルとは違った形で大きな足跡を残した。その魂の足取りは絵本『人生の選択――デーケン少年のナチへの抵抗』(藤原書店)で簡潔に語られている。ライフワークは「人びとに、生きることは何か、死とは何かを伝えること」だった。多感な少年のときナチスドイツ時代を体験した。4歳の妹が白血病でなくなった死別体験と不条理な戦争体験が彼の人生を決めた。隣人一家が連合軍の焼夷弾攻撃の犠牲になり、自らも機銃掃射から間一髪で命拾いした。ナチのエリート学校入学を推薦されたが拒んで、司祭の道を志し、長崎26聖人殉教者の一人、ルドビゴ茨木の生涯を知る。

ザビエルが鹿児島についたのは1549年8月15日。それから410年後の1959年2月7日、デーケン青年は神学生として、横浜に上陸した。上智大の教員になってから世界のホスピスを医師や一般市民らと見て回り、「日本の津々浦々まで」講演した。2001年にはアメリカのホスピス視察の途上、3000人が一瞬にして死ぬという「9.11.同時多発テロ」に遭遇する。ドイツで味わった不条理の死をアメリカで再び体験したのである。それから19年たった2020年9月11日、東京の聖イグナチオ教会で執り行われた自らの葬儀で、宣教師デーケン神父のもう一つの顔が披露された。

日本に派遣された2年後、アメリカのフォーダム大学で哲学博士の学位を取るが、このアメリカ留学中に日本の将来を分析する。人口統計学的に日本の超高齢化を予測。高齢社会が迫っているにも関わらず、日本人は経済成長がもたらす消費経済に酔いしれ「生と死」の問題が社会の片隅に追いやられている、と睨んだ。デーケン青年は、そうした日本社会の混迷にターゲットをしぼった戦略を練り、日本に帰国する。最大限に活用したのはマスメディアである。服装は背広とネクタイ姿で通し、自己紹介は「私はデーケン。何にもデーケンです。晴れてもアーメン。雨でもハレルヤ」と笑いを取ってから自らの体験をもとに「生と死」について分かりやすく語りかけた。デーケンさんと同じドイツ出身のイエズス会士は、メディアをはじめ社会状況が変わったため、「もう、第二のデーケンは日本には現れない」と語ったものである。

2020年6月27日 (土)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第5回 どう生まれ変わるのか、私たちの暮しを左右する新型コロナウイルス対策会議 尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第5回 どう生まれ変わるのか、私たちの暮しを左右する新型コロナウイルス対策会議 2020-6-27  

後期高齢者の一人である私にとって唯一と言える趣味はメディアリテラシーの実践です。言ってみれば、最寄りの図書館に赴き、その日の新聞を読み比べることです。
6月25日の各紙朝刊は、新型コロナウイルス対策に関する専門家会議の廃止を報道していました。
最も大きく紙面を割いていたのが、朝日新聞です。
1面の脇トップ(トップ記事に次ぐう重要ニュース)に据え、さらに、3面の半分を超えるスペースを埋めて「政治と科学 問われる距離」という問題提起をしていました。
 1面記事の主見出しは「専門家会議廃止、新組織に」です。政府は、医学的見地から政府に助言を行ってきた専門家会議を廃止し、社会・経済の専門家など幅広い専門家を加えた新たな会議体を立ち上げるというニュースです。「コロナ」担当の西村康稔経済再生大臣によると、専門家会議は「位置づけが不安定」であるから、新たなコロナ対策会議を設置し、「感染防止と社会経済活動の両立を図る」ため、感染症の専門家以外に自治体の関係者や情報発信の専門家らを加え、感染の第2波に備えるという狙いだそうです。

