「メッセンジャーナース」という称号に誇りを
メッセンジャーナース研鑽セミナーを企画して8カ月、1回生が修了した。メッセンジャーナースという称号に何かを感じ飛びついて来たナースたち、「そう、私たちが必要と思っていたのはここなのよ。ここが足りなかったの。ここが学びたかったの」と頷く姿にホッとしている。先日、「この名称が嫌なのよ。だって、あのメッセンジャーでしょ?説明を受ければわかるけど・・」薄ら笑いを浮かべてそう言った看護職に出会った。これはプライドなのか。受け手の立場に立てば、難しい名称より声がかけやすく、何といってもすぐに対応してくれるのだから、軽い名称の『メッセンジャーナース』、やっぱりこれでいいんじゃないの?
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この国も、社会も、そして介護看護医療等どの
ステージにおいても「混迷の時」といえる今。
逼迫伴う必要性を感じて何か動き出そうとする時、それが新しい事であれば尚の事、名称ひとつ取り上げて(その中身を検証、吟味することなく)いろいろという人はいるでしょう。
ひとつの物事に対し色々な方向からご意見あるのは結構なこと。それが、実践とその実践を伴う論拠をもってのご意見となっている事を望みます。建設的に議論しようではありませんか。
いま、なぜに「メッセンジャーナース」が立ち上がろうとしているのか、そこのところをじっくりと考えて頂きたいものです。
何も行動をせずに、「暖かな部屋から冷たい庭を眺める」ように物事を捉える事は安易で、そして誰にでも出来る事です。
理念あるものは必ず行動を伴うものです。「メッセンジャーナース」たちは今、現に動いているのです、「看護の本質」を体現するために。
投稿: さいたまのおばちゃん | 2010年11月10日 (水) 06時15分