<微妙な立場に追い込まれたかっこうの専門家会議>  

いっぽう、専門家会議は脇田隆字座長ら3人が政府の記者会見と同じ24日、日本記者クラブで会見を行いました。その主旨は概ね以下の通りです。
「(感染症防止)対策の実行は政府が行い、現状分析と評価は専門家会議が政府に提言するという役割分担」のはずだった。ところが、実際は「国の政策を専門家会議が決めているようなイメージ」を国民に与えてしまった、という主張です。
 私は政府の会見には出られなかったものの、専門家会議の会見は日本記者クラブのオンライン中継で全容を知りました。専門家会議の位置づけが曖昧なため、会議メンバーらも「役割以上の期待と疑義」を持たれていることは承知しており、そうした世評に対する反論と反省がにじむ記者会見でした。専門家会議の主要メンバーの思いはオンラインの映像と音声でも、その口調と表情が如実に伝わってきました。感染症の専門家のほかに医療と社会・経済活動など両立を図るための新組織づくりには政府の歩調と合わせてはいるものの、奥歯にものが挟まったような印象を受けました。
 この間の微妙ないきさつは6月26日付けの日経新聞の朝刊が書いていました。
――政府、コロナ新会議設立 方針『逸脱』封じ 権限明確に 廃止の専門家会議とは溝――という記事(政治面)です。

<「感染防止と社会経済の両立」というミッションの行方>   

それによると「5月の連休が明けて政府が緊急事態宣言の解除を急ぐようになると、政府と専門家の考え方に溝が生じ始めた」そうです。事業者や企業の休業や活動を事実上押さえこむ自粛要請が長びくと、経済が委縮するという風評と批判が広がってきたため、政府も地方自治体も政策のウェートを、感染防止よりも経済の延命にシフトせざるを得ないからです。
いち早くコロナ対策に手をつけた杉並区の田中良区長も「ライブハウスのロックコンサートならともかく、静かに音楽を聴くクラシックの演奏会まで規制するのは行き過ぎ」と語っています。
 専門家会議も「感染防止と社会経済の両立」が必要なことは分かってはいるものの、やはり「病気のことは、先ずは専門家に任せて欲しい」というのが本音なのでしょう。記者会見には国の政策が社会経済の“延命”にシフトしても「感染症の専門家は関与すべきだ」とする専門家会議の本音がにじみ出ていました。
そう考えると、25日付けの朝日新聞が専門家会議のあり方について考えるべき点があることを他紙よりも強調したことは意味があります。同じ日の日本経済新聞も社会面で専門家の助言のあり方に課題がある、と指摘していました。
 新たにできる組織のミッションは二つ。
一つは、感染の第2波への備え。もう一つは感染拡大を押さえつつ経済活動を再開することです。ブレーキを踏みながらエンジンをふかすという矛盾した政策をどう作って、実施するのか。
7月には新組織は発足するようですが、私たち一般市民の暮しに直接かかわる問題だけに、新聞やテレビなどメデアはこれから動向を的確に報じてほしいと思います。

2020年6月 1日 (月)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第4回 政府が無能なのに、コロナ対策が成功したわけ 尾崎 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第4回政府が無能なのに、コロナ対策が成功したわけ2020-6-1
 新聞を開くと、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の生真面目な記事が多いが、緩い話も載っている。たとえば、5月30日づけの朝日新聞土曜版のコラム「日本人は勝手にやってきた」。政府が無能だからこそ、ほかの国に比べてCOVID-19の感染者と死亡者を少なく抑えることができている、という。
安倍総理は「日本ならではのやり方で、わずか1カ月半でCOVID-19の流行をほぼ収束させることができた」と自負し、「すべての国民のご協力、ここまで根気よく辛抱して下さったみなさまに心より感謝申し上げます」と述べた。これを受けて「日本人は勝手に……」は、「コロナ対策がなぜか、うまくいっている」のは「(政府が)無能なのに、じゃなくて、無能だからこそ、うまくいっている」と手厳しい。専門家会議の議論を尊重してきた政府が無能かどうかはともかく、国民の多くは政府が提示した施策に納得がいけば罰則なしでも従い、施策の効果を上げ、結果的に公共善に貢献した。このコラムの筆者は小説家の保坂和志氏。表現は過激とはいえ多くの文学賞を取っている作家らしい指摘である。
“異邦人”も似たような日本人観を持っているという。ラグビー日本代表のエディ・ジョーンズ前ヘッドコーチは「日本人は上に言われるから規則に従うのではなく、もともと日本人には規則に対する強い敬意がある」と。ここで言う「規則」とは「ものの道理」のことだろう。日本人がほんとうに遵法精神に富んでいるかどうかはさておき、「三密」禁止とかソーシャル・ディスタンスの保持といった常識的に納得できる「要請」なら遵守する賢さを備えているようだ。これが話題の「ファクターX」の一つかもしれない。

「ファクターX」を探せ!
「ファクターX」とは、iPS細胞を作製してノーベル賞を受けた山中伸弥氏(京都大学iPS細胞研究所・所長)が自身のサイトで問題提起した考え方である。山中氏はこう述べる。「新型ウイルスへの対策としては、徹底的な検査に基づく感染者の同定と隔離、そして社会全体の活動縮小の2つがあります。日本は両方の対策とも、他の国に比べると、緩やかでした。PCR検査数は少なく、中国や韓国のようにスマートフォンのGPS機能を用いた感染者の監視を行うこともなく、さらには社会全体の活動自粛も、ロックダウンを行った欧米諸国より、緩やかでした。しかし、感染者や死亡者の数は、欧米より少なくて済んでいます。何故でしょうか?? 私は何か理由があるはずと考えており、それをファクターXと呼んでいます」
山中氏があげるファクターXの候補は7つ。①感染拡大の徹底的なクラスター対応の効果、②マスク着用や毎日の入浴など高い衛生意識、③ハグや握手、大声の会話などが少ない生活文化、④日本人の遺伝的要因、⑤BCGなど、何らかの公衆衛生政策の影響、⑥2020年1月までの何らかのウイルス感染の影響、⑦ウイルスの遺伝子変異の影響――である。 
日本固有の「恥の文化」が感染拡大を押さえた?
この問題提起は、瞬く間にメディアに拡散した。たとえば、6月4日号の『週刊新潮』は、「手洗い・マスク文化」「BCG」だけではなかった“重大要素”とか、「重症化回避の遺伝子を探せ」慶大・京大研究班が「ゲノム解析」とかいった記事を載せている。山中氏の「候補」には入っていないが、「日本人は勝手にやってきた」は8番目のファクターX候補かもしれない。5月31日の日本経済新聞のコラム「春秋」はルース・ベネディクトの『菊と刀』にかこつけて書いた。日本固有の「恥の文化」が影響しているという見立てである。
COVID-19の正体は、日本上陸当初に比べればおぼろげに見えてきたとはいえ、治療薬はもとよりワクチンの開発もハッキリした見通しが立っていない。したがって「ウィズコロナ」とか「アフターコロナ」とかいうウイルスと共生するための議論は百家争鳴。それだけに「ファクターXを明らかにできれば、今後の対策戦略に活かすことができるはず」(山中氏)だ。「日本人は放っておけば、勝手に努力して、勝手にあれこれ工夫する。そういう人たちのあつまり」(保坂氏)だ。リーダーシップの不在が叫ばれて久しいが、中国の一党独裁や韓国のIT監視網による電脳独裁などに比べれば、「ものの道理」を弁えた国民が「勝手にやって」くれるようなレッセフェール(自由放任)体制の方がましなのかもしれない。

2020年4月23日 (木)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第3回 「新型コロナ」の前と後 世界はどう変わるだろうか 尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第3回「新型コロナ」の前と後 世界はどう変わるだろうか 2020-4-23

世界的ベストセラー、「サピエンス全史」の著者であるイスラエルの歴史学者、ハラリ氏によれば、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、いまこそ人類史の転換期だと言う。
かつて日本人が歴史の節目に立たされた日があった。1945年8月15日である。それまでの「国のかたち」が全否定された日だ。私が「転換期」を実感したのは、2001年。世界を震撼させた「9.11.同時多発テロ」の当日、ニューヨークにいた。炎上するツインタワービルが崩落する姿を目の当たりにした。その歴史的瞬間にアラブ系らしき市民が悲鳴のような叫びをあげていた光景を忘れない。

神が人間の傲慢さに怒り「新型コロナ」を地球にばら撒く?
「世界は変わった」と直感したのはこのときである。新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、それ以来の衝撃である。米国のジョンズ・ホプキンス大学によると、2020年4月22日現在、新型コロナウイルスの感染者は世界全体で261万人を超え、死者数は18万人に達した。圧倒的な感染の広がりとスピード、地球経済と国際政治に及ぼす深刻なインパクトは9.11.テロやリーマンショックとは桁違いに大きい。大袈裟に表現すれば、人類は、これまで営々として築いてきた文明の袋小路にはまっているのである。地球環境問題、先進諸国の出生率低下、貧困格差の拡大……をもたらした科学至上主義、合理主義的な経済システムや民主主義の限界は、人間という種が獲得してきた成果の意味を根本から問い直している。現在の惨禍は、わが物顔に地球を支配してきた人間の傲慢さが招いたのではないか。
人間の傲慢さを突いた物語は「ヨブ記」だ。「旧約聖書中もっとも注目すべき、重要なものの一つで、文学作品としても世界文学の最高峰のうちに数えられる」(文庫版解説)とされる古典である。 
神を畏れ敬うことこのうえなく深く、道徳的にも信仰においても非のうちどころのない暮らしを続けてきたと自負するヨブに、神は次々と過酷な試練をくだす。サタンを地上に遣わし、10人の子どもと莫大な財産をことごとく奪い、「足の裏から頭の天辺まで悪い腫物」に覆われる悪疫に感染させる。ヨブは、神の非情に抗議するが、神は創造主に人間が逆らうこと自体けしからぬとはねつける。神は「自分を中心に創造の世界を見、自分を創造者と対置した」ヨブの傲慢さを厳しく指弾した。「すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し ひとり残らず塵に葬り去り 顔を包んで墓穴に置く」(新共同訳)と。この物語の主人公、ヨブは現在の人類の姿そのものではないか

『智慧』の伝統を発展的に継承して深く思索する
人類はあたかも全知全能の神のように地球に君臨してきた。地球の資源や生態系を思うままに収奪し、破壊することによって豊かで便利な暮らしを謳歌してきた。あまつさえ遺伝子操作にまで踏み込んで神の領域を侵しつつある。ここにいたって、偉大で慈愛に満ちた神もさすがに堪忍袋の緒が切れ、サタンを地上に遣わし、新型コロナウイルスを地球上にばら撒いたのではないか。旧約聖書に拠って建つイスラエル生まれの歴史学者、ハラリ氏は3月31日付けの日本経済新聞に論文「コロナ後の世界へ警告」を投稿し、冒頭にこう書いた。
「人類はいま、世界的な危機に直面している。おそらく私たちの世代で最大の危機だ。私たちや各国政府が今後数週間でどんな判断を下すかが、これから数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化をも変えていくことになるということだ。新型コロナの嵐はやがて去り、私たちの大部分もなお生きているだろう。だが、これまでとは違う世界に暮らすことになる」。
人類は、ITやAIを駆使したデジタルイノベーションやデジタル・トランスフォーメーションを駆使して世界の再生を試みるだろう。それで人類は存続するだろうか。「ヨブ記」の著者は「当時の最高の知識人であっただけでなく、人生の苦難に打ちひしがれたつらい経験を持ち、しかも正しく『智慧』の伝統を発展的に継承して深く思索した人であった」(岩波文庫版解説)。だとすれば、「『智慧』の伝統を発展的に継承」し、「深く思索」することなしには、人類は「新型コロナ」よりも手ごわいウイルスの脅威に繰り返しさらされる。なき人類に未来はない。

現代のヨブ、人類は己の傲慢さに気づくか
21世紀における『智慧』とはなんだろう。
諸外国では、ウイルス感染を防ぐため罰則付きの外出規制を実施し、それなりの効果をあげている。これを我が国でも踏襲すべきか否かについて議論が分かれているが、iPS細胞の作製によりノーベル生理学・医学賞を受けた山中伸弥氏はこう語る。
「普段、私たちは気付かないうちに社会システムに守られ、研究や移動などの自由を謳歌している。今のような公衆衛生上の危機に直面した場合には、いっとき自由な行動を我慢してでも社会を守らないといけない。中国の武漢やイタリア、スペインのような状況では、罰則を伴う強硬措置もやむを得ない。そうならないために一人ひとりが自らの行動を変える必要がある」(4月20付け日本経済新聞のインタビュー)。
科学史家の村上陽一郎氏は、「一部の権威ある人々がすべてを決定した時代と異なり、今は社会にとって何が合理的なのかを最終的に判断するのは市民だ」(4月11日付け・日経)と明言し、「個人の良識や常識、健全な思考に私たちの未来はかかっていると再認識すべきだ。自然の謎や『わからないこと』と真摯に向き合い、問い続ける。その継続によって良識は養われる」(同)と指摘した。「コロナ」後の世界では、市民的な良識の創造が不可欠なのだ。
自らの傲慢さに気づいて悔い改めたヨブは、財産が倍返しに増え、病気は完治し、140歳の長寿を全うした。「ヨブ記」は2500年前の物語だが、21世紀もの人類は自らの傲慢さに気づき、行動変容をするかどうか。

2020年4月 4日 (土)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第2回「民主主義は不可能」か?  尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

第2回「民主主義は不可能」か? 2020-4-4 
 土曜日の朝。珈琲カップを手にテレビのニュースショーを眺めていた。
 口は悪いが、世間をよく知るヘルスケア事業者の某氏に言わせると、テレビのニュースショー出演者には「テレビ芸者」が目につくという。確かに新型コロナウイルス感染症を扱うテレビ番組を見ながら、「今日はあの教授は服を変えてきた」とか「あの先生は開業医のはず。自分の患者はいつ診るのか」といった勝手な感想を抱く。

 問題はテレビショーの中身だ。テレビならではの切り口もあって教えられることも少なくないけれども、きがかりな点もある。新聞記事を映像化して識者が解説し、コメンテーターが好き勝手な言葉をはさむのが基本パターンだ。一般市民は新聞やネットをじっくり読み込んで自分なりの意見を考える手間が省くことができて、便利ではある。
だが、自分自身の頭で情報の真偽を考えたり、モノゴトの評価をしたりせず、それらをテレビに丸投げできる装置でもある。ニュースショーは世論形成のコンビニエンス・ストアではないのだろうか……。
 と思いつつ眼をテレビ画面から新聞に移すと、朝日新聞(4月4日)の朝刊に良い記事を見つけた。社会学者、大澤真幸氏のコラム「古典百名山」だ。森羅万象を扱ってきた古今東西の名著を素人にも分りやすく紹介してくれるユニークなコラム(800字)である。

今回(№76)のテクストは、ケネス・J・アロー著「社会的選択と個人的評価」(長名寛明訳)。
 大澤氏によると 「民主主義に反対する人はほとんどいない」が、「1951年に初版が出た本書は驚くべき内容を持つ、(経済学者である)アローは、民主主義なるものは不可能だ、ということを数学的に証明してみせた(ように見える)のだ。
 ここから先がややこしい話になる。「ひとつの社会的決定を導き出さなくてはならない」とき、「(意見の)集約の仕方が民主的であるためには、少なくとも三つの条件を満たさなくてはならない」そうである。3条件は以下の通り。
 第1は、「全員が一致して、AがBより好ましいと判断しているときには社会的決定でも、その通りになるべきだ」
 第2は、「AとBのどちらかが良いかという決定に、これらとは別の選択肢Cに対する人々の好みが影響を与えてはならない」
 第3は、「独裁者が存在してはならない」
 そのうえでアローは、「3条件を全て満たす、(人々の好みの)集約の仕方は存在しない、ということを証明した。前の二つの条件を前提にすると、必然的に独裁者が出てくる」というのだ。このへんの論理は難解だが、「本書を通過していない、民主主義をめぐるどんな主張も虚しい」と、大澤氏は記す。私には、いま一つわかりにくいけれど、大澤氏がコロナ騒動のさなかに、この本を持ち出した気持ちを察する。いまや日本を除く世界各国では反民主主義とも見える動きが広がっているからだ。

 イタリア、フランスなど欧州大陸諸国やイギリスなど民主主義の本家で通行証の所持を義務付け、罰則つきの外出禁止令を発信するなど私権を制限する都市封鎖が行なわれている。その際、住民や市民の了解を得るための民主主義的な手続きを踏んでいるという報道は伝わってこない。ノーベル賞を受けたアロー先生の数学的証明が合っているのかどうかは、ともかく、有事には「民主主義なるものは不可能だ」ということを新型コロナウイルスは事実を持って語らしめている?
 いっぽう、我が国では、安倍総理も小池都知事も、我が国も東京都もコロナ感染によって医療崩壊の「瀬戸際」に立ち、「事実上の非常事態宣言と同じ」状況を認めているにもかかわらず、私権を制限するような措置はしない、できないと頑張っている。すべての措置は「命令」ではなく「要請」というお願いである。法治国家であることがその理由だ。
遅れてきた民主主義の国のリーダーは、いまや民主主義の鑑になった。ただし、その評価は結果で判断される。もし、民主主義を護持によってウイルス感染が終息するか、感染爆発がおきるか、いま現在は誰もわからない。
 
 民主主義は人類史的な意味で鼎の軽重を問われている。人権不在国家の中国ではどうか。真偽のほどはともかく、中国では習近平氏が強権を発し、武漢市を都市封鎖したお蔭で、新型コロナウイルス感染症のオーバーシュートは終息に転じたとされる。独裁は多数の命を救うことによって民主主義の理想を超えたののだろうか。
 いっぽう、世界的なベストセラー「サピエンス全史」を書いた歴史学者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、3月31日、日本経済新聞に「コロナ後の世界へ 警告」を投稿した。
 「人類はいま、世界的な危機に直面している(略)。私たちや各国政府が今後数週間でどんな決断を下すかが、これから数年間の世界を形作ることになる。その判断が、医療体制だけでなく、政治や経済、文化を変えていくことになるということだ」と。
 そこで、「全体主義的監視か、市民の権利か」、いずれを選ぶかという問題に直面する。
全体主義的監視社会を拒むなら、「市民がもっと自分で判断を下し、より力を発揮できるようにする」ため、「科学や行政、メディアに対する信頼を再構築すること」。それは「今からでも遅くない」。ハラリ氏はそう説いている。

2020年3月22日 (日)

新コラム【私のメディア・リテラシー】 第1回「新型コロナウイルス感染症報道とメディア・リテラシー」 尾﨑 雄 Ozaki Takeshi(「老・病・死を考える会プラス」世話人 、元日本経済新聞編集委員)

1942 生まれ。65年早稲田大学卒。日本経済新聞社入社、「日経WOMAN」編集長、編集委員、仙台白百合女子大学教授などを経て、現在は在宅ホスピスを経営する認定NPO法人コミュニティケアリンク東京副理事長など医療・介護福祉団体の経営に関わっている。4月に2040年問題、2060年問題を40歳代以下の世代と考える勉強会「AIDプラス」を立ち上げる。

第1回「新型コロナウイルス感染症報道とメディア・リテラシー」 2020-3-22 
 1929年の10月のことである。ニューヨークの株式市場が大暴落した。それがきっかけで世界大恐慌が勃発し、世界は第二次世界大戦という人類史的な悲劇に巻きまれた。それは、いま生きている人にとっては教科書でしか知らない過去の出来事である。だが、 地球規模で起きた新型コロナウイルス感染症のパンデミックは「オンリー・イエスタデイ」の悪夢をよみがえさせる。

そこで、メディアの功罪を考えてみたい。

テレビ、新聞、インターネットなどのメディアからフェイクニュース、誤報、意図したあるいは意図せざるデマ、ノイズすなわち無視すべき雑情報がばら撒かれ、見えるウイルスとして私たちの暮しを脅かしている。それらを鵜呑みにすれば、パニックになる。情報過剰時代は、下手をすると、取り返しのつかない本当の危機をもたらし、自分が困るだけでなく、他人や社会全体に迷惑をかけ、無辜の人々の命を奪うことにもなりかねない。関東大震災におけるおぞましい「朝鮮人虐殺事件」のように。こうした混乱を暗い目的のために利用しようとする輩は昔も今も、洋の東西を問わず、虎視眈々とチャンスを狙っているのだ。

自らの身を護り、世間や世界が凄惨な愚行を繰り返さないようにするにはどうすべきか?
メディア・リテラシーを身につけることだ。自分自身の責任で世間や世界を認識し、判断すること。それしかない。問題はそれが難しいことである。官・民を問わず、指示を待って動くという「指示待ち人間」の習性に浸ってきたからである。責任ある立場の人たちでさえ結果責任を負おうとしないからでもある。
やっと、その殻を破る人物が登場した。北海道の鈴木直道知事である。彼は2月28日、「緊急事態宣言」を出し、週末の外出自粛や休校などを道民に求めた。
そのニュースが全国に流れたあと、政府の新型コロナウイルス感染症対策専門家会議は3月19日、現状を「爆発的な感染拡大の可能性がある」と発表した。その記者会見で北海道の「非常事態宣言」について「一定の効果があった」(尾身茂副座長)と評価した。
国会が緊急事態宣言の発令を可能にする改正新型インフルエンザ対策特別措置法を可決したのは3月13日。鈴木知事の決断はそれに2週間も先立つ英断だった。

大阪府の吉村洋文知事は19日、大阪府と兵庫県との往来を20日〜22日の3連休中は自粛するよう府民に求めた。それと呼応する格好で、兵庫県の井戸敏三知事も同日の記者会見で、大阪など他の地域との間で不要不急の往来を自粛するよう県民に求めた。
国の特別措置法の発令を待たず首長が為すべきことを判断し、権限を行使したである。北海道知事の判断を見習った行動変容である。ところが、吉村、井戸知事の決断について、20日のテレビ朝日の「羽鳥モーニングショー」は両知事の事前打ち合わせがなかったことを批判した。22日付け朝日新聞も「法の枠外で住民に大きな制約を課すことになりかねない判断」だ、と指摘した。それは、一つの見解ではある。

ただ、今は平常時ではない。首長には非常時ならでは行動変容があってもいい。

それはコトの本質を見落とす枝葉末節の議論ではないか。両知事の決断は、地方分権の本質を自覚した首長としての責任行使であり、評価こそすれ、批判すべきことではないだろう。我が国は中国のような一党独裁の中央集権国家ではないからである。鈴木、吉村の両知事は38歳と44歳。若い地方政治家が中央と地方の行政のありかたを目に見える形で示してくれた意義は大きい。一般市民は会社や家族の日常に追われ、膨大な社会情報を綿密に分析して付きあう余裕はない。従って新聞などが、一般市民に代わって情報を選んで咀嚼し、適切な判断を行うための材料を提供することを行う――アメリカのジャーナリスト、W・リップマンは名著『幻の公衆』(1925年)でそのように指摘した。

昨今、インターネット・メディアのプラス面を手放しで持ち上げる傾向がある。それを危惧するのはわたしのような旧い世代だけだろうか。
今度のような有事にこそ、従来のメディアは改めて適切な報道と解説に努めることが求められている。誤報、ノイズ(雑音的なジャンク情報)や情動に訴えるフェイク・ニュースなどがゴチャマゼになった押し寄せる情報環境において、一般市民に代わって情報の質の見分け方を市民に提供すること。それがあるべきメディアの果たすべき役割である。
むろん、情報の受け手である市民も確かなメディアを選択する分別・見識すなわちメデア・リテラシーを身に着けるべきだ。そのための情報と解説(モノの見方)の提供すること。それこそ確かなメディアの使命ではないか。日々、垂れ流されている玉石混淆の膨大な情報のなかからコトの本質を見分けるためのヒントをもたらす言説を拾い出し、自分なりに世間と世界の真実を読み解いていきたい。

